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マタイによる福音書 6章9~15節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」 (9節)>

主イエスが教えて下さった「主の祈り」は、私たちの教会でも礼拝の中で会衆一同声を合わせて祈る。

「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけは、信頼する父が神の住まいである天におられることを思う。また「わたしたちの…」であって「わたしの父」でないことに、父はキリストに結ばれている全ての者にとって共通の父であることを知る。

「御名が崇められますように。」この祈りは、「どこかでいつか」神の名が崇められることを祈るのではなく「ここで、今」祈る者の中で聖とされる願いである。「御国が来ますように」というのも同様、「ここに、今」私の中に来たらせて下さいと願うものである。

「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」わたしが、神の戒めを守りますように、自分に巣食う傲慢を破壊し、キリストの住まいとなりますようにと願う。「わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい。」日ごとの糧を祈り求める時、一片のパンすらも頂く価値がない者が頂くことを願う祈りである。

「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。」私たちが隣人を赦したから、私たちの罪を赦してくださいと言うものではない。私たちは隣人の罪を赦すことを教えられている。その喜びを深く知り、進んでそのことを行う時、私たちの状態は救われ、真に罪が赦されているのである。

「わたしたちを誘惑に遭わせず」悪魔の誘惑は外からくるものではなく「わたしから取り除いて下さい、誘惑に落ち込ませないでください」と願うものである。自分を罪と悪魔に任せてしまわず、むしろ神の力に頼んでこれと戦い、勝利を与えたまえと祈るのである。

「悪い者から救ってください。」悪しきものとは、私たちの体と魂を汚し苦しめるものを指す。キリスト者はこれら一切から、救い出され、平和と喜びと和解とを得、天の祝福を豊かに与えられ、主と共にあることを願い求めるのである。

解説書を丁寧に読みながら、暗誦はできるけれど、その内容がはっきりわかっていなかったと「主の祈り」の意味を知ることができた。

「父よ」と呼びかけることにルターは「父よ、とは、全く親しみに満ちた、甘い、深い、心からの語り掛けである。もしも、私たちが、主よ、神よ、裁きの主よというのであれば、その呼びかけは、それほど愛しくも、慰めに満ちたものでもない。」と説いている。

ルターのドイツ語ではどういうのか知らないが、日本語では「お父さん」英語では「パパ」と呼んでもいいのだろうか。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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