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マタイによる福音書 5章43~48節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(44節)>

「『敵を愛する』これは旧約の『隣人を愛せ』をはるかに超える思想です。イスラエルにおいて『隣人』とは、同じ神を信じる信仰共同体としてのイスラエルに限定されていました。異教の外国人は隣人に含まれていないのです。」と渡部牧師は書き出される。

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(レビ記19章)」「あなたの敵の牛あるいはロバが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。(出エジプト23章)」という言葉が記されている。敵への憎みを促す言葉は聖書にはない。

主イエスがここで言われる「敵」とは、異邦人を指していた。宗教的、政治的偏狭さから、イスラエル人は異邦人を蔑み、「彼らはあなたの国に住んではならない(出エジプト23章)」という戒めをもとに、彼らとの交わりを汚れたものとして拒んでいた。

「主イエスは敵が敵でなくなった時ではなく、敵が敵である時に、これを愛することを告げておられる。主イエスはこの言葉の通りを行われた。敵を愛し、十字架の上で、『父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです。(ルカ書23章)』と祈られているのです。」と解説書は説いている。

次に主イエスは、なぜ敵を愛すべきなのかについて語られた。太陽や雨は、善い人、悪い人の区別なく注がれる。昨日今日の九州の大雨、東北の大震災、自然の猛威を思い知らされる。その人の行いの良し悪しに関わらず、そこに居合わせただけで災害に遭う。同様に、春の陽や、月光の注ぎも、区別なく与えられる。神の愛はイスラエルに限定されない。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。(46節)」

「主イエスは隣人のとらえ方を打ち破り、信仰共同体という枠をも超えて、敵への愛を教えられたのです。そこでは隣人と隣人でない人との区別そのものがなくなり、愛する対象は何によっても制限されないということなのです。なんと驚くべき発想だったでしょうか」と渡部牧師は説かれる。

昨日見たアメリカのTVドラマで主人公が「自由と人権のために銃をもって戦うことが必要な時があるかもしれないが、自由と人権を守って生きることはもっと大切なのだ」と言っていた。何ということもないドラマだったが、こういうセリフが出るのに感心した。

長年2月11日と8月15日には集会をもっている。このところの政治傾向から抗議集会となっている。集会の後、繁華街をデモするが、プラカードに書く言葉がだんだんと過激になって来た。その言葉を発していると残念ながら、心に敵を生み出してゆくように思えてならない。キリスト教徒のデモは道行く人の心に訴えるものでありたいものだが・・・。

主による真の悔い改めが、この国の為政者に、真の力が世界の全ての為政者に与えられますようにと祈っている。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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