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コヘレトの言葉 2章12~17節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。(16節)>

「どんな人であっても必ず死を迎えます。それは文字通り、すべての人に平等に与えられることです。コヘレトはその事実を前にして『何ということか』と言いました。どう生きたとしても結局同じ結末しかむかえられないのなら、どう生きるかなど関係ないではないかと思えたのでしょう。」と藤田牧師は書き出される。

コヘレトはまた、「知恵と狂気と愚かさを見極めようとした。(12節)」。その結果、光が闇に優るように、知恵は愚かさに優るけれども、「両者に同じことが起こるのだということを。(14節)」そして、両者とも等しく死期が来て、永遠に誰の記憶にも残らないということであった。より賢くなろうというのは無駄なことであった。

「わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。(17節)」

「確かに、賢者であろうと愚者であろうと、みな死を迎え、いつか忘れられていきます。でも、それは人間のことやこの世のことを考える限りのことです。人は忘れても、神は私たちのことをお忘れになりません。永遠に生きておられるお方が、私たちのことを『忘れない』と言って下さっています。神との交わりの中におかれた人は、永遠に神のもとにあるのです。」と藤田牧師は説かれている。

両親は水の神様、火の神様、田の神様と自然の中の神々の存在を信じていた。また、お盆など、先祖からの守りを信じていた。しかし、両親はそれらの神々を大切に思っていたが、神々には「愛」という感情などないと知っていた。両親の信仰はこちらから一方的にお祀りすることを赦していただく存在だった。

藤田牧師が説かれる「神との交わり」「神の愛」は、キリスト教だけのものではないだろうか。神は一人一人の名を覚え、呼びかけて下さるお方である。いつまで経っても隣人を愛することのできない者だけれど、神は根気強く呼びかけて、真の道を与え続けて下さる。

コヘレトの嘆きは続く。「太陽の下でしたこの労苦の結果を、私はすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。(18節)」労苦して築いた財産も、死ねば全て相続人のものとなり、労苦の結果を支配する者は彼なのだ。労苦も空しく不幸なこと、風を追うようなことだと。

「自分が世を去った後のことはわかりません。それは誰かに託す以外にないのです。その誰かがすべてを無にしてしまっても、それで私たちの生涯が無に帰することになるのでしょうか。『与えられた時間の間で神から託された務めに励んだ』。そのことが確かであるなら、それで十分なのではないでしょうか。

誰が忘れても、神はご自分の僕(しもべ)をお忘れになりません。神が『良い僕よ』といって迎えて下さること、それが何よりの報いなのだと思います。」と藤田牧師は結ばれる。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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