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コリントの信徒への手紙1 14章37~40節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。(39.40節)>

「37節からパウロは、これまで述べてきたことの締めくくりとして、使徒としての自覚に満ちて、大胆な発言を行います。本当の霊の担い手である人は、使徒の判断が主から出ていることを認めるはずだというのです。それを認めない人は神の霊を持たないと断言するのです。主の命令によって語るという確信が使徒を支えています。」と河野牧師は書き出される。

コリントの信徒たちの問題は、彼らは異言を語るにしろ、預言を語るにしろ、自分が語る、自分の賜物を発揮するということばかりに思いを至らせていた。神が人を通して語られるみ言葉を聞くということがなかった。そのように、聞くことなしに語ることばかりを追及した結果、教会の礼拝や集会は、人間の思いに支配され、混乱し、無秩序になってしまった。

エゼキエル書には偽りの預言者のことが語られている。「自分の心のままに預言するもの、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む者、主から遣わされてもいないのに『主は言われる』と言っている者(13章)」

「しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。(40節)」とパウロは14章を結ぶ。パウロがいう秩序は、ただ形が整っている、整然と厳粛に行われるということではなく、神が語られることを「聞く」という姿勢が回復されることであった。

パウロはその思いを「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。(33節)」と語る。「神にとっては、無秩序の反対は秩序ではなく『平和』なのです。教会は、平和の神の支配がそこに確立することです。平和の神の御支配は、主イエス・キリストが私たちのまことの主となられるところに確立するのです。」とT牧師は説かれている。

人間の罪を負って十字架に付けられた主イエスの、自己犠牲の愛の精神に倣って、自分も隣人愛に生きるよう教えを受けている。しかし、その教えだけでは、神は平和の神だということはできない。聖書が語り、代々の教会が受け継いできた信仰は、神が人間となられ、苦しみを受け、十字架に架かって死なれ、三日目に復活された。

そして、罪人である者たちとの間に自ら平和を確立された。それは、つまり「神は平和の神」であるという驚くべきしらせである。その信仰は、人間の思いや言葉が沈黙し、神が語られる言葉に耳を澄ますところにこそ与えられる。教会は、この神からの啓示の御言葉、人間の言葉や思いが沈黙してそれが聞かれる場でなければならない。

預言や異言、またそれぞれに与えられている様々な賜物も、その事のために秩序付けられ、用いられてゆかなければならない。

今日は牧師から、隣人を愛していますかと尋ねられた。礼拝前におしゃべりを禁じる雰囲気を持つ私たちの教会は、愛が足りないのではないかと指摘された。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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