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マタイによる福音書 9章1~8節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。(2節)>

「主イエスはガダラ人の地方から、ご自分の町カフェルナウムにかえってこられました。そこに、中風の人が連れてこられます。ここでは単に病気の癒しだけではなく、罪の赦しの宣言もなされています。」と渡部牧師は書き出される。

帰ってこられた主イエスを見て「人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところに連れて来た。(2節)」自分で起き上がることもできない人の床を友人たちが担いで、主イエスのところに連れてきた。

病人も、友人の声もこの個所にはない。病人が友人たちに頼んだのか、それとも友人たちが、絶望して生きる意欲を失くしている彼を見てどうしてもそのままにしておけず、治してもらいたいと思って、床を担いできたのかここに記載はない。

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。(2節)」主イエスはこの病気の人の信仰ではなく、彼を連れて来た人々の信仰を見られた。主イエスを信じ、彼を治してほしいという一心で、連れて来た人々の信仰を重んじられた。

病気の彼に「子よ」と呼びかけられ「あなたの罪は…」と言われる。この「罪」の原語は複数形なので、いわゆる「原罪」ではなくて、日常において犯してしまった個々の罪、多くの積み重なった罪である。「元気を出しなさい。」大丈夫安心しなさいと言われた。

主イエスと彼らのやり取りを横で聞いていた律法学者の中に「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。聖書をよく読んでいる彼らは、罪を赦す権威は、神のみにあることを知っていたので、心の中で不思議に思った。

主イエスは、彼らの考えを見抜かれた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』というのと『起きて歩け』というのとどちらが易しいか。(4.5節)」いずれも容易くはない。主イエスはこの二つは関連した事であると考えられた。そこで、主イエスが地上で罪を赦す権威を持っていることを示すため、病人向かって言われた。

「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美した。(6~8「節)

「体の癒しは、なおひとときのものであるにすぎない。たとえ、み旨により病が癒されなくても、罪の赦しの恵みに与ることは素晴らしいことである。罪の赦しは、すべてに勝つことのできる永遠の平安を与えてくれる。」と解説書は結んでいる。

床を担いで、主イエスに癒しを願った人々の姿は、隣人のために祈ること、行動を起こすことを喚起させる。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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マタイによる福音書 8章28~34節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。 (34節)>

舟は向こう岸のガラダ人の住む地方に着いた。ガラダは異教の文化、習慣を持つ地域であった。主イエスが到着されると、「悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に凶暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。(28節)」

マルコ書5章に読むと、彼らは墓場を住まいとし、凶暴性を帯びた精神病患者として、人々に見捨てられ、鎖を課せられていた。「突然、彼らは叫んだ。『神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。(29節)』」

現代の頭で考えると難しいが、当時は精神の病は悪霊が取りついてその人を支配すると思われていた。だから、この叫びも彼らに取りついた悪霊の叫びである。悪霊は主イエスを「神の子」と見抜き、しかも自分を苦しめる存在であることを知っていた。その上「その時ではない」と、自分たちが完全に打ち負かされる「終わりの時」ではないのにと思った。

彼らは、主イエスを「神の子」と正確に理解した。けれども、終わりの時までは、悪に対して何もなさらないお方だと思っていた。悪霊の理解は残念ながら自分たちもそうかもしれない。悲惨な事故や災害、重病、政治の無力、悪の力が猛威を振るっているというのに、神は何もされない。終わりの日にすべてをお示しになるのだと、思っていないだろうか。

そうではない。悪霊が「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ(31節)」と願うと、それを聞き入れられ「行け」と言われた。彼らは、次は豚の中に住み着いて何とか生き延び、また機会があれば人のところに戻ってくればいいと考えていた。

「行けと言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。(32節)」主イエスは悪霊の願いを聞き入れられ、彼らに使われることを選ばれたけれど、結局、悪霊は主イエスに敗北してしまう。

豚飼いたちは驚いて町に行って事の次第を知らせた。すると、町中の者がやって来て、イエスに、この地方から出て行ってもらいたいと言った。二人の病人は治ったけれど、こんな調子で、自分たちの財産を全滅させられてはたまらないと思ったのかもしれない。

けれども、もう一つ危惧したのは、悪霊を追い出すことのできるのは悪霊の親玉だからに違いないと思ったのではないだろうかとA牧師は説かれた。彼らは異教の人々で真の神を知らないから、この悪霊の親玉が、この土地に長居することは看過できないことだった。

A牧師は、精神病患者と言われる人々は現在の医療によってできるだけの看護が与えられているが、今は別の形で例えば家庭内暴力、虐待とか、周りの人と交わりができず自分の殻にこもり、家族さえどうしていいかわからない状況の人々。本人ではなく悪霊の仕業ではないでしょうかと言われた。

主イエスはガラダの人々の懇願に、二人の人を癒して「枕する所もなく」帰って行かれた。

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マタイによる福音書 8章23~27節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟はのまれそうになった。イエスは眠っておられた。 (24節)>

「人生には突如として嵐が襲う。嵐が襲ってこないことを幸福だと考えるならば、人には幸福はない。しかし、嵐が襲って来ても、主イエスと同じ舟に乗り合わせ、信仰をもって嵐に勝つ者は幸いである。」と解説書は書き出している。

主イエスが舟に乗り込まれると、主の招きに応えた弟子たちも従った。「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟はのまれそうになった。(24節)」、山に囲まれた湖にはとつぜん、突風が嵐を起こすこともある。舟がのまれそうになるほどの高い波が襲ってきた。

ところが「イエスは眠っておられた。」弟子たちの恐怖の声が聞こえないほど、昼間の疲れによる熟睡だったのだろうか。

そうではなく「主イエスの神に対する確固とした信頼である。神の国宣教のために、自らを与える使命を帯びて、地上に神の国を実現させるために世に降られた主イエスが、ここで湖底に沈み果てることがあるはずがない。という神への確信である。」と解説書は説く。

「弟子たちは近寄って起こし、『主よ、助けて下さい。溺れそうです』と言った。(25節)」こんな非常時だというのに、のんきに眠っておられると、弟子たちは主イエスを半ば批判しつつ起きて下さいと叫んだ。

「嵐の最中は、主イエスは眠っておられる。嵐の中でパニックを起こしている弟子たちの思いに寄り添うのではなく、一緒に戦うのでもなく、沈黙し、何も助けてはくださらない。そのように思えるのです。」と渡部牧師は説かれる。

私たちの小さな教会でも金銭的なことで、厳しい嵐に遭遇し、この個所を何度も読み合った経験がある。誰がその責を負うのかと互いに非難し合い、自分たちのエゴがむき出しになり、思い返せば恥ずかしい言動が重ねられ、教会員の数名が去った。

「イエスは言われた。「なぜ、怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。(26節)」

主イエスは、まず、弟子たちの信仰を励まし、さらに弱い彼らの不安を取り除くために、風と湖をお叱りになった。教会の体質を批判し、去っていく教会員がいた事は反省しなければならないが、その事に引きずられることなく、この個所に励まされ、主のなされる業を待つことができた。

「人々は驚いて『この方はどういう方なのだろう。』…(27節)」弟子たちは、嵐の中における信仰を学ぶよりも、むしろ主イエスの不思議な力に驚くばかりであった。

嵐を起こされたのも、静められたのも、主がなされたことなのだと、後になってやっと気づく。

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マタイによる福音書 8章18~22節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<イエスは言われた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(20節)>

「山上の説教を聞き、病気の人たちを癒される主イエスをみた人々が、今や群衆となって主イエスを取り囲んでおりました。その中から主イエスに従って行きたいという人が現れます。」と渡部牧師は書き出される。

解説書は「弟子たちに向こう岸に行くように(18節)」となっているが、原文には「弟子たちに」という言葉はないと記し、向こう岸に行くようにと命じられたのは、主イエスを囲んでいる群衆に向けて語られたのではないかと説いている。

向こう岸に行くには、主イエスとともにひとつの舟、不安定な湖の上を行く舟に乗ることである。主イエスのその小さな舟に乗るためには、田畑も財産も、家も、すべて置いて乗らなければならなかった。主イエスは群衆に「向こう岸に…」と呼びかけられた。

「わたしに従う者は誰か」という招きに、従って行こうとする者は、その舟に乗り込まなければならなかった。乗り込んだ時点で彼は群衆の一人ではなくなる。その主の招きに「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と律法学者が応えた。

彼が「先生」と呼びかけたことについて、解説書は「彼は、この人の下にいれば、多くの事を学ぶことができ、より律法を理解し、良き行いができ、自分を高めることができると考えた。自己を向上させるための手段として「あなたに従う」と言ったと説いている。

彼の言葉に主イエスは直接理解できるような言葉では答えられなかった。「狐には…だが、人の子には枕する所もない。(20節)」ご自分には休む場所がないと答えられた。しかし、律法学者は学びのためなら、いかなる苦労も厭わない覚悟があった。神の祝福に与るには、努力が必要であることは知っていた。

けれども、主イエスに従うことは、他の人よりも自分が高くなることではなく、狐や空の鳥以下になるということであり、「枕する所もない」というのは、この世には安心できるものや、居場所は全くないのだと話された。彼がそれを聞いてどうしたかは記されていない。

自分の信仰もこの律法学者に近いのかもしれない。説教を聞いてイスラエルの歴史を知り、欧米の人々の心に流れるキリスト教を知り知識も得た。信仰が与えられ、キリストを知らなかった時より、少し人間的に向上しているのではないかと思ったりする。

「自分を高め、安心させるために、主イエスを信じ従おうとする者の信仰はどこかで歪みやがては挫折してしまう」と解説書は戒めている。

他の宗教をご利益宗教だと非難する資格は自分にはない。

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マタイによる福音書 8章14~17節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。(15節)>

「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。」と8章は始まる。その山は、カファルナウムにある小高い丘のようなところだったと思われる。そこで、主イエスは5~7章の「山上の説教」を語られた。その教えを聞いた大勢の群衆が、主イエスとともに山をおりた。

「大勢の群衆」について4章の最後に「そこでイエスの評判がシリア中に広まった。…あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒された。こうしてガリラヤ・デカポリス・エルサレム・ユダヤ・ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」と記している。

山を下りられ、カファルナウムに戻ってこられた主イエスのもとに、重い皮膚病を患っている人が来てひれ伏し「主よ、御心ならば私を清くすることがおできになります。」と願い出た。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった(3節)」とある。

更に道を進まれカファルナウムに入られると、ローマの百人隊長が主イエスに近づいてきて、自分の部下の癒しを懇願した。主イエスは「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われた。「ちょうどその時、僕の病気は癒された。(13節)」

そして14節で、主イエスはようやくカファルナウムのぺトロの家に帰られた。その行程を考えてみると、この日の朝、主イエスはぺトロの家から、従ってくる大勢の群衆を連れて山に登られ、そこで「山上の説教」を教えられ、下山しての帰り道で、二つの癒しをされた。

そして、家に帰り着いてみると、今度はぺトロの姑が熱を出して寝込んでいた。そこで、主イエスはこの日、三度目の癒しの業をなされた。そして「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。」と続く。休息もない出来事を一日であったと考えるのは無理があるかもしれないが、けれども、5~8章は繋がっているとしか思えない。

マタイ書は「山上の説教」、いわゆる主イエスのみ言葉とこれらの癒しの業と、主イエスの行為は切り離すことができないことを示しているのだと解説書は説いている。

ぺトロの姑への癒しは、前者2名は主イエスのもとに癒しを願い出たが、この時は、主イエスが、ご覧になって、その手に触れられるという「主イエスの意思」による癒しであった。その主イエスの意思から、み言葉が発せられ、その大いなる権威によって、苦しみが癒され、病んでいる者が新しく生きて、もてなし(主に奉仕)する力が与えられた。

助けて下さいと、声にする力もなくなり、祈る力さえなくなってしまっても、主が憐れに思われ、手を差し伸べて癒して下さることもあることを教えられる。

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