So-net無料ブログ作成
検索選択
前の5件 | -

コヘレトの言葉 4章14~16節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも、この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。(13節)>

「コヘレトの言葉には、民衆の気まぐれさが表されています。愚かな王の代わりに若い、利口な青年が指導者として立つとき、人々は喜び、称賛を送ります。・・・ところが、その勝算はいつまでもは続きません。民が限りなく続いていく中で、いつかこの青年のことは忘れられてしまいます。」と藤田牧師は説かれる。

主に油注がれ、王となったダビデはイスラエルの王の中の王とされた名君であった。しかし、彼も老齢に伴い多くの過ちを犯し、ついには息子アブサロムに王位を奪われてしまった。そのアブサロムもやがて殺されてしまう。

解説書は「貧しくても利口な少年」は、ヨセフだと説いている。彼は父ヤコブの寵愛を受けたため、兄弟の妬みをかい、奴隷商人に売られ、エジプトのファラオの侍従長に買われた。そこで家財管理の才を重用されたが、侍従長の妻の誘惑を退けたため、投獄された。

しかし、獄中でファラオの夢解きをしてファラオの重臣となった。「ファラオは家来たちに『このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか』と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。『…お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。…』(創世記41章)」

この少年をダビデだと言いまたヨセフだという。藤田牧師は「ある人はこの気まぐれな群衆の姿の中に、主イエスをよろこんで迎えながら、わずか数日後に『十字架につけろ』と叫んだ人々の姿を見いだしました。」と、説かれる。

野蛮で教養のない異邦人のローマ帝国の植民地となって、辱めを受けていたユダヤの人々は主イエスの登場に期待した。すべての病を癒す力を持つ彼なら、この屈辱を晴らしてくれる。ローマ帝国を倒すことができるのは彼しかない。彼こそ「救い主」なのだと。

群衆は歓喜の声を上げて主イエスのエルサレム入城を歓迎した。しかし、目にした主イエスは思いがけず簡素な衣をまとった若者に過ぎなかった。その上彼は、神殿の崩壊を予告し、エルサレム滅亡を予告した。群衆の期待が怒りに変わるのに時はかからなかった。

「けれども、どんなに気まぐれで自分勝手な民であろうと、神がその民を忘れたり、見捨てたりなさることはありません。私たちの変わりやすい心と違い、神の御意志は初めから終わりまで変わることがないのです。」と藤田牧師は結ばれる。

私たちの国では何年か前「政権交代」を果たし、マスコミも連日はやし立てた。けれど、未熟さが次々露呈すると、忍耐したり育てたりすることもせず切り捨てた。しがらみやら癒着やら、それが政治だとされているらしい。

それは、政治家だけの話だろう。選挙民一人一人はそのような愚か者であってはならない。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


共通テーマ:

コヘレトの言葉 4章13節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<貧しくても利口な少年の方が、老いて愚かになり、忠告を入れなくなった王よりも良い。(13節)>

際限もなく、孤独に時を惜しんでまで労苦して、さらに富を求め「自分の魂に快いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか。(8節)」と心に思いもしない日常は、コヘレトの時代だけでなく、今もそうかもしれない。

「ひとりよりもふたりが良い。(9節)」どんなに周到な心構えでいても、病気や災害、仕事の失敗などが起こる。その時、労苦を分かち合える友がいる人は幸せだ。実際に債務を担ってくれるような状況でなくとも、苦労を分かってくれるだけで重荷は半分になる。

「共に生きて下さったのは神です。神は初めから私たちと共に生きる相手であって下さいました。私たちの方がそのお方を捨ててしまったのです。それでも神は私たちをお見捨てにはなりません。そのひとり子を与えてまで、私たちをご自分の下に呼び返して下さいました。そして私たちを『友』と呼んで共に歩んで下さいます。」と藤田牧師は説かれる。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ書18章)」

また、コヘレトは「貧しくとも利口な少年の方が、老いて愚かになった王よりも良い。(13節)」と言った。

イスラエル初代の王サウルは、貧しい羊飼いの少年ダビデについて「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼はわたしの心に適った。」と傍に置き「神の霊がサウルを襲う度に、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が休まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。(サムエル記上16章)」とダビデを喜んだ。

しかしやがて、「主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ』サムエルは油の入った角を取り出し…その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。(サムエル記上16章)」サウルは主が自分から離れられたことを知り、ダビデを追放し兵をたてた。しかし、サウルは戦いに敗れて死に、子供が王位を継ぐこともなく、ダビデが王となった。

預言者サムエルの言葉に耳を傾けなくなり、サウルは「老いて愚かになった王」であった。「鏡がなければ自分がどんな格好をしているかわかりません。人の言葉を聞かないというのは、自分の姿を映して見せてくれる鏡を持たないことなのです。」と藤田牧師は結ばれる。

全く話が変わるが、昨日はTVで映画『スラムドッグ$ミリオネア』(原題: Slumdog Millionaire)を見た。教会で学んでいる「十戒」と重なり考えさせられた。学校に行くこともない主人公の兄弟の成長に、コヘレトではないが「十戒が空しいもの」に見えてきてしまった。

波のない池でボートに乗るような生活の中での自分の信仰は本物でないような気がした。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


共通テーマ:

コヘレトの言葉 4章9~12節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。(9.10節)>

「この世界には、いたるところに虐げられている人たちがいます。…そんな現実を見ていると、コヘレトが『太陽の下に起こる悪い業をみていない人』は幸いだという気持ちがわかるような気がします。」と藤田牧師は4章1節を説かれる。

そして「しかし、聖書は、人間の罪が作り出す深い闇を見つめながら、同時に、そこには神によって行われる御業の跡があると告げます。人間が刻むのは罪の歴史かもしれません。しかし、それだけがすべてでないことを、私たちは聖書から聞き取っておかなければなりません。

すべてを造り、治めていらっしゃる神は、必ずそれを完成なさるのです。そのことを知っていないと、この世を生きることは本当に空しいものになってしまいます。」と続けられる。

礼拝説教では「罪」という言葉がよく出てくる。けれども、いつまで経ってもその言葉は自分の心に入らなかった。ある時、洗礼を受けたばかりのMさんに「あなたは親切ね」と言われたことがあった。自分が親切にしたのは、教会での役目上で、少し、面倒だなと思いながらだったので、褒められるのが苦であった。

心から喜びをもって人に仕えることがなく、強制されて動く方なので、親切と言われると、それを期待されているようで面白くないとも思った。けれども、聖書は「心から喜び」隣人に仕えるようにと勧めている。それを知ってそれを行わないのは「罪」なのだ。迷惑を微笑で隠した者の「罪」は大きい。身近なところに罪は潜んでいる。

「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対しての競争心を燃やしているからだということも分かった。(4節)」とコヘレトは、労苦の目的が競争心という罪に向かっていることを咎めている。競争心に煽られ若いスポーツマンたちが苦しみ、淘汰されてゆくのは辛い。

「欲望には際限はありません。…私たちにとって魂に満足を与えてくれるものとは何でしょう。私たちが『これこそ』と思っているものは本当に必要な物で、快いものなのかと、コヘレトは問うているように思います。」と藤田牧師は説かれる。

古家の生活は、蚊取り線香と網戸が必需品だった。けれども、エアコンを終日つけることになり窓は閉じたまま、網戸は不要になった。なければないでなんとか生きて来たものが、それがない生活は考えられなくなった。パソコン、携帯、スマホ、みんなそうだ。

科学が発展し、その技術に倫理が追い付かない。出来ることと、してよいこととの区別は誰がするのだろう。核爆弾発射ボタンを押す者に、倫理を求めることが出来るのだろうか。

日本のキリスト者は1%に過ぎないけれど、みんな心ひとつにして平安を祈っている。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


共通テーマ:

コヘレトの言葉 3章18~22節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊を持っているにすぎず、人間は動物に何ら優るところはない。すべては空しくすべてはひとつのところに行く。すべて塵からなった。すべては塵に返る。(19.20節)>

「死ぬということにおいて、人間も動物も変わりはないとコヘレトは言います。だから、自分の業によって楽しみを得ることこそ、最も幸福なことだと。確かに、死は全てのものに臨みます。そして死んだ後どうなるか、誰も知りません。」と藤田牧師は書き出される。

コヘレトは、人間は特別な存在ではないと言った。人間もまた動物であり、時が来れば死ぬ。そこに差異はない。死んだ後、人間は天に上り、動物は地に果てるというのは、人間の勝手な思い込みで、死後どうなるかは、誰にも分らないのだと言った。

「私たちは、科学発展の中に生きていますが、それでもコヘレトの時代と同様、死んだ後どうなるのかを知りません。聖書も死後の世界について詳しく語りません。けれど、聖書がそれを語らないのは、私たちが知らなくてよいことだからです。」と藤田牧師は説かれる。

「すべて塵からなった。すべては塵に返る。(20節)・・・死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。(22節)」人が死後の生を信じることができない時、人生の意味はなくなる。だから、コヘレトは「空しい」とつぶやいた。

ラザロは墓に葬られて4日も経っていた。主イエスを迎えに出たマルタは、主イエスがここにいて下さっていたら、ラザロは死ぬこともなかったでしょうにと嘆いた。主イエスは彼女に「あなたの兄弟は復活する。」と告げられた。

そして「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と尋ねられた。彼女は「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じます。(ヨハネ書11章)」と信仰を告白した。

Iさんのご主人は、大学での研究が、欧米でも高く評価されていると聞いていた。けれど、突然のくも膜下出血で、外出先で亡くなられた。奥様の嘆きは勿論だが、彼の頭脳が全く灰となってしまった。コヘレトならずとも、すべては空しいと思わざるを得ない。

けれども、クリスチャンは主イエスの復活を信じ、「決して死ぬことはない」と断言されて前を進まれる主に従う者であり、だから不安の中でも生きることができる。

「私たちが死後の世界を知らなくても、神がすべてを治めておられることに変わりはありません。生きている時も、死ぬ時も、私たちはただ主なる神のものなのです。」と藤田牧師は結ばれる。

最近は、町内の高齢者の集まりでもあまり「死後の世界」を云々する人はいない。それよりも、元気に長生きするにはどうするかで盛り上がることが多い。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


共通テーマ:

コヘレトの言葉 3章16~17節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。(17節)>

「裁きの座、正義の座に悪があるのを見たとコヘレトは言います。本来、正義に基づいた裁きを行うべきところで悪が行われるような社会におかれることは不幸なことです。社会が正しい秩序に基づいて形作られていなければ、人が正しく生きようとしたり、真面目に働こうとしたりすることはすぐ失われてしまいます。

正しいこと、悪いこと、夫々に相応しい報いが与えられるような世の中になってほしいというのは、誰もが思うことでしょう。しかし、現実の社会は、コヘレトが言うように、裁きの座、正義の座に悪が宿るということがしばしば起こります。コヘレトが言うようなことは今でもあるのではないでしょうか。」と藤田牧師は書き出される。

以前に起こった事も、今起こっていることも、そしてこれから後に起こることも、すべてが繰り返しだとコヘレトは言う。思わず、今、教会で学んでいる戦時中の教会を考えた。時の政府に「否」が言えずに国民儀礼を実施した日本キリスト教団は「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めを守ることができなかった。

1944年、日本キリスト教団富田満統理は「現代の使徒的書簡」と称して、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡」を送った。原案作成者は、バルト主義者の山本和、桑田秀延、熊野義孝氏である。第1章は「西欧帝国主義批判」に続き「西欧キリスト教批判」が記され、第2章では「家父長主義的な天皇」と題して下記のように記される。

「国民は皇室を宗家と仰ぎ、天皇は国民を顧み給うこと親の子におけるが如き慈愛をもってし給ひ、国民は忠孝一本の高遠なる道徳に生き、その国柄を遠き祖先より末々の子孫に伝えつつある一代家族国家である。我ら国民は、賢くも民を思ひ民安かれと祈り給う天皇の御徳に応え奉り、この大君のために己自身は申すまでもなく親も子も、夫も妻も、家も郷も、悉くを捧げて忠誠の限りを尽くさん。(一部抜粋)」

「全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なる我が日本の国体であるという事実を、信仰によって判断しつつ我らに信頼せられんことを。」

これらの文書は、戦後取り消されたが、これを記した高名な神学者たちが、このことを悔いたという話はない。むしろ、彼らの力で教会が保たれたのだと評価する人々もいる。

天皇の赦しの下に、キリスト教が置かれているのではない。以前に起こったことが、繰り返される。いや、今既に起こっていることの中にあるのだとコヘレトは警告する。

誰もが主なる神を愛する教会の交わりは、何にも変え難い。しかし、その交わりを重視するあまり、失うことを恐れてしまう。主イエスが頭である教会が、そんなに簡単に消えることはないのに。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


共通テーマ:
前の5件 | -