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ゼカリヤ書 14章1~21節 [旧約聖書 ゼカリヤ書 ]

<エルサレムを攻めたあらゆる国から、残りの者が皆、年ごとに上って来て、万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う。(16節)>

「12章から『その日』という言葉で、終末を語ります。しかし、告げられても分からないことがあります。なぜ神は『戦いを挑ませる』のでしょうか。それなのになぜ『戦いの日…主は進み出て…戦われる』のでしょうか。私たちは告げられても神の御心を知り尽くすことは出来ません。それでも、主は備えのために啓示して下さいました。」と阿部牧師は書き出される。

ほんとに神様のなさることは予測がつかない。阿部牧師が言われるように、2.3節では、戦いを挑ませといて、戦いがあれば、自ら主が進み出て戦われるのだったら初めから戦いに挑ませなければいいものを・・・と考えてしまう。

今日の個所は、当時のユダで間もなく起ころうとしていること、キリストが来られた時代の事、そして終末時代のことまで記されている。

とK牧師は前置きしたうえで「今日のような預言は、山の峰のようで最初に見えるのが一つの峰で、登ってみると向こうにももう一つの峰が、またその向こうには峰がと、峰々が重なって見えるのと同じです。」と説かれる。

一つの預言に見えても、その時代、近未来、そして、終末、キリストの再臨にいたるまでの出来事が含まれている。それらが重なり織り込まれてなかなか識別するのは難しい。しかし、すでに成就したものとしていないものに分けると、未来の預言が見えるらしい。

紀元70年に、エルサレムはローマ軍によって滅ぼされ、イスラエルの民は全世界に離散する。エルサレム崩壊の預言は、この時点で成就した。しかし、1948年5月にイスラエルは建国された。ここで、再び預言の時計が動く。「オリーブ山は東と西に半分に裂け(4節)」は、今はまだそうなっていないが、いつの日か成就する。

「主の日」とは、終わりの日の事である。主の日に、すべての国々が集められ、エルサレムを攻撃する。平和の君のように装う反キリストに、諸国の民は騙され「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである。(6節)」。しかし「ただ一つの日が来る。その日は主にのみ知られている。その時は昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある…(7節)」

連日世界のニュースが報道され、その上、フェイクニュース、SNSの拡散とか、分からなくてもいいことまで知ってしまう。それなのに、国会でよく審議されず法律が分からないまま通過する。武器を振りかざすわけではないが、この風潮は人々を崩壊させている。

そのような中「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。(9節)」のみ言葉を聞き、主が主権をもって人類の歴史を支配しておられることを感謝している。

いろいろな事件や諸国の動きも不安だけれど、自分自身、世の流れに流され、人の動きに合わせて生きていることが何より不安だ。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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ゼカリヤ書 13章1~9節 [旧約聖書 ゼカリヤ書 ]

<この三分の一を私は火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え、「彼こそわたしの民」と言い、かれは、「主こそわたしの神」と答えるであろう。(9節)>

「その日、神の義はなされます。神が『彼こそわたしの民』と言い、民は『主こそわたしの神』と答えることを目指して御業はなされます」と阿部牧師は書き出される。

ゼカリヤ書12.13章は一つのまとまった終末預言である。「その日」という言葉が6回も用いられる。内容としては、エルサレムに繰り返し滅亡の危機が来ても、主はエルサレムを守られるという預言であると解説書は記している。

「ユダの諸族は心に言う。『エルサレムの住民は、彼らの神、万軍の主のゆえに、わたしの力だ。』その日、わたしはユダの諸族を薪で火を噴く鉢のように、麦束で燃え上がる松明のようにする。それは左右に燃え移って、周りのあらゆる民を焼き尽くす。エルサレムは今そこにある場所、エルサレムになおとどまり続ける。(12章5節)」

黙示として書かれているために、具体的な歴史背景は分からないが、9章以降の文脈によると、エジプトが攻めて来た時も、シリアが攻めて来た時もエルサレムが守られたようにこれからもエルサレムは不滅だと告げられている。

難しくて解説書に頼ってばかりだが、「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるかのようにわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。(12章10節)」の個所を、初代教会は主イエスの死の預言だと受け止めた。

今日の個所はエルサレムを堕落させていた偶像礼拝と偽預言者の排除が語られる。シリア王がエルサレムに持ち込んだゼウス像の撤去とそれを許した祭司たちを、「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらす者が座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」とダニエル書は預言する。

また、「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。(7節)」というのは、主がエルサレムの浄めのために偽の羊飼いを打たれることの預言だとされている。また、紀元前166年~142年に及ぶシリアとのマカベア戦争の勝利により王であり、大祭司であったハスモン家の終わりを意味するともされている。

福音書は旧約聖書の預言に満ちている。福音書はイエスの生涯の記述ではなく、弟子たちが見出した信仰のイエスを記述するものである。残された弟子たちは、メシアとして従ってきたイエスがかくも無力の中で死んだ理由を必死に聖書(旧約聖書)の中に求め、イザヤ53章「義人の苦難」を、ホセア6章、ヨナ2章「死人を起こす神の力」を見出した。

難しい個所だったが、読む機会が与えられてよかった。

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ゼカリヤ書 10章1~12節 [旧約聖書 ゼカリヤ書 ]

<わたしは主にあって彼らに力を与える。彼らは御名において歩み続けると、主は言われる。(17節)>

「人は幸せを求めます。しかし、どうしたら幸せな未来にいたるのか分かりません。空虚なこと、偽りの幻、虚偽の夢に人は惑わされ、羊のようにさまよいます。よい羊飼いがいないため、人は苦しんでいます。」と阿部牧師は書き出される。

「春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ、すべての人に野の草を与えられる。(1節)」今日の個所は、終末において神の民に与えられる祝福について預言されている。

「春の雨」は、小麦の収穫の前の3月から4月にかけて降り、別名「後の雨または終わりの雨」という。これに対して「秋の雨」は、「先の雨または初めの雨」と呼ばれ、夏の干ばつで固くなった地を柔らかくするために降る。これらは、季節に適う「祝福の雨」である。

昨日の個所の最後は「穀物は若者を、新しいぶどう酒はおとめを栄えさせる(17節)」と結ばれる。帰還の民たちは物質的な繁栄、収穫の豊かさをもたらす「春の雨」を求めた。農耕社会は自然の営みが何より大事だが、それは神の恵みによって実現するものである。

2節は過去を振り返り、テラフィムは士師時代には重用されたが、その慰めは空しかった。それは偶像崇拝をもたらし、民は羊飼いのいない羊のようになって苦しんだ。そのように民に道を迷わせた支配者たち、宗教指導者たちに主の裁きが下されたことを告げる。

しかし、神は彼らの罪を赦され、再びイスラエルを強くされることを約束される。「主に雨を求めよ」と言われ「万軍の主はご自分の羊の群れ、ユダの家を顧み、彼らを輝かしい軍馬のようにされる。(3節)」と預言者を通して約束される。

真の豊穣をもたらされるのは、異教の神バアルではない。主ご自身である。そして神は約束される「彼らは私が退けなかった者のようになる。(6節)」と。もはや彼らの過去は切り離され、その過去は問われない。神は罪びとである私たちもキリストにある罪の赦しに免じて義人として和解すると告げて下さる。

罪の結果は取り返しのつかない事態を生み出す。捕囚となった民の中にはイスラエルに戻ることの出来ない人々もいただろう。散らされてしまった者が元に戻るとは限らない。しかし、それもまたやがて益とされてゆく。神は災いを祝福に変えることが出来るお方だ。

主イエスの死と復活を証したステファノは人々に石で打たれて殺されてしまった。それを機にキリスト教弾圧が厳しくなり、多くの人々がエルサレムから各地に離散した。しかし、そのことでキリスト教は異邦人の間にも広まっていくことになった。

「わたしは彼らを諸国の間にまき散らしたが、遠い国にあっても彼らはわたしに心を留め、その子らと共に生き続け、帰って来る。(9節)」は、まさにその預言である。

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ゼカリヤ書 9章11~17節 [旧約聖書 ゼカリヤ書 ]

<それはなんと美しいことか。なんと輝かしいことか。穀物は若者を、新しいぶどう酒はおとめを栄えさせる。(17節)>

「神は、水のない穴から捕らわれ人を解き放たれます。彼らは神が守る砦へと帰ります。・・・神が民に希望を与え、奮い立たせます。神は民のために戦われます。彼らは神が共におられるしるしである角笛の音を聞きます。主は彼らの盾となって下さいます。」と阿部牧師は書き出される。

戦争に負けた捕虜は「水のない穴」に置き去られ、死と直面するほかなかった。神はそのような捕虜を「水のない穴から解き放つ」と言われる。人生に望みを見いだせず、もう死を待つしかないと思う状況にあっても、望みがあるから「砦に帰れ」と命じられる。

K牧師は「今まで神など何の役に立つものかと思っていたその思いを打ち捨て、わたしを呼び求めよと命じられる。彼らが戻る「砦」とはメシア(救い主)が君臨されるエルサレムのことです。

誰も私の今までの人生を返してくれる人はいません。けれど、神は『わたしは二倍にしてあなたに報いる。(12節)』と言って下さいます。その方は『万軍の主』です。天地万物を支配される王です。いたずらに感情に流されることなく、私たちを『彼らは王冠の宝石のように(16節)』される神が共にいて下さるのです。」と説かれた。

主なる神は徹底的にイスラエルの盾となって下さる。やがて必ず敵を裁き、イスラエルに勝利と祝福をもたらすお方であることが明確に告げられてゆく。

「信仰とは、神の時を待つことだ」は、戦後を生きたOさんの口癖だ。待つことを忘れた時、私たちの奉仕も信仰の業とは言えないと。現実はいかに預言から遠くとも、必ずその預言は成就することを、主の御言葉の約束によって信じることがたいせつだと。

13節に登場する「ヤワン」はギリシャの事。ギリシャのアレクサンドロス大王は、ペルシャ軍を破り(紀元前333年)、エジプトに侵攻し、地中海沿岸諸都市、シリヤの諸都市を陥落していった。しかし、エルサレムに対しては、町も神殿も破壊することなく、ただ通り過ぎただけだった。奇跡としか思えない事実について神が介入されたとも言われている。

今日は、教会コンサートについての話し合いをした。コンサートは人を招き易いのだけれど、伝道集会とか、特別礼拝とかにはなかなか人を誘えない。宗教について私たちの国では警戒される。どうしたら、福音が宣べ伝えられるのか、礼拝に来ていただけるのか。

牧師がおられない教会が増えて来た。お先真っ暗、「求めよ、さらば与えられん」と主イエスが言ってくださっている。必ずかなえて下さることを信じて祈ることが求められている。

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ゼカリヤ書 9章1~10節 [旧約聖書 ゼカリヤ書 ]

<娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられる者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。(8節)>

「主の言葉が臨む時、人々の目は主に向けられます。神の声を聞くために、人々が頼りとする富も町も捨てられ、高ぶりは絶たれます。」と阿部牧師は書き出される。

9章の最初「託宣」とある言葉は、ヘブル語の「負う、担う、声を高く上げる」を意味して、様々な国に対する「託宣」は、特に声を大にして叫ばざるを得ないメッセージとなる。9章は、イスラエルを取り巻く町々に対して神の裁きが語られる。

主イエスは地上の生涯において、ご自分がメシアであるとは一言も言われなかった。むしろ、旧約で預言されているメシアの行動によってご自分がメシアであることを示そうとされた。9節の預言は十字架への道を歩まれる「エルサレム入城」で成就された。

「ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。

『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』(マタイ書21章)」しかし、当時の弟子たちはこの事が分からなかった。主イエスが栄光を受けられた後に初めてこの出来事がメシア到来の徴であったことを悟った。

メシアはろばに乗って、それもまだ誰も乗ったことのない雌ろばの子の子ろばに乗って入城される。当時は高貴な者、身分の高い者、祭司たちもろばに乗っていた。馬に乗るのは戦士だけであった。民衆は主イエスがこれまで多くの奇跡をもたらした「力あるメシア」として歓迎した。

民衆は大歓声を持って迎えた。彼らは、今の自分たちの状況、異邦人ローマ帝国の属国として屈辱を与えられている今を、断ち切るために主イエスは先陣を切ってローマと戦うお方に違いないと、自分たちの救い主だ、ダビデの再来だと期待を持って迎えた。

「わたしはエフライムから戦車を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。(10節)」

主イエスがメシアとしてこの地上において戦いを止めさせ、義と平和を実現され、全地を支配される。これは多くの預言者たちによって語り継がれてきたダビデ王国の再現であった。しかしそれは、誰も考えもしなかった十字架の死と復活において成就することになる。

「救いの計画と未来、それは神のもとにあります。神は言われます。『それは平和の計画であって災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ書29章』と」。と阿部牧師は結ばれる。

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