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マタイによる福音書 12章43~45節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<「そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」 (49.50節)>

地の果てにある異教の国シバの女王は、ソロモンの知恵を聞くためやって来た。ソロモンの知恵は神から与えられた知恵だと異教の国にも伝わり、女王はその知恵を求めてやって来た。神の知恵を聞き、受け止め、それに従って生きようと、人間の知恵に頼って来た生き方を方向転換した。だから、彼女からも今の時代は裁かれるだろうと主は告げられる。

主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々が蔑んでいる、異邦人たち、ニネベの町の人々やシバの国の女王を例にとって、彼らに悔い改めを求められた。

「ここにヨナに優る者(41節)」「ここにソロモンに優る者(42節)」とされている「者」は、彼らの目の前におられる主イエスだという説と、ヨナやソロモンを通して与えられた彼らの神への悔い改めを、神は何にも優る価値あるものとされた。彼らの悔い改めが神の奉仕者よりも価値があるとされて主イエスは「…まさる者」と言われたという説がある。

今日の個所は、主イエスに放り出された悪霊が、休む場所を求めて再び元の住まいに仲間を大勢連れて戻ってくるという不思議な話だ。

「主イエスが悪霊を追放されたのは、その人の病を癒すという奇跡を行われただけではなく、それまで、その人を支配していた悪霊に代わって、主イエスご自身がその人の王となられ、導く救い主になられたという信仰の出来事なのです。」と山下牧師は書き出される。

悪霊が元の住まいに「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き・・・(44節)」大勢の仲間を連れて来て元の家に住み着く。

主イエスが悪霊をその人の体から追い出して下さった。彼はその時点で留まったままだった。せっかく、彼が神との交わりに生きることが出来るようにとその道を開いて下さったのに・・・。主イエスが私たちをそのように新しい人間に造り変えて下さったのに・・・。

「悔い改め」は、神に向かって方向転換することが求められる。それがなければ「元の木阿弥」いや、それ以上「その人の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。(45節)」と主イエスは嘆かれる。

「多くの悪霊がはびこっているこの時代の中で、私たちがそれらの支配から真実に解放されるために、半分だけの悔い改めや半分だけの信仰ではなく、私たちの全てを主イエスに明け渡し、主イエスを私の唯一の主と告白し、聖霊なる神が私の内に住み、私を支配して下さるように、願い求めましょう。」と山下牧師は結ばれる。

説教を受けるたびに自分自身の貧しさを思うが、会堂を後にすると世事に紛れてしまう。中途半端な信仰では、却って神を知らない人に誤解を与えているなと反省する。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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マタイによる福音書 12章38~41節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(39.40節)>

「ユダヤ人の指導者であった律法学者とファリサイ派の人々は、主イエスにしるしを要求しました。主イエスがダビデの子であり、旧約聖書に預言されているメシア(救い主)であり、神の最後の裁きを実行し、義か罪かの判決を下すことが出来る神の御子であるならば、そのことを示す目に見えるしるしを見せて欲しいと求めました。」と山下牧師は書き出される。

主イエスがすでに悪霊を追放され28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ。」と明快に「しるし」を彼らに見せられたのに、彼らはそれを認めず、自分たちが考えているしるしが見たいと言った。

その彼らを「よこしまで神に背いた者たち」と主イエスは嘆かれる。そして「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と言われた。

異教の国ニネベへの宣教を神に命じられたヨナは、神から逃れようと船に乗り込んだが、神は嵐を起こされ、ヨナは海に放り出され、巨大な魚に呑み込まれ、三日間、魚の中にとどめられ吐き出された。

「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地は私の上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ、あなたは命の滅びの穴から引き上げて下さった。(ヨナ書2章)」

主イエスはヨナが大魚の中にいたように、ご自身も三日三晩、死んで地の中にいると言われた。神が主イエスを遣わされたしるしとは十字架の死と復活に他ならなかった。

ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた。断食し粗布をまとい、それまでの歩みを方向転換した。「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いを下すのを止められた。(ヨナ書3章)」。

「悔い改めた彼らが、神と共に今の時代の者たちを罪に定めるだろうと主イエスは告げられている。」という解説書を読んで、今の私たちにも突き刺さる。

戦後、経済発展を何よりも優先させた。その結果何かが足りない。先日宇宙学者の話を聞いたラジオのDJが、「それが何かの役に立つのですか」と尋ねると、学者が「私たちはなぜ存在しているのか、そのことを求めているのです」と笑って言われた。

ぼんやりとして、秋の空をみたり、哲学的なことを考えたり、そんな時間をもっと大事にしなくては・・・と思った。

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マタイによる福音書 12章33~37節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうしてよいことが言えようか。・・・(33.34節)>

「神の国の福音を信じないで、聖霊なる神の働きを否定するファリサイ派の人々を、主イエスは『蝮の子ら』と呼びます。蝮は毒のある口によって人にかみつき、その人を殺します。ファリサイ派だけでなく、人間はみなその本性から罪に毒されており、その口から毒のある言葉を吐き出し、その舌で神と人間を呪うのです。」と山下牧師は書き出される。

木と実のたとえは、7章の山上の説教にも登場する。その個所での「実」は、主が語られた御言葉に従って生きる事、すなわち愛を実践することを意味した。けれども、ここでの「実」は、人間の話す言葉を指し、人間を木に、言葉を木の実に例えているとT牧師は言われた。

そして「人間という木は言葉という数々の実を結ぶが、木の実が時を選んで結ぶように、言葉もその時々に出てくる。ファリサイ派の人々という木は、聖霊を汚す言葉という実を結んでしまった結果、彼らの言葉そのものが悪いという程度ではなく、そういう言葉を生み出す人間そのものが、悪いのだと主イエスは指摘されたのです。」と続けられた。

彼らが他の機会に立派なことを語ったとしても、それは悪い木が結んだ木の実なのだと。食べられない木の実によって、彼らの人間性は否定される。そのように語られた言葉は人間性を露わにする。人と言葉が密接な関係にあるのは、神がご自身の語り掛けの言葉と密接な関係において生きておられるということに基づいている。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ書1章)」

「言(ことば)」と訳されたギリシャ語「ロゴス」は、理性や目的をも意味する。「言」はまた、神の力、語るだけで創造できる力をも顕示する。ヨハネ書での「言」は主イエスを指す。主イエスは神からのメッセージを全ての人に伝え、神の力と意思を明らかにされた。
 
「悪い木」の次には「蝮の子ら」と彼らを呼びかけられる。草むらに潜んでいた蝮が人を突然襲うように、ファリサイ派の人々も律法主義を振りかざして、毒のある言葉で人を度々陥れた。人を生かすはずの律法の言葉で彼らは人に害を与えていた。

日本キリスト教会では、「教会員の生活」が教会員の指針として発行されている。先日はこの本を通して「葬儀」について学んだ。棺や写真などへの拝礼、呼びかけ、祈りなどは「してはいけません」と記され、葬儀は他宗教との関わりがあり、難しいなという意見が出た。

「してはいけない」がしてしまうこともある。が、「してはいけないこと」だと知っているのと知らないのでは大違いなのではないかと皆で言い合った。

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マタイによる福音書 12章9~14節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<そしてその人に、「手を伸ばしなさい」といわれた。伸ばすと、もう一方の手のように元通りよくなった。 (13節)>

「安息日に関する主イエスとファリサイ派の理解の違いがここでも明確にされます。ファリサイ派は自分たちだけが旧約聖書の律法を解釈し、またそれに細則をつけ加える権限を持っていると考えていました。彼らの理解によれば、安息日には人間の労働が禁じられているので、命の危険がない限りは治療や癒しの行為は律法に違反すると考えていました。」と山下牧師は書き出される。

「イエスはそこを去って、会堂に…」と、主イエスは麦畑を出て会堂に入られた。そして、そこに片手の萎えた人がいるのをご覧になった。「すると人々はイエスを訴えようと思って、『安息日に病気を癒すのは、律法で許されていますか』と尋ねた。(10節)」

「安息日に仕事をしてはならない」と禁じられているのは、神の創造の御業の完成を覚え感謝するためのものであった。そこでこの場合、命に関わることでない限り、癒す行為は出来なかった。彼らはもし、主イエスがここで治療行為を行ったら、それは安息日を破ったとして訴え出ることが出来ると思った。

また、逆に主イエスが癒されなかったなら、それまでの主イエスの教えと違うといって人々に言い広めることが出来ると思った。大衆の期待を裏切った者だと、主イエスを追い詰めようと思っていた。片手の萎えた人を無視して、彼らは主イエスに対する悪意をむき出しにした。「罪が罪として姿を現しています。」とY牧師は説かれた。

「そこで、イエスは言われた。『あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。』(11節)」と言われた。家畜は神が人間に貸し与えた財産の一つであり、保護しなければならないものであった。

ましてや「人間は羊よりもはるかに大切なものだ。(12節)」と言われた。穴に落ちた羊を助けるのであれば、手が萎えてしまって苦しんでいる者を解放し、安息日の喜びに与らせて下さることは、当然許されていることではないかと、ファリサイ派の人々に言われた。

そして、手の萎えた人に手を伸ばすように命じられた。彼は言われた通りに手を伸ばした。
彼はいきなりそう言われて戸惑いつつ、ともかくやってみた。この「ともかくやってみるのです。この人の信仰がそこにありました。」とY牧師は説かれた。

「医学的な説明は目に見える世界に留まるが、聖書は、目に見える事を通して目に見えないことを示すのです。主イエスというお方は、出エジプトという救いをもたらした神と同じく、人間を解放する神、安息に与らせることのできるお方なのです。」とT牧師は話された。

「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」と、今日の個所は不穏な空気のままに終わる。
 
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マタイによる福音書 12章1~8節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<「人の子は安息日の主なのである。」(8節)>

「安息日の律法はモーセの十戒の第四の戒めであり、ユダヤ人にとって最も重要な戒めの一つでした。神が天地万物を創造され、七日目に休まれ、この日を祝福して聖別されたので、この日にはユダヤ人はすべての手の働きを休んで、神を礼拝する日として聖別し、神の創造と、救いの御業を感謝するように定められていました。」と山下牧師は書き出される。

ある安息日に主イエスと弟子たちは、安息日の礼拝を守るため会堂に向かっていた。大勢の人々や、ファリサイ派の人々も礼拝に向かっていた。その時、主イエスは大通りではなく、麦畑の中を通られたので、弟子たちは麦の穂をつまんで食べた。その姿に、律法の厳守、特に安息日や断食、施しなどを重要視するファリサイ派の人々が批判した。

「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている。」と主イエスに言った。しかし、弟子たちは手でつまんで食べていたので、「隣人の麦畑に入る時は、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。(申命記23章)」と定められているので、その行為は律法では許されていた。

ガリラヤを旅したYさんが、安息日に現地の人から「シャバッド・シャローム(こんにちは、安息日ですね」と挨拶された。が、普段の日は「シャローム」だけなので、いかに安息日を喜ばしい気持ちで迎えているのかがよく分かったと話されていた。

神の言葉に聞き、信頼において安息日を祝う。神が創造の御業を完成されたことを思い、また同時に、神の創造の御業が完成した安息の時が、現れるのを待ち望む。そういう意味で安息日を守ることは、時間において、神がご支配を完成されたことを先取りする。

主イエス誕生の150年ほど前、シリアとの戦いの中で、イスラエルの兵一千人が安息日を遵守したために、シリア軍に殲滅された。安息日は正に命がけで守るものであった。その緊迫感のある安息日に、主イエスは弟子たちの空腹を配慮してあえて麦畑に入られた。

ファリサイ派の人々の批判は、弟子たちが「手で穂を摘んだ」ことにあった。それは、脱穀の仕事をしたことに相当し「いかなる仕事もしてはならない」という戒めに違反することだとした。告発の口実にしようとする彼らに、主イエスは忍耐をもって諭される。

空腹のダビデが供えのパンを食べた旧約の物語を話されると、「もし、『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちを咎めなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」と言われた。

Y牧師はこの御言葉を、「彼らは安息日の掟を振りかざして、人間の思いで安息日を仕切っている。しかし安息日の主は彼らではなく「わたし」である。わたしが安息日をもたらす主に他ならないからだ。わたしは身をもって神の憐みを明らかにし、真の安息を与える。」と説かれた。

そして「神が主イエスをとおして私たちに関わって下さる、憐み深い交わりが、私たちの安息の場、安息の時となるのです。」と結ばれた。

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