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マタイによる福音書 23章23~24節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。 (23節)>

段落ごとに「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」が繰り返される。主イエスは彼らに対して呪いの言葉を言われたのではなく、嘆かれているのだとK牧師は説かれる。彼らが神の恵みの働きを拒み、自分たちを誇示するからですと。

彼らが献げる「薄荷」は風邪薬、調味料、過越祭の苦菜として用いられ、「いのんど」は薬剤、調味料として「茴香(ウイキョウ)」はクミンのことで風邪薬として用いられていた。これらの穀物の栽培はイザヤ書に記され、その時代から人々に馴染みの穀物であった。

律法は特にこれらの穀物の十分の一を献げることを命じていないが、彼らは自らの敬虔さを見せるために、これらの十分の一を神殿に納めていた。そこで主イエスは彼らが、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」と指摘される。

「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、遜って神と共に歩むこと、これである。(ミカ書6章)」

「正義を行う事」とは、善と悪をごちゃ交ぜにしないこと。人はしばしば灰色の領域があると考えたり、または「清濁併せ呑む」ことを大人の態度だと考えたりする。また人間の善悪は相対的なものであるともされている。例えば、私たちも戦時中「鬼畜米英」と言っていましたが戦後臆面もなく「欧米礼賛」になったのです。と解説書は記している。

けれども聖書は、人間同士の世界が神との関係で捉え見つめなおされている。神はイエス・キリストの十字架の死において罪と悪を滅ぼされた。罪のない神の子イエスが、罪人の代わりに滅ぼされた。神の正義、公平な裁きはこのような形で成就される。そこで主イエスは灰色の領域があるなどという思いではなく、正義は「行うべき事」なのだと命じられる。

「慈悲」とは、同情または憐れみを行為によって示すことでこの時代社会的弱者のために施しが行われていた。「誠実」は、真実、信仰の事であり、それは人間の側の態度のことでなく、神との関係において遜って神と共に歩むことであり、御言葉に聞き従うことである。

主イエスは彼らに「ものの見えない案内人」と呼ばれると、偽善によって眼をくらませ、人が神との交わりに生きることが見えなくなっている彼らを警告された。彼らは「ぶよ」の死骸のような小さなことには気が付いて取り除き律法遵守を誇示するが、「らくだ」のように富を運んでくる大きなことは自分のものにしていると言われた。

長く長老として仕えられたTさんが98歳で天に召され葬儀を執り行った。老後は、精神的に不安定な息子さんと過ごされ、経済的にも苦労された。それでも、献金を欠かされることなく「神様に献げること、教会のために祈ること」が最後の奉仕だと言われていた。

Tさんの口癖は残された者への励ましであった。どのような状況であってもクリスチャンには生きる目的が与えられていることを教えられた。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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