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ヨハネの手紙Ⅰ 5章16~17節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ]

<死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。(16節)>

「ここには二種類の罪が出てきます。」と森下牧師は書き出される。「死に至る罪」と「死に至らない罪」。死刑を宣告されてもやむを得ないような、取り返しのつかないような行為、重い罪が、「死に至る罪」と言われているのではない。

「そうではなく、十字架の死によって私たちのどんな罪もすべて贖い、赦しを得て下さったキリストの御業、そのすでになされている救いを信じないで拒んでしまうことが『死に至る罪』なのです。」と森下牧師は説かれる。

「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして生んで下さった方を愛する者は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守る時はいつも、神の子供たちを愛します。(1.2節)」

この手紙は、AD1世紀後期もしくは2世紀の初頭に書かれた。当時、初代教会は何をもって人を真の神の子とするか定めようとしていた。偽りの教師たちは、イエスは人間のように見えるが純然たる霊的な存在だと説いた。そして肉体のレベルを超える事柄を理解できない人のために掟があると教えた。そして、自分たちは霊的に新しく生まれ変わっているので、罪を犯すことが不可能だと主張し、告白も悔い改める必要もないと言った。

ヨハネは「あなたがたはキリストの愛のうちにとどまりなさい」と説いた。兄弟を愛し、隣人を自分のように愛すること、それは自分に敵対する人をも愛して行くことだと。主イエスは「自分を愛してくれる人を愛したところで何の報いがあろうか。(マタイ書5章)」と山上の説教で説かれている。

ヨハネ自身も、教会を去っていった人々を「もともと仲間でなかった」と責め、「御子を認めない者は誰も、御父に結ばれていません。」と結論付けている。彼も、彼らを許すことが出来なかった。愛は限界を持ち、無理に愛そうとすればそれは偽善に繋がってしまう。

森下牧師は「けれども、ここでは『死に至る罪』を犯している者のことより、『死に至らない罪を犯している兄弟』のための祈りが命じられます。救いを拒むまではいかないけれど、疑いを持ち、躊躇い、嘆き、心を閉ざしている兄弟のために。彼らはまだ、神様のもとにある命へ戻れるのです。だからこそ、その兄弟のために祈りが必要です。」と結ばれている。

「教会を去っていった人々は、主イエスが人であることを認めることが出来なかった。人ゆえに死の恐怖と戦われ、人ゆえに栄光を求める自己と戦われた。私たちと同じ苦しみを苦しまれた。ゆえにこの方は救い主なのです。」とT牧師は説かれた。

確信が持てなくなり、少しの間教会を離れてしまっていた日々、誰かが自分のために祈り続けてくれていたのだと今更ながらに知る。

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ヨハネの手紙Ⅰ 5章13~15節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ]

<何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れて下さる。これが神に対するわたしたちの確信です。 (14節)>

「この世の様々な誘惑や困難の中で、また嘆きや痛みの襲う時、信仰によってわたしたちは強められ、道を示され、慰めや平安を受けることが出来ます。けれどもここでは、信仰とは、そのように人の心あるいは思いの内に働く力に留まるものではないと言われています。」と5章の初めに森下牧師は書き出される。

ヨハネの手紙で記されている「世」とは、世の中全般と解釈することは出来ない。毎日の衣食住は世の人々の働きによって与えられているのは確かなことである。ここで示される「世」とは、主イエスを十字架にかけたユダヤの指導者たちのことである。

彼らは人々に、律法を守ることによって神に認められると教えた。それによって人々を競わせ、律法を守ることのできない人々や病気や身体に障害を受けている人々を罪人として排斥し、自分たちの共同体から追放していた。

「律法学者が進み出て尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである、<イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。>第二の掟は、これである。<隣人を自分のように愛しなさい>この二つにまさる掟はほかにない。』(マルコ書12章)」

主イエスは彼らの教えの歪みをはっきりと指摘された。過去にどんな罪があり、どんな失敗があったとしても、神は私たちの罪を赦し、何の功績もなく罪を償う力もない私たちをあるがままに受け入れ「愛する子よ」と呼んで下さるのだと人々に教えられた。

「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。(3.4節)」とヨハネは人々を励ます。

このヨハネの時代から遠く隔たった今の世であるが、生まれた国や地域による差別や迫害、心や体に病を持つ人たちへの蔑み、信仰についての無理解などなど、巧妙化し闇はさらに深くなっている。解決への努力より、自分の利害を守ろうとする動きが日増しになる。

「『世に打ち勝つ勝利』とは、世に埋もれないような歩みをすること、そして、まだ神さまを信じようとしない人々の中で、ただキリストを信じる者の一人であり続ける事なのです。」と森下牧師は励まされる。

この度の選挙にはがっかりした。結局国民の大部分は変化が嫌いなのだ。自分の考えを持つ者を嫌うこの国にあって、それでも「福音宣教を」と聖書はどの個所も告げている。

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ヨハネの手紙Ⅰ 2章15~17節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ]

<世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。(15節)>

「神様に出会い、神様からどれだけ愛されているかということを知らされた私たちは、自分もこの方を愛して生きようとしています。けれども、それ以前から親しんできた『世』と『世にあるもの』を愛することもやめません。それは、私たちの目や心を楽しませる心地よいものなので、それを止めることは出来ないのです。」と森下牧師は書き出される。

「子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからである。(12節)」

著者ヨハネは、闇の中ではなく光なる神の中を歩むことを、兄弟を愛するという具体的な生き方をもって表して生きるよう勧めて来た。聖書に登場する「兄弟姉妹」というのは、父なる神のもとでの兄弟姉妹であり、血によって繋がれた兄弟ではない。ヨハネの勧めは単なる理想的な生き方の勧めではない。

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(ローマ書3章)」パウロは、主イエスの名によって、罪が赦されているからこそ、そのように生きなければならない。生きられるはず、と勧めている。

Y牧師は「過去にどんな罪があったとしても、どんな失敗をしてしまったとしても、また現在どんな醜い思いが心の中にあったとしても、そして将来に対してどれほどの不安を抱いていたとしても、父なる神は赦して下さるということです。」と説かれた。

先日教会員のSさんから「あなたの一言で前に進めなくなった。」と言われた。そんなことを言ったかもしれないが、相手が傷つくとは思いもしなかった。自分なんか無意識に犯す罪まで入れると顔を上げて歩けないくらいだ。そのたびに、その一つ一つを神様の前で主イエスが「弁護者」となって、執成して下さっているのだ。

「主イエスはそのような意味で罪を犯さざるを得ない私たちの、セーフティネットとしていて下さるのです。それなら、私たちは安心していくらでも罪を犯し続けられる、ということにはなりません。むしろ『たとえ罪を犯しても』、その時には主イエスがその罪を執成して下さるという安心が、私たちを罪と闘わせるのです。」と説かれている。

そこで今日の御言葉「世にあるものを、愛してはいけません」が胸に突き刺さる。「世」とはこの世で生きる人々、そしてそれを支配する悪の勢力であり、愚かな驕りや自己中心的な欲望などを生み出すのが「世」。ついついそれらに流され、安易な道を選んでいる。

「神様とこの世のもの、両方を愛せているという私たちの思い込みがもう一度問い直されています。」と森下牧師は結ばれる。

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ヨハネの手紙Ⅰ 1章5~10節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ]

<わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には全く闇がないということです。(5節)>

「私たち人間は、どれだけ穏やかで愛に溢れ、嘘や曲がったことを嫌い、正義を愛して、行い正しく生きる人であっても、自分自身の心の内に全く闇を持たない人はいません。私たちの内には光が全くないわけではない。ですが、そこには闇が混ざる。そういう曖昧さを持つのが、私たち人間なのです。」と森下牧師は書き出される。

人間は神に創造された被造物で、その点からすると人間は良いものである。しかし、アダムとエバの罪以来、神との交わりが壊れたことから、すべての人に罪が入ったのだと聖書は教えている。それで、罪とは交わりの破壊であるということもできる。

日本の歴史学者の間では「自虐史観」などという言葉が使われるが、聖書の記す原罪とその歴史観は、自虐史観ではない。自分を貶めて自己満足に陥り、執拗に罪を告白したり、謙遜ぶることは、一見立派に見えるが、単なる臆病で自己防衛的であるだけである。

新約聖書の語る罪とは「神の前にある罪」である。神の前に自らのありのままの状態をさらけ出し、罪を悔い改め、主の導きを心の底から求める事。自分の思い込みや願望ではなく、神の御心がなることが最善だと信じる事。そのことが出来ないことが罪である。

「私たちは、基本的に闇の中より光の中を歩みたいと思っているのですが、時に神様や隣人への正しさや愛に生きること、清い思いの内に生きることが面倒になります。そのような自分の身勝手さを許したくなる時があります。それは私たちが持つ罪への傾きのゆえです。」と森下牧師は説かれる。

罪を犯した女性を取り囲んだ人々が主イエスに「・・・こういう女は石で打ち殺せと、モーセの律法で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と言った。彼らが執拗に問い続けるので主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」と答えられた。

「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」戸惑っている女に主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われた。

この出来事の後に、「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』(ヨハネ書8章)」と聖書は御言葉を記す。

「私たちの内には闇が存在します。けれど、神様は『全く闇がない』100%光なるお方です。私たちの内なる曖昧さによって闇の方へ落ち込んでゆくことから私たちを守り、光として輝き、その中で生きるよう、招いて下さるのです。」と森下牧師は結ばれる。

スーパーで赤ちゃんが大泣きした。「うるさいな」と思ってその現場から遠のいた。ママを手助けするなんて考えもしなかった。情けない話である。

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ヨハネの手紙Ⅰ 1章1~4節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ]

<初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言(ことば)について。—―この命は現れました。 (1.2節)>

「この手紙を書いたのは、キリスト教指導者ではないかと言われていますが、この人は『初めからあったもの』、すなわち自分たちが信じる神を、どこか彼方にいるような漠然とした神、という存在だとは考えていませんでした。」と11月の家庭礼拝暦担当、佐呂間教会森下真裕美牧師は書き出される。

初めからあったものが「命」であると言われる。初めに命の言(ことば)が語られたというのではない。初めからあったもので創造されたものではないということになる。「命の言」は、後からやって来たものではなく、造られたものではない。

S牧師は「この違いは大きいのです。」と説かれた。この世に後から生まれた価値観や出来事を考える時、名誉欲、所有欲による権力抗争、国々の利害関係による戦争、これらは多くの悲しみを与えた。個人的にも、生きることに疲れ、病気やケガ、そしてやがて来る死への恐怖からは逃れられない。

これらのことは不可抗力として最初から諦め「裸で生まれ裸で死ぬ」と諦観している。けれど「ここに何の喜びがあるのでしょうか。どんな宗教や感謝、良い交わりがあっても最後は裸なのです。助言はされるが助け出せない神なら必要なのでしょうか。」と話された。

それに対してヨハネはこの書を読む人々に「命の言」は最初からあったのだと、苦悩する人々に向けて喜びを語る。ここから、生きる勇気、勝利のしらせを聞き取りなさいと。

聖書に語られている神は決していかなる時も、後からついて来るようなお方ではない。最初から「ある」というのは、その人の人生が、その人の歩みに先立って神が歩まれ、神の御計画の中にあったということである。苦悩はすべて途中から入ったものに過ぎない。

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン(ローマ書11章)」とパウロは神を賛美する。

人生において出遭うあらゆる苦しみは、すべて事実であり真理であり向き合うべき事態である。しかし、それらは後になって入って来たものである。人生で味わう苦しみから逃れられないように思うがそれらは道の途中で、神は初めと終わりを用意して下さっている。初めに神がおられ、すべてのものの上に神の約束と祝福の言葉が語られる。

この手紙は、1世紀後期か2世紀の初頭に書かれたと考えられている。初代の教会には、内には偽りの教師たちとの闘い、外には激しい迫害という現実があり、著者ヨハネも巻き込まれていたが、初めからおられるお方を見上げ喜びに生き、教会にその喜びを伝えてゆく。

本当の闇を知らない者は、本当の光に出会う喜びを知らない。自分がそうだ。

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