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コリントの信徒への手紙1 15章1~11節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(1節)>

「1節から前置きなしに、この手紙の最後の大きな主題に入ります。それは、神学的な主題でもあります。なぜなら、もはや集会生活の実際問題ではなく、福音と信仰の根本問題が扱われているからです。…この章は、使徒の信仰と神学の核心を示しています。」と河野牧師は書き出される。

パウロが異邦人の町コリントで宣べ伝えた福音は、それを信じることによって救いを得るものであった。この福音は彼の発明や創作ではなかった。彼自身が受け取ったということの中には、主イエスの啓示によって直接受け取ったということのほかに、彼にこの福音の本質を伝えるものがいたということであった。

パウロに福音の本質を伝えたのは、エルサレム教会の人々であった。教会の迫害者であったサウロは、復活の主イエスに出会って変えられ、異邦人伝道の使徒パウロとなり、二度エルサレムを訪問している。そしてぺトロやヤコブと出会い、イエス・キリストの福音の中核が何であるかを受け取った。彼の信仰の核心は、この中核を確かに踏まえたものであった。

ここでのヤコブは主イエスの弟、彼はエルサレム教会の指導者で、主としてユダヤ人伝道に従事した。ペトロ(ケファ)は、パウロより早い時期から異邦人への宣教に従事し、コリントの教会にもその足跡を残している。パウロが「すべての使徒」というのは12人だけではなく、ヤコブやぺトロを指導者として仰ぐ多くの人々から教えを受けたと思われる。その中には女性がいたかもしれない。

主イエスが人々から「ホサナ、ホサナ」と歓喜の声でエルサレムに入城された時、弟子たちは主イエスが栄光の座に着き、権力を掌中にし、ローマ帝国の支配のもとで屈辱を受けていたユダヤ人を解放される日が近くなったのだと思った。そしてその時自分たちも栄誉ある座に着くのだと思った。

その弟子たちに「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである。(マルコ書10章)」と彼らの思い違いを諭された。

主イエスが向かわれる道は、権力の座でも人々の上に君臨する座でもなかった。十字架上でご自身の命を捨てる道であり、人に仕え多くの人の贖いとなる道であった。それは、政治的に人々を解放するのではなく、ご自身の命を投げ出すことによって、人々を罪の奴隷から解放するための贖いの死だった。

解説書は「毎回、毎回、祭壇に家畜を献げ、その血によって清められることを願い求めても、人は神の前に義とされず、救いを得ることはできなかった。しかし、一度だけ、繰り返すことのない出来事として、キリストが贖いの死を十字架で遂げられることによって、私たちは永遠の神の国を受け継ぐべきものとして、救いに与る道を与えられたのである。」と説いている。

洗礼を受けたものの、分からないことが多く、とりわけ「罪の贖い」というのは難解だった。そもそもそんな人から咎められるような「罪」を犯してもいないし…と思っていた。だから、その罪を白紙に戻してくださるのだと説かれても有難味を感じることはできなかった。

でも「十戒の一つでも守っているのか」、そもそも「お前は何より神を愛しているのか」と問われたら、それをはっきりと肯定することはできない罪を今は自覚している。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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