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コリントの信徒への手紙1 16章1~4節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。(1節)>

「ここから話題が一転して『聖なる者たちのための募金』について、パウロは語り始めます。これは、エルサレムの集会のための献金のことを言います。」と河野牧師は書き出される。

エルサレム教会は財政的に窮乏の状態にあった。窮乏を招いた原因は、その地方の飢饉がその一つであった。しばしば農作物の不作に見舞われたのである。また、エルサレムはユダヤ教の神殿があり、その中心地であったから、そこで生活するクリスチャンは、周囲との軋轢から職や家族を失う者もいた。生活基盤がぜい弱な信徒が多く、収入より支出が多いのはやむを得なかった。

パウロはエルサレム教会の窮乏を補うことについて、特別の見解を持っていた。ローマ人の信徒たちへの手紙15章で、パウロはエルサレム教会への援助に触れている。

「マケドニア州とアカイアの人々が、エルサレムの聖なる者たちの貧しい人々を援助することを喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものに与ったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」と。

福音はエルサレム教会を起点にして、全世界に広げられていった。異邦人はこの福音を伝え聞くことによって、救いに与ることができたのである。そこで、福音を受け取って救われた者たちは、福音を伝える器となった者たちが経済的に窮乏することがないように、これを助ける義務があると語った。

援助を行うにあたって週の初めの日ごとに、収入に応じて蓄えておくように勧めた。日曜日の礼拝の中で献金を継続的に行うようにと。また、献金は自発的な意思によってであり、集まった献金は自分たちのことだけに費やすのではなく、援助のために用いるようにとパウロは勧告した。

そして次に、代表者を選んで、その者たちが集められた援助の献金をエルサレムまで持っていくようにと指示した。そのようにしたのは、反対者たちに献金を集めるのは、それを私有にする意図があるからだと無用な誤解を与えないためであった。金銭は人の心に誤解を起こさせるもとになる。パウロは献金と援助の仕方について深い配慮をしていた。

「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は一つの部分ではなく、多くの部分からなっています。・・・一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ。(Ⅰコリント12章)」

「エルサレム教会への募金は単なる愛の業でもなく、キリストの体なる教会の一体性を告白するものなのです。『週の初めの日』、キリストとその復活を指す日、日曜日が礼拝の日として選ばれているということは、この時にはすでにユダヤ教の礼拝規定から分かれていることを示しています。」と河野牧師は説かれる。

私たちの教会でも礼拝説教の後は、献金、感謝の祈りが献げられる。パウロの時代から、今自分たちの教会へと継がれていることを実感し、パウロの勧告に従うことが求められていることを知る。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。

コリントの信徒への手紙1 15章50~58節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。(50.51節)>

「パウロは、復活の体について語る時に生じるかもしれない大きな誤解を、あらかじめ防ごうとします。コリントの人々の考えは、復活は地上の体そのものの再生とみなすからです。地上の体は肉と血です。それは、決して神の国に入り得ないのです。」と河野牧師は書き出される。

ギリシャ的な思想は、人間は肉体と霊魂の二つから成り立っており、このふたつは二分される別のものであり、死において肉体は消滅し、霊魂は残ると考えられていた。パウロはそれを否定し、それらは分けられず、一つの存在であり、そして死によってそれらは消滅してしまうと説いた。血と肉は朽ち、朽ちないものに変わることはなく、すべてから断絶されたものとなる。それが死だと。

パウロはこれを奥義だと言った。奥義とは人間の目では理解することができず、信仰によってのみ受け取ることのできる真理である。

彼はキリストそのものが神の奥義だと言い「それは、彼らが心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。キリストの内には、知恵と知識との宝が、一切隠されている。(2章)」と説いている。

神の子であるキリストが人となって地上に来られたこと、人の罪の贖いのために十字架に死なれたこと、三日目に復活されたこと、これらは人の知恵や理性では理解できない。それは人の歴史の中で、ただ一度のことであり、人の理解の範囲を超えたことだからである。これは信仰によって、聖霊を受けて与えられる理解であり、奥義なのである。と解説書は記している。

死に対して不安と恐れを持つのは、自分が生きている間に頼みとしていたもの、功績や見識が通用せず無力なものになり、親子や夫婦の愛情、周りの人々との暖かい交流さえ無力とされるからだろうか。これまで支えとなっていた肉体はかえって苦痛の源となり、愛するものと一方的に断ち切られてしまい、愛情は大きな悲しみにかわる。死はこれらのものの無力さを露わにする。

人の一生はそのようなものだと悟り諦観すればいいのかもしれない。けれど、そんなに容易いものではない。不安の根源は別にある。それは神を押しのけて自を頼みとして生きてきた人間が、絶対的な神の前に立たされるとき、それが死の時なのである。自分の無力さを知らされ、神の前に立つとき、ここに最も大きな不安の根源があるのではないだろうか。

死んでからの事を恐れるのはイスラエルだけではない。幼いころ、地蔵盆で地獄絵図を見た覚えがある。閻魔さんの前で裁きを受け、地獄の釜で茹でられたり、針の山を登ったり、舌を抜かれる亡者たちの絵であった。「嘘ついたら、こんなことになる」と言われ怯えたことを覚えている。

「クリスチャンにとって、死の時は最後ではない。死の姿はすべてに敗れた姿ではない。死が最後の勝利者でないことを宣言して、死を迎えることができるのです。」と解説書は結んでいる。

「愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(58節)」とパウロは、死者の復活を説く15章を結んでいる。

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コリントの信徒への手紙1 15章42~49節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<死者の復活もこれと同じです。蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。(42.43節)>

「復活の身体について、多種多様な身体の喩をもって説明してきましたが、ここからはさらに進んで、パウロは復活そのものに目を向けます。」と河野牧師は書き出される。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった。(創世記2章)」

パウロはアダムとキリストを対比する。アダムは土に属するものであり、神は彼を土の塵から造られた。そしてその鼻に神の息が吹き込まれて、彼は生きるものとなったのだが、土に帰り塵に帰るべきものであった。現実に肉体をもって生きる我々もこのアダム同様、土に属するものであると。

「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が主なる神の顔を避けて木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。…神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』…『お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る。』(創世記3章)」

アダムとエバは、善悪を知る力を与える木の実を食べたことで神に背信した。この罪のためにこの世に死が入り込むことになった。パウロは主イエスのことを「最後のアダム」と呼んでいる。主イエスは最初のアダムの罪によって持ち込まれた死の呪いを終わらせたからである。

一方キリストは、土に属するものではなく、天に属するものである。キリストは天から我々のところに来られた。そして、永遠の命を与えて下さっている。土の塵からなって、やがて土に帰るべき我々が、キリストの属するものとして、永遠の命が与えられたのだと説いた。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与る者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ書6章)」

事故や事件で愛する人を失ったニュースは辛い。もう一度会いたい、その声を聞き、体の温かみに触れ、抱きしめたいと思われることだろう。だけど、それは不可能なのだ。そのような人にこそ主イエスの復活を伝えたいのだけれど、まだまだそこには到達できない。

Hさんは若年性糖尿病の全盲だった。腎臓、膵臓、次々と病気と闘う毎日だった。その彼女にキリスト者のお医者さんが「今は、本当の世界で生きるための予行演習なんだから。本当の世界で生きる時、この闘病経験はきっと役に立つよ。」と言われたと、彼女が言っていたことを思い出す。

この頃、病気予防の方法ばかりがTVの話題になり、時々その渦に自分が巻き込まれていることに気づく。「元気に生きる」ことが生きる目標になってしまっている。流されてはならないと自戒する。

死からの復活を「あなたはこれを信じるか」と主イエスは、今日も我々に向かって問われる。我々は常に死と直面し、死が勝利者であるかどうかが問われている。この問いに「主よ、信じます。」と答えることができるよう、日々の歩みを続けたいものであると解説書は結んでいる。

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コリントの信徒への手紙1 15章35~41節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。(37.38節)>

「主イエスが十字架で死なれたことは歴史上の事実であり、主イエスを救い主キリストと信じるか否かに関わらず、すべての人たちに自明のことであり、誰もが認めることである。一方復活はそうではない。復活は、すべての人が認めることのできるものではない。」と解説書は書き出し、

「これは人の目に隠されたことであって、歴史を超えたことなのである。主イエスは復活された後に、弟子たちにその姿を顕現された。彼らは復活の主イエス・キリストと出会い、復活の証人となってこれを宣べ伝えた。信じる者はそれを受け取ることができる。そうすることによって救いがもたらされるが、それを受け取れないなら、聖書全体が無意味なものになるのである。」と説く。

「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。(35.36節)」

今でもよく聞かれる質問だ。パウロのように「愚かな者よ」と一刀両断することもできず、一緒に考え込んでしまう。昔、新聞社が死生観に関する調査を行った。その結果、日本人の多くが死後にも霊魂は残ると信じ、霊魂は死後の未来に存在すると思っているが、霊魂の末路は有耶無耶だ。

ある思想家が人生を川の流れに例えていた。湧水や雪解け水に始まる流れは人間の嬰児期であり、やがて、幼年・少年・青年となって、川はその勢いを増す。川は大河となって壮年期を迎え、ゆったりと平野を潤し、やがて老年期を迎え、河口に近づき、海水と交じり合い、ついに川は、海の中に溶け込んでしまい、人はその生涯を終え、その存在を消滅させるのが死であると語られた。

分かりやすい話だった。よくわからないものについては諦観するということだろう。けれども、聖書の語るところはこれとは逆である。聖書は、人間の死は、命が死に呑み込まれてしまうのではなく、死が命に呑み込まれてしまうことだと記している。

「私たちの内にはイエス・キリストの永遠の命が既に蓄えられている。死ぬべき生の中に、永遠の命が入り込んでいるのである。神の国はすでに私たちを捉えている。だから、クリスチャンにとって死は終わりではない。復活の希望を与えられて、眠りにつくのです。」と解説書は説く。

「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。・・・わたしは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(ヨハネ書6章)」

歳を重ねると、自分の末路を考え不安な気持ちになるが、キリスト者にはこうしてみ言葉が与えられていることは感謝である。思ってもみなかったような形で自分が老衰状態になるかもしれないが、そのことも、主のお計らいの中にあることなのだと信じることができるのは幸せである。

「復活は、種から新しい植物が成長するように起こるのです。死ぬべき地上の人間は、一粒の種がまかれるのと似ています。新しい命の前に死があるからです。死から新しい命を呼び起こす。創造者としての神の奇跡の力が現わされます。復活の体は決して地上の体と同じではありません。」河野牧師はそう結ばれる。

今日の自分は人を傷つけたかもしれないと悔いているが、明日に新しくリセットしていただいているのが感謝だ。

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コリントの信徒への手紙1 15章29~34節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストに結ばれて私が持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。(30.31節)>

「キリストの復活とキリストを信じる者の復活とは、信仰上の表裏一体の真理であり真実です。死者の復活がないのならパウロたちの宣教は実質のないものになり、コリントのキリスト者の信仰も実質のないものになるのです。」と「死者の復活」と題された箇所を河野牧師は書き出される。

十字架で贖いの死を成し遂げられた主イエス・キリストは、三日目に復活された。復活のキリストは霊的な姿をもって、弟子たちの目に見える姿で現れて下さった。多くの弟子たちや使徒たちは復活されたキリストに出会い、その証人となって、その事を人々に伝えていった。

パウロの宣教によって福音を受け入れ教会を立ち上げたコリント教会であったが、パウロがコリントを去った後、死人の復活を否定する人々の声が強まって行った。コリントの教会は、大多数がギリシャ人信徒であった。

ギリシャには古来、独特の霊魂不滅の思想があった。それは「人間は崇高な霊魂と、卑賤な肉体の二つを持っている。この世で生きる間、霊魂は卑しい肉体の牢獄に繋がれているが、死ぬと、肉体は塵に戻り霊魂は解放される。解放された霊魂は神聖なものとなって、永遠に生きるものとなる。」と言うものであった。死後の霊魂は宇宙に呑まれていくという、漠然としたものであった。

私たちの教会では「使徒信条」で「…聖なる合同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの蘇り、永遠の生命を信じる」と告白する。その「からだの蘇り」が復活であると解説書は説いている。

「『からだ』とは肉体の体ではなく、霊の体である。キリストの復活は『体のよみがえり』の初穂となった。復活のキリストは肉の体に蘇ったのではなく、霊の体を持っておられ、弟子たちの目に確かに主イエスとして映る姿で現れた。復活した霊の体は、宇宙に吞み込まれてしまうような漠然としたものではなく、各々の個性を持っているのである。私も私として蘇るのです。」と説いている。

主イエスの十字架の死は歴史的な事実であり議論の余地はない。しかし、その死は人の罪の贖いのためであり、復活なくしてそれは成就しない。使徒たちはその証人として人々に福音を宣教した。キリストの復活を否定すれば、彼らの証言は偽証となり、彼らは神を相手に偽証したことになる。

礼拝の対象は、蘇られた神の子イエス・キリストであり、ここに救いがある。仮にキリストが復活がなければ、イエスはユダヤ民族の中に出現した一偉人であり、人間であり、良い教訓を残して民衆の希望となり、ヘロデやローマの支配に抗い、十字架刑を受けた歴史上の人物に過ぎない。

洗礼式の式文は「…私たちはキリスト・イエスの死に与るパプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中から蘇らされたように、私たちもまた、新しい命に生きるためである。…(ローマ書6章)」

葬られるのは、昨日の古い自分であり、毎日、毎時、毎秒新しくされ蘇りの命によって生きることが赦されているのである。主イエスの死と復活は、死後の世界の話ではない。

「死んだ人が蘇るなんて…」と鼻先であしらわれるのが怖くてあんまり人には話せない。だけどだんだん自分自身は確信を持つようになったので、そのうち誰かに話せる日が与えられるだろう。

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