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ルツ記 1章19~22節 [旧約聖書 ルツ記 ]

<「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」(20節)>

「久々に郷里ベツレヘムに戻ったナオミを、町の人々は、以前と少しも変わらず、温かく迎えてくれました。ナオミは人々の思い掛けないこの温かな歓迎に、つい、張り詰めていた今までの心の緊張が解けてしまったのか、思わず苦しい胸の内を打ち明けてしまいます。」と三輪牧師は書き出される。

21節は「出て行くときは、満たされていた私を、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか、主が私を悩ませ、全能者が私を不幸に落とされたのに。」今日の個所は「うつろな帰国」と題が付けられ、その通りナオミの不満が並ぶ。

ベツレヘムを襲った飢饉で、他国に移住するという夫に従い二人の息子を連れて異教の国で生活することになった。やっとその地に慣れたころ、夫が亡くなり、続いて二人の息子まで失くしてしまった。彼女は、この現実を主の御手による裁きと受け止めた。

こんな有様になった私を「なぜ、快い(ナオミ)と呼びかけるのか」と人々に言う言葉はそのまま「主よ、なぜあなたはわたしをこのような不幸に落とされたのですか」と、主に抗議する言葉に重なる。

先日のペンテコステの伝道礼拝は、K牧師をお迎えした。「ステファノの殉教」と題された説教で、「なぜ、主を愛し主に従って生きたステファノが、人々に石を投げつけられて無残な死を遂げなければならなかったのでしょうか。」と会衆に問われた。

K牧師は日本キリスト教会の神学校を卒業された韓国人の牧師である。ペンテコステに聖霊が与えられ、ぺトロや弟子たちの語る福音を、一日の内に3千人もの人々が受け入れ洗礼を受けた。その数はどんどん膨れ上がっていった。

けれど、数が増えるに伴い福音の内実が空疎なものになり、人々は自分たちだけの信仰に満足し、主が望まれた「地の果てまでの宣教」をしなくなった。けれど、ステファノの殉教によって、エルサレムの教会に対する迫害が起こり、皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行くことになった。

それは、人々にとっては苦難の始まりではあったけれど、その結果、福音は世界の果てにまで告げ知らされてゆくことになる。ステファノの殉教はそういうことだと説かれた。

「しかし」と言葉を続けられ、「無残に殺されたステファノは、幸福な生涯であったと言えるのだろうか。」と問いかけられた。今日のブログではそれを記す紙面がないので、後日に。

どんどん痩せて行く私たちの教会、受洗者が増え続けどんどん大きくなる韓国の教会、どちらの教会にも主は課題を与えておられるのだと説教から教えて頂いた。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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