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ヨナ書 2章4~7節 [旧約聖書 ヨナ書]

<「地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げて下さった。」(7節)>

「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りを捧げて言った。(1.2節)」

「巨大な魚に呑み込まれる物語はギリシャ神話にもあり、記者はこのような伝承を用いて、神の救済を物語っている。2章では『不従順なヨナ』が、海に投げ込まれて初めて『祈り求めるヨナ』になる。」と解説書は説く。

今にも船が沈みそうになる状況は自分自身の背信のせいだと知ったヨナは、自分の手足を縛って海に投げ込むしか、神の怒りを、この大嵐を静める方法はないと船員たちに言い、そのようにするようにと願った。

その時のヨナの恐怖を思う。彼にはそれ以外の方法が考えつかなかった。「潮の流れが私を巻き込み、波また波が私の上を越えて行く。私は思った。あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。大水が私を襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。私は山々の基まで、地の底まで沈み、地は私の上に永久に扉を閉ざす。(4~7節)」。

「ヨナが大魚の腹の中で三日三晩過ごしたことは、最終的にそこから生きて地上に戻れたからそう言えるので、戻れるまでは、もうこれで再び地上に戻ることはあるまいと観念したことが、彼の祈り『永久に扉を閉ざす』という言葉から推測されます。それはさながら、死者が墓に身を横たえたさまを彷彿とさせます。」と三輪牧師は説かれる。

ヨナの上に起こった出来事は、地上での生を終えたものが、地上に生きて戻ることができた復活になぞらえられる。マタイ書12章で、主イエスにファリサイ派の人々が「先生、しるしを見せて下さい」と言った時、

「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる(40節)。」とご自身の死と復活を暗示された。

「一般に道化のように思われがちなヨナは、実は、イエス・キリストの死と復活を予示する重要な預言者だったのです。」と三輪牧師は結ばれる。

神に盾突き、従うことを嫌い、逃げ出すヨナは自分自身の姿である。トルストイの「靴屋のマルチン」を読んで感動し、自分も見習いたいと思い、たまたま通りがかったホームレスの人に声をかけようとしたができなかったと、友人が自分の情けなさ悔いていた。

情けない、愚かしい、そんな者を用いて神は宣教しようとされる。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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ヨナ書 1章1~3節 [旧約聖書 ヨナ書]

<ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」(9節)>

「神の前からできるだけ遠くへ逃げたいと、タルシシュ行きの船に乗り込んだヨナは、船に乗っただけではまだ安心できず、船の中でも甲板から一番遠い船底に身を潜めました。これで、安心とばかり、身を横たえた途端、緊張の糸が解け、ぐっすりとねこんでしまいました。」と三輪牧師は書き出される。

けれども、「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。(4.5節)」

嵐には慣れている船乗りたちでさえ恐怖に陥るほどの大嵐だった。船長はこの大嵐に船が沈没しそうだというのに、船底で寝込んでいるヨナをたたき起こして「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいてくれるかもしれない。」と言った。

人々は嵐を神の怒りと考え「くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。(7節)」と言った。くじはヨナに当たった。人々は彼に詰め寄って「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族出身なのか(8節)」と言った。

問い詰められるヨナにははっきりと心当たりがあった。ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。(9節)」そして、主なる神の命令を拒み、神のいない、主から離れた遠い地へ逃げてきたと人々に白状した。

人々は「なんということをしたのだ。」というと「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか」とヨナに言った。そうする間も、海は荒れ狂い、船は沈没寸前となった。

ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海に放り込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞った事は、私が知っている。(12節)」と言った。

乗組員たちは船を陸に戻そうとしたが、出来なかった。ついに彼らは主に向かって「主よ、…無実の者を殺したと言って責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから(14節)」と叫んだ。

彼らがヨナを海に放り込むと荒れ狂っていた海は静まった。人々は大いに主を畏れ、いけにえを捧げ、誓いを立てた。異邦人であった彼らが主をおそれ、主に祈った。

「アッシリアに神が憐みをかけ、ヨナを宣教のために遣わそうとされたことに彼は憤慨し、タルシシュに逃げたヨナ。半ば怒り、半ば不貞腐れていた彼が、大嵐のなか人々が夫々の信じる神の名を呼んで助けを求める様子に、彼の信仰が覚醒された。その証として自分を海に投げ入れることを命じます。命をかけた彼の宣教の始まりです。」と三輪牧師は説かれる。

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ヨナ書 1章1~3節 [旧約聖書 ヨナ書]

<「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」(2節)>

「ヨナ書は、12小預言書の中の一つですが、他の預言書とは違って、預言者ヨナの伝記でも、その活動や言葉を記したものではありません。預言者ヨナを主人公にした物語なのです。時代背景は、強大な世界帝国を形成したアッシリアが隆盛を誇った時代で、その首都がニネベです。」と三輪牧師は書き出される。

書かれたのは捕囚後の紀元前4.5世紀と言われている。捕囚期間後のユダヤは民族主義に固まっていたが、その中で偏狭な民族主義を風刺し、異邦人にも神の愛が届くことを説く。ヨナは紀元前8世紀に生きた北イスラエルの実在の預言者であり、彼の名を借りた作品ではないかとされている。

陥落(前722年)した北イスラエルの民はアッシリアの捕囚となって連行され、アッシリアのいくつかの町に住まわせられ、アッシリアの民が北イスラエルに移住してきた。その結果、北イスラエルの町は異邦人の住む町になっていた。その後、南王国ユダも滅亡(598年)し、捕囚となってバビロニアの首都バビロンに連行される。

アッシリアは、メソポタミア(現在のイラク)北部を占める地域に紀元前2500~605年まで隆盛を極めた王国で、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ…」と主がヨナに命じられた「大いなる都ニネベ」はアッシリアの首都であった。

異邦人の住む町の人々に宣教するなんて、どうして敵国の救いのために働かなくてはいけないのだ、とてもじゃないが自分はやりたくないことだ。ヨナは主の前から、主の声の届かないところへと逃げることを考えた。

「しかし、ヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れて主から逃れようと、タルシシュに向かった。(3節)」

ヨナが乗る船はスペインに向かった。アッシリアは北イスラエルを滅ぼし、南のユダも長くその植民地として支配されていた。他の預言者もアッシリアを嫌い、その滅亡を預言している。敵の救いのために…、逃げ出す自分だけが悪いのではない。ヨナの正直な思いであった。

しかし、主なる神にとってはエルサレムが大事なように、ニネベも大事であった。

「当時、世界の果てと考えられていたタルシシュ行きの船に乗り込み、ニネベとは逆方向に逃げ出したのです。しかし、自分は神から逃げ出したつもりでも、それで逃げ出せるわけではありません。わたしたちは『神の中に生き、動き、存在する』者だからです。」と三輪牧師は結ばれている。

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ルツ記 4章18~22節 [旧約聖書 ルツ記 ]

<ボアズにはオベドが生まれた。オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。(21.22節)>

「ルツ記の最後は、系図で締め括られています。先頭はベレツです。ベレツは、ユダとタマル、異邦人との間に生まれた人物です。オベドもそうです。だから、彼の系図はベレツから始めるのが相応しいと判断されたのでしょう。」と三輪牧師は書き出される。

新約聖書の最初に置かれている書「マタイによる福音書」の第1章「イエス・キリストの系図」と題が付けられその1節は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と始まる。

解説書は「わたしたちが人類に対する神の救いの計画を考える時、その救いの歴史を考える時に必ず知らなければならない人物が二人、アブラハムとダビデであります。アブラハムによって、その子孫によってすべての民が祝福されるというキリストの約束が与えられました。

そして、私たちはその約束を信じてアブラハムが生きたその信仰について学びます。次にダビデがサムエル記Ⅰから始まります。ダビデによってイスラエルが単なる共同体ではなく国として、国家として成り立ちます。そこで、ダビデによって浮き彫りにされるのが『神の国』であります。

神を王として神の統べ治める中に生きることをわたしたちは学んでいきます。そして神はダビデの世継ぎの子が永遠の御国の王となることを約束して下さいました。キリストを王とする神の国の約束です。

このダビデの出現のために、歴代の預言者は語りました。ヤコブはその死を前に、ユダの国から王権が離れることなく『メシヤ(救い主)』が出てくると語りました。そして、ユダのベツレヘムで起こった二つの逸話が士師記に記され、ルツ記にはこの美しい贖い(買い戻し)の出来事が書き記されたのです。」とルツ記を説いている。

ルツ記がただの、ロマンス話ではないと知ることができた。失ったものが買い戻されるということ、イエス・キリストの系図には、異邦人も入れられていたということを改めて受け止めることができた。主を信じる信仰には一切のボーダーがないのだと知った。

先日韓国人のC牧師に「韓国ではキリスト教があんなに盛んなのに、どうして私たちの国は伝道ができないのですか」とお尋ねしたら「それは国のせいでしょうか。あなたのせいなのではありませんか。」と答えられた。C牧師の信仰には国境がないのだと実感した。

次男は、母から強制的に聖書を与えられ読もうとしたものの、最初からカタカナの系図が記され、それだけで嫌になって聖書を放り出したと話していたことを思い出した。

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ルツ記 4章13~17節 [旧約聖書 ルツ記 ]

<女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。」(14節)>

「ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を生んだ。(13節)」

ボアズとルツの間には、男児が誕生し、オベドと命名された。彼はボアズ家の長男ではなく、本来マフロンが継ぐべきであったエリメレク家の長男として扱われ、その家督を継ぐことになった。消滅寸前の家名と家督が存続することになった。

女性たちの祝福の声。ルツ記はある意味では「ナオミ記」だと言えるかもしれない。彼女は夫を失い、息子を亡くし、すべてを失った後でモアブからベツレヘムに帰って来た。「どうかナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者が私をひどい目に遭わせたのです。(1章20節)」と声をかけてくれる人々にそう言っていた。

「夫と二人の息子を立て続けに失ったとき、ナオミにこんな人生がやってこようとは誰が考えたでしょうか。まず、ナオミ自身がこれで自分の人生は終わったのだと考えたに違いありません。

しかし、人間の側では一切の希望が失われても、既に、神の側では、新しい希望が芽生え始めていたのです。」と三輪牧師は説かれている。

主によって「すべてのことが益となる」のだが、注意深く読むと、それには条件があると解説書は「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ書8章)」を説く。

神を愛する人々のために、神がすべての事を働かせて益として下さるのであって、神を愛してもいないのに、すべてのことが益になるのではない。神に背いているなら、その人は自分の持っているものまで取り上げられてしまうことになると、説いている。

ルツはイスラエルの神を愛していた。この神を、自分自身が信じ、またモアブの民が信じていた神々を捨てて敬った。保証や安心を犠牲にし、すべてを明け渡して主に従った。その「神を愛する」生き方に、二人の辿った苦難に余りある慰めが与えられた。

子供の名前のオベドは「礼拝するもの」という意味を持つ。「ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。(マタイ書1章)」ダビデの名は「愛された者」の意味を持ち、彼は神に愛された王であった。

先日TVで、東北大震災で妻と3人の子を津波で流された男性が、亡くなった妻に夢で励まされ、奮起して被災地にイチゴ農園を作り、ファームランドとして広げてゆきたいと話された。そして、今は結婚して子供を与えられ、そのことを心苦しく思うが、新たな家族が励みになっていると話された。祈らずにはおれなかった。

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