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マタイによる福音書 5章27~30節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」 (28節)>

「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女と共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。(申命記22章)」

「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1章)」

7月の家庭礼拝歴担当、宇都宮松原教会渡辺静子牧師は、創世記と申命記をもとに「姦淫の罪は十戒において禁じられ、その刑罰は二人とも石をもって打ち殺すという、重罪でした。人間のみが、『神のかたち』をもつ尊厳ある存在に造られたからです。」と書き出される。

「姦淫」について解説書は「これを個人の性行動一般と勘違いする人が多いがそうではありません。旧約学者の説では『男性が、既婚女性や、嫁ぐ相手の決まっている女性と性的関係を持ち、他の男性の結婚を破壊すること』を意味したと言います。この意味でこの戒めは、イスラエル共同体の存立に関わる社会倫理的な規範だったと言える」と説いている。

絵画や音楽にされる「ダビデとバト・シェバ」の話を解説書はあげる。部下の将軍ウリヤの妻バト・シェバに横恋慕し、策を弄して彼女を自分のものにしたダビデ王は、罪の自覚を持たないまま甘い生活を楽しんでいた。

そこへ、預言者ナタンが来て「なぜ、主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか、あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。(サムエル記下11章)」と厳しく弾劾する。

そのときナタンが語った「富んだ男と貧しい男」の話の重点は、あらゆる富と権力を独占して王宮で何一つ不自由のない生活を送っている王が、他人の妻、しかも前線で戦っている忠実な部下の最も大切な部下を奪った。という所にあった。

このナタンの言葉によって、ダビデは初めて自らの罪を自覚し「わたしは主に罪を犯した」と告白する。自分は、イスラエル社会のあるべき秩序を破って神に背いたという告白である。「姦淫してはならない」という、十戒の第七戒はこのような罪を禁じている。

しかし、主イエスの時代、ファリサイ派や律法学者の間では、心に浮かぶ情欲、思いの中での姦淫の行為までは咎められないと解釈するようになっていた。彼らを見通される主は、それらの思いさえ切り取ることを命じられた。罪を犯すもととなるもの、躓きとなるものを取り除くことを命じられた。

マルチン・ルターは「鳥が私の頭の上を飛ぶのは妨げないが、鳥が私の頭に巣を作るのは防ぐことができる」とこの個所を説いた。

些細なことから人を裁くことがあるが、そういうことも初期の段階で自分の中の芽を摘んでおかなければならない。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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