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マタイによる福音書 18章1~5節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<わたしの名のためにこのようなひとりの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。(5節)>

18章の最初の「そのとき」とは、主イエスがぺトロに神殿税を納めるようにと告げられた時である。そのやり取りをそばで聞いていた他の弟子たちは、地上の王には子供たちがいる。それ以上の真の王になられる主イエスの、自分たちはその子供であることを思った。ならば、子供の中で誰が一番偉いのだろうかと互いに言い合い、主イエスに問いかけた。

「天の国でいったい誰が一番偉いのか。弟子たちの関心はそこにありました。彼らは天の国でも地上と同じ秩序があると思っていたのです。」と粂牧師は書き出される。

彼らの問いに主イエスは、「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。(2.3節)』」と。

主イエスは子供を弟子たちの真ん中に立たせられ、子供という存在が、天の国の住人のたとえとして用いられる。当時、女性同様、人の数に入れられていなかった子供、その子供のようにならなければ「決して天の国に入ることは出来ない」と彼らを戒められた。そして「自分を低くして子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」と言われた。

主イエスの御言葉によく登場する「はっきり言っておく」は、直訳すると「アーメン わたしはあなたがたに言う」となり、神の真実を持って告げると明言される言葉である。また「心を入れ替えて」は心の方向性を転じる。つまりここでは彼らの持つ権力志向を捨て、その心を「子供のようになる」ことへ向けるようにと説かれている。

この時「子供のようになる」とは、子供の無邪気さや純粋さ素直さを持つようにと言うよりも、むしろ「被保護者性」のことだとM牧師は説かれた。子供たちは親などの保護者に愛され見守られているという全幅の信頼の中にあって、安心して動き回っている。

それと同様、主イエスの救いと守りに全幅の信頼を置き、その中で生きる者こそ、天の国に入ることができるのだと主イエスは説かれた。また、誰が一番なのかとこだわるならば「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ(4節)」と言われた。

「自分を低くする」とは、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、遜って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ書2章)」と、パウロは記している。

「天の国の基準は地上と異なり、先のものが後になり、後のものが先になります。私たちは気づかずいつの間にかこの世の基準で考え行動しています。御言葉は常にその誤りに気付かせ、神の国の基準で生きることに立ち帰らせるものなのです。」と粂牧師は結ばれる。

自分を低くするのはほんとに難しい。「私はこんなに遜っているんだ」と思うともう傲慢になっているから・・・。

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マタイによる福音書 17章24~27節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。(27節)>

「一行がカファルナウムに来た時、神殿税を集める者たちがぺトロのところに来て、『あなたたちの先生は神殿税を納めないのか』と言った。ぺトロは『納めます』と言った。(24.25節)」

「聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。…あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う。…あなたがイスラエルの人々から集めた命の代償金は臨在の幕屋のために用いる。それは、イスラエルの人々が主の御前で覚えられるために、あなたたちの命を贖うためである。(出エジプト30章)」

神殿税は律法によって義務付けられていた。20歳以上の男子は毎年一律に半シェケル(労働者の2日分の平均的な賃金相当)を納めることが求められた。

主イエスはぺトロに「地上の王は、誰から税を取り立てるのか」と問われた。地上の王が、自分の子供たちからは税を取らず、他の人から取り立てることを確かめられると「では、子供たちは納めなくてもよいわけだ。(26節)」と言われた。

地上の王が自分の子供たちに税を徴収しないのなら、主なる神の子である主イエスが税を納める必要はもとよりない。ぺトロはさっき徴税人に「納めます」と言ってしまった事を叱られているのかとも思った。しかし、主イエスは「かれらをつまずかせないようにしよう。」とぺトロに言われた。

さきに律法の食物規定についてゲネサレトで「口に入るものは、人を汚さない。口から出るものが人を汚す」と律法学者たちの歪んだ解釈を正された。しかし、この時は神殿税の基本的自由を指摘されるが、信仰の核心に触れない事柄についての自由があることもぺトロに教えられる。

主イエスはぺトロに、湖に行って釣りをするように命じられた。「最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚みつかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」と言われた。

「神殿税に象徴されるユダヤ教、それに対するイエスの態度は一見妥協的なように見えますが、信仰の是非を問う問題ではありません。教会もこの世の無用の対決を避け、時に、は柔軟な姿勢で臨みながらも、宣教に必要な本質的な事柄は何かを知り、行う知恵を身に着けるよう、イエスは教えておられます。」と粂牧師は結ばれる。

K牧師は「魚の口から銀貨が出て、それを二人の税として納めるということについて、主イエスがご自身のために奇跡を起こされたかのように考える人がいますが、それは間違いです。『天の御国のための奇跡、弟子たち、教会のための奇跡』です。」と説かれた。

「税金を納めます」とぺトロは言ったけれど、そもそも彼らの生活費用はどうなっていたんだろうかと、俗っぽいことを考えてしまった。

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マタイによる福音書 17章22~23節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<そして殺されるが、三日目に復活する。 (23節)>

主イエスと3人の弟子たちが山を下り群衆のところ行かれると、ある人が近寄って来て、子供の病気を治して頂こうと「お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことは出来ませんでした。(16節)」と言った。

「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに連れて来なさい。(17節)」と主イエスは言われた。「そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、その時子供は癒された。(18節)」

その様子に弟子たちは呆気にとられた。彼らは、いつも間近で見ている主イエスと同じように同じ言葉を使って、心を込めて癒しの業を行ったのだ。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのですか」と彼らは主イエスにたずねた。

主イエスは「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる。あなたがたにできないことは何もない。」とお応えになられた。

「信仰は知識や経験からは不可能とされることを可能にします。信じるものにはそれが起こるのです。父なる神に対する信頼が、てんかんの子の癒しをもたらしたのです。イエスは信仰者の模範です。『信仰によってのみ救われる』と信じない者には、決して救いは起こらないのです。」と粂牧師は説かれる。

Mさんは企業戦士であったが、突然の病に倒れお医者さんからも命の期限が告げられた。奥様に「大丈夫、も一度目を覚まされるから…」と慰めながら、一緒にお祈りしたが、その時の自分には「からし種ほどの信仰」さえあったとは言い難い。再起を祈りながら、多くの機械に囲まれている彼の姿に絶望していた。

主イエスの「癒し」は元通りになると言う事ではなく、「救い」だということを教わっている。病気の子の母親は弟子たちの祈りからは、救われなかったのだろう。全人格を傾けて隣人を愛する信仰が、弟子たちから彼女は受け止めることができなかったのだろう。

「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」と嘆かれた主イエスは、ガリラヤで二度目の受難予告をされた。その言葉に「弟子たちは非常に悲しんだ。(23節)」。

彼らは主イエスが進んで死に向かおうとされることが理解できず、三日目に復活する予告も、信じることができなかった。彼らは、主イエスが王となり、ダビデ王国を復興させて下さると言う幻が、イエスの死で無に帰すのを悲しんでいた。

「しかし、人間の幻想が打ち砕かれる時、神のみ旨が成就するのです。」と粂牧師は結ばれる。

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マタイによる福音書 17章1~8節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<起きなさい。恐れることはない。(7節)>

「受難予告の後7日目、イエスはぺトロ、ヤコブ、ヨハネの3人と共に山に登ります。山は神と出会う場で、そこでの変貌はイエスの受難予告の中の復活を暗示するものです。」と粂牧師は書き出される。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリアが現れ、イエスと語り合っていた。(2節)」

弟子たちには何が起きたのか理解できなかった。主イエスの突然の変貌を目撃したぺトロは、仮小屋を建てましょうと提案するものの、彼は目前の現象が受け入れられず、ただうろたえていた。

「ぺトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると『これは私の愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が天から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。(5.6節)」

数日前「あなたはメシア、生ける神の子です。」と信仰告白した弟子たちに、主イエスはご自分が多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活すると予告された。そして「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」と命じられた。

「従いなさい」と言われた後の弟子たちの答えは記されていない。それは彼らのためらいを物語っているのではないだろうか。彼らはもう一度「ほんとうにこのお方はメシアなのか」と自分自身に問わずにはおれなかった。

T牧師は「もし、この山上の変貌がなかったら、彼らはエルサレムへの道をとられる主イエスのもとから去っていたかもしれません。」と話された。彼らは命の危険が待つ、自分たちを貶める人々の本拠地であるエルサレムへ、主に従って行くことなどしなかっただろうと。

主イエスに最後まで付き従った弟子たちは、主イエスへの信頼とか忠誠心、信仰が強かったから従ったのではなかったのだ。変貌された主イエス、さらにその姿にかけられる天からの声に彼らはひれ伏すしかなかった。信仰に徹しきれない彼らを神はそのようにして導かれてゆく。

愚かな貧しい信仰に気づいて立ち上がることもできない弟子たちに主イエスは手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と言われた。

「この言葉は、イエスが蘇りの主であることの証です。彼らが今見た幻は、イエスが何者であるかについての天からの啓示だったのです。」と粂牧師も結ばれている。

寒い日が続き礼拝に行くのさえ億劫になる。すると、庭の蝋梅が目に入り「教会に持ってゆこうか」と元気が出た。蝋梅を私の視界に入れて下さったのは神の仕業らしい。

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マタイによる福音書 16章21~28節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 (24節)>

「ぺトロの信仰告白以後、エルサレムに向かう途上でイエスは弟子たちに教え始めます。第一が受難予告です。すると弟子たちのメシア像が誤りであることが直ぐに露呈します。なぜなら、受難予告を聞いてぺトロがイエスを諫め始めたからです。」と粂牧師は書き出される。

メシアと信じ付き従ってきたお方が殺されることになるなんて、ぺトロには信じ難いことだった。彼はイエスをわきへお連れして、諫め始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。(22節)」と。

「イエスは振り向いてぺトロに言われた。『サタンよ、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』(23節)」

荒れ野で主イエスを誘惑したサタン。神の霊によって人の内から追い出されるサタン。彼は人を神から引き離す働きを、様々な出来事を通して、また人を通して働く。23節ではぺトロを通して、しかも彼が自分はサタンになったのだと言う事に気づくことなしに。

主イエスが話された受難と復活の出来事を「とんでもないこと」だとぺトロは言った。ぺトロをはじめとする弟子たちが思い描くメシア像は、イスラエルをローマ帝国の支配から解放し、ダビデ王国を復興する英雄的人物であった。そのような彼らの思いを主イエスは「神のことを思わず、人間のことを思っている」と退けられた。

当時のユダヤ人は、救世主メシアを待望していた。彼らは異教の神々を祀るローマ帝国から支配されるという屈辱に苦しんでいた。メシアを待ち望む人々の中に出現された主イエスこそ、ローマ帝国を打ち破るお方だと信じた。それは人間の側のかってな期待でしかなかった。神の御心が成就するためには人間の願望が打ち砕かれなければならなかった。

主イエスはぺトロが「あなたはメシア」という信仰告白を祝福された。けれども、メシアとは何かという考えにおいて、ぺトロや弟子たち、人間の思いとは全く違っていた。

T牧師は「『神は愛』を生きようとしたら、指導者たちに苦しめられ、陥れられ、殺されることは必然なのです。それでも『神は愛』をこの社会の中で、人間の思いによって疎外され、愛を信じられなくなった人々に伝える。たとえ命を失うことになってもです。その生きざま『神の愛』を生きる生き方が辿り着く最後が十字架刑なのです。」と説かれた。

メシアである主イエスから弟子たちは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのために命を失う者はそれを得る。(24節)」と言われた。

昨日、教会で些細なことでSさんと口論した。帰宅した後でもまだ納得がいかずイライラした一日だった。情けないことだ、そんなことでも自分を捨てられないのだから。

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