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テモテへの第二の手紙 4章19~27節 [新約聖書 テモテへの第二の手紙 ]

<プリスカとアクラに、そしてオネシフォロの家の人々によろしくお伝えください。(19節)>

「手紙の最後に同労者たちへの挨拶が託されています。最初に名前が出ているプリスカとアクラについては、パウロが『彼らは、わたしの命を救うために、自分の首を差し出してくれた(ローマ書16章)』同労者として感謝し、異邦人のすべての教会も彼らに感謝していると言います。」と渡部牧師は書き出される。

パウロはテモテに「冬になる前にぜひ来てください。(21節)」と重ねて記している。獄舎にあってパウロは孤独を強めていった。その弱さはかえって主により頼み、主にあっては強いということになる。冬になると船旅はできなくなり、春を待たなければならなかった。

自分の裁判と処刑がそれほど先のこととは思えなかった。可能なら、第二回目の裁判にはテモテに弁護人になってもらいたい。「冬になる前に…」というのはパウロの痛切なまでの願いであった。

手紙の最後は「主があなたの霊と共にいて下さるように。恵みがあなた方と共にあるように」という祝祷で結ばれる。神の民は、キリスト・イエスの恵みによって存在する。テモテが仕えている教会の為に、豊かな聖霊の恵みを願った。

「霊と共に」というのは、テモテの内なる人に対する主の助けを願っています。迫害という外からの状況に対して、内なる人が強められることを、自分自身の体験を通してパウロは知っていたのでしょう。とO牧師は説かれている。

そして「パウロにとって宣教の初めから今に至るまで、力を頂いたのは、主が共にいて下さったからです。宣教の前進も救いも、恵みも、主が共にいて下さることによるのです。同様に、わたしたちにも主が共にいて下さるのです。それが救いであり聖化であり、働きの源泉であることは間違いありません。」と続けられた。

そしてフィリピ書1章「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然と崇められますようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません、この二つのことの間で板挟みの状態です。一方では、この世を去ってキリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが、他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにももっと必要です。」を朗読された。

「わたしの身によってキリストが公然と崇められ…」このパウロの願いは確かに適った。その成果をパウロは見ることなく、惨めな殺され方をしたとしても、神の栄光の中にいる。

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テモテへの第二の手紙 4章16~18節 [新約聖書 テモテへの第二の手紙 ]

<主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にあるご自分の国へ救い入れて下さいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(18節)>

「パウロが裁判のためローマに送られ、法廷で尋問が行われた時、彼のために弁護に来てくれるものは一人もなく、孤独な思いをしたことが回想されています。ローマの教会員の中には、弁護に立てる者もあったのに、パウロを見捨て、現れなかったのです。」と渡部牧師は書き出される。

キリスト者はローマ皇帝ネロによる厳しい迫害を受けていた。コロッセオでは、大勢の観客が集まる中、キリスト者は動物の毛皮を被せられて、猛獣に食い殺される様子を、見世物にした。ローマ政府はキリスト教徒を襲い、捕縛し、闘牛場に投げ込んだ。

パウロの側に立つことの恐ろしさを覚えずにはおれなかった。パウロは彼らを非難することなく「彼らにその責めが負わされませんように」と記した。かつて、目の前で殉教を遂げたステファノの最後の執り成しの祈り、また十字架上での主イエスの執り成しの祈り「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からないのです。」であった。

ゲッセマネの森で主イエスを見捨てて逃げ出した弟子たち、また、パウロを弁護することなく、見捨ててしまった人々。どんなに立派な人でも、所詮人間である限り当てにはならない。「主はわたしの側にいて、力づけて下さいました。(17節)」パウロに聖霊が豊かに注がれ続けた。

パウロが祈り願っていたのは、牢獄からの解放ではなく、神の助けによって死の恐怖の中でも、信仰を守り通すこと、与えられた宣教の職務を守り抜くことであった。裁判においてパウロを弁明する者はいなかったが、公判の場で、パウロ自らが弁明したことが、異邦人への宣教活動の機会として用いられた。神のご計画はそのようにして成就される。

「獅子の口から救われました。(17節)」については「単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、何の得があったでしょう。(Ⅰコリント15章)」から、闘牛場でのことか、それとも、皇帝ネロの象徴なのか、いや悪魔のことなのかと諸説があるらしい。

「悪い業から助け出し(18節)」と訳される「悪い業」のギリシャ語は「邪悪な意図を持った悪魔の仕業」のことである。悪魔の仕業でも、皇帝ネロの仕業でも、獅子の仕業であっても、信仰と異邦人宣教の務めと御国へののぞみをパウロから取り上げることはできない。

「パウロは、神があらゆる悪の業からパウロを救い出し、守り、御国へと入れて下さることを確信します。栄光が永遠から永遠に神にありますように。」と渡部牧師は結ばれる。パウロがむかう天の国が、刹那的な繁栄を極める地上のローマ帝国と対比される。

迫害や弾圧を受けたら自分は真っ先に降参するだろう。そんな恐ろしい社会にならないために、誰もが政治を行う人を監視し続けなければならない。

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テモテへの第二の手紙 4章9~15節 [新約聖書 テモテへの第二の手紙 ]

<ぜひ、急いでわたしのところに来てください。(9節)>

「福音の教えの継承者であるテモテに、必ず会っておかなければならないという切実なものがあるのでしょう。季節の上では、まだローマへの航路は閉ざされていないのですが、間もなく航路が閉ざされ、テモテが来られなくなるような事態を恐れて、急かしているのでしょう。」と渡部牧師は書き出される。

パウロは死を前に「ぜひ、急いで…」とテモテに来てくれるようにと願った。最初の裁判の時に、パウロを弁明するために誰も来てくれなかった。その時代の獄中生活の厳しさを思うと、日増しに近づく冬の気配も彼を心細くさせずにはおれなかった。

更に彼は、テモテに書物、特に羊皮紙のものを持ってきてほしかった。当時単なる文章は、植物の葦で作られたパピルスに書かれていたが、重要な内容のものは羊皮紙に書かれていた。それは聖書であったと考えられる。牢獄で彼が最も求めていたのは、御言葉であった。

10節はパウロと行動を共にした人々の名が記される。デマスは世を愛し、パウロを見捨ててしまった。茨の中に蒔かれた種が、芽を出してしばらくは生えていたが、困難や欲望が来ると、これらに塞がれて枯れてしまったことに似ている。

次にクレスケンスとテトス、そしてティキコは、福音宣教の為に遣わされて不在であった。そして、ルカによる福音書と使徒言行録の著者ルカだけがパウロのそばにいた。彼は医者でもあったので、パウロの看護をしていたものと思われる。

続いて「マルコを連れてきてください。(11節)」とパウロは願う。マルコは第二回宣教旅行中に、パウロから離れて帰ってしまった人物である。「…バルバナはマルコを連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったようなものは連れて行くべきではないと考えた。…(使徒言行録15章)」

パウロとバルバナは激論の末、パウロはシラスと、バルバナはマルコと、それぞれ別行動をとることになった。その後、バルバナの祈りによってマルコは立ち直り、マルコによる福音書を書き記すものとなった。離れていたものが戻って来た。デマスの逆ともいえる。

14節に登場する銅細工人のアレクサンドロは、パウロが目に見えない救い主を宣教することによって、偶像を制作する彼らの商売が妨げられると思い、宣教を妨害し、パウロたちを迫害する者に加担した。テモテに対しても害を与えるかもしれないので用心するようにと記す。

「テモテによって健全な福音の教えが守られていくこと。それをもう一度託し、別れをしたいということでしょうか。最後の最後まで神の福音が損なわれることなく、正しく保たれ、受け継がれてゆくことをひたすら願う神の人、パウロの姿です。福音の正しい健全な教えへの最後までの戦いがあります。」と渡部牧師は結ばれる。

このパウロの願いは聞き入れられたのだろうか。聖書にパウロの死を記す個所はない。

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テモテへの第二の手紙 4章6~8節 [新約聖書 テモテへの第二の手紙 ]

<わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。(6節)>

「神の憐みによる選びによって召され、イエス・キリストの使徒とされたパウロ、神により異邦人への福音宣教の戦いへと送り出されたパウロは、いまや、自らの戦いが終わろうとしているのを確信しています。」と渡部牧師は書き出される。

「世を去る」と訳された原文のギリシャ語は、船の錨を上げて出港する時や、天幕を解体して出発する時に使われる言葉である。それだから、死の暗さはなく、地上の生涯から解放されて出発する思いが込められている。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。(7節)」パウロの最後の思いは、迫害を受けても耐え抜き、福音宣教の使命を全うすることであった。

ベルギー人のダミアン宣教師(1840年生)は、ハワイのモロカイ島でハンセン病患者のためにその生涯をささげた。彼は16年間に1600人の人々を葬り、その棺を自らの手で造った。晩年彼もハンセン病に罹り、1889年に48年の地上の生涯を終えて天に召された。

死に臨んだ彼の言葉が記録されている。「何もかも、持てる限りを尽くした私は幸福者である。今は全く貧しく死んでゆく、自分自身の物と名の付くものは何もない、あぁ、何と幸いなことであろうか。」T牧師はパウロの姿に重なりますと紹介された。

旧約時代の神殿で、ユダヤ人の祭司が献げたものは、水と、ぶどう酒と、子羊などの血であった。パウロは、自分自身が血の献げ物だと言った。それは自身の死を暗示していた。

そして「今や、義の栄冠を受けるばかりです。(8節)」と続ける。当時のローマでは、運動競技者の勝者は、月桂樹の葉でつくられた栄冠が与えられていた。植物の葉で作った栄冠はやがて枯れてしまうが、天上での義の栄冠は、永遠に朽ちることのないものであった。パウロは迫害の中で、この世においての報いを望まず、天での報いを望み確信した。

「正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けて下さるのです。(8節)」時のローマ皇帝ネロの不正な審判と対比されているのだろうか。かの日、すなわち世の終わりの時、神が世界を審判される日、義の栄冠が授けられると告げた。

キング牧師の著書の中に「白人から迫害され、危険にさらされ、投獄されたりすると、こんな運動さえしなければ、安全だし、家族と楽しく平和に伝道者の生活ができる。そういう人もいるのだから、もう止めようとしばしば思う。」と。でも神は牧師を用いられた。牧師が黒人解放運動を止めることはなかった。

キング牧師でさえ、こういう心境になられたんだと思うと、親近感が湧いた。原発再稼働も沖縄辺野古基地建設も、差し当たって自分の生活にひびかない。自分が何か行動を起こすこともないだろうと逃げ腰になるが、神がそれを望まれていないなら、抗議し続けなければなるまい。

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テモテへの第二の手紙 3章1~9節 [新約聖書 テモテへの第二の手紙 ]

<しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。(1節)>

「よくよく心に止め、注意しなければならないことが語られます。それは、終わりの時に来るであろう試練についてです。恐れを抱かせることがあげられます。人々は、教会の中で自己中心的になり、金銭に執着し、大きなことを言い、神を畏れない者となり、自らを偽り、信心深い様子で兄弟たちを欺くのです。」と渡部牧師は書き出される。

世界情勢の不安定さ、あちらこちらで起こる自然災害、為政者たちの無策と無力、愛が軽々しく叫ばれ、不正がはびこり、「終わりの時」と言われたら、その時が目前なのだと思ってしまう。自分はよくわからないが、その時は一瞬に起こるのではなく、徐々に蝕まれるという形でなら、もう始まっているのではないかと思っている。

2節から4節に、神を恐れなくなった人々がどのような姿に変り果てるのかが列挙されている。そして、5節では「信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい」とパウロは命じている。

偽教師たちの中には、「他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。(6節)」と続けられる。私たちの教会は4分の3が女性である。だから、教会や宗教のことをよく思っていない人たちも、このように考えているかもしれない。

宗教は家庭を破壊し洗脳するんだと。確かに真の神からではない教えは、いくら修行しても、本を読んでも、暗誦が上手にできても、決して真理には到達しない。

「モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられた通りに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。そこで、ファラオも賢者や魔術師(ヤンネとヤンブレ)を召し出した。彼らもまた同じことを行った。それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らをのみ込んだ。(出エジプト記7章)」

エジプトの賢者や魔術師も真理に逆らった人であった。彼らは精神の腐った人間だとパウロは断定した。「精神の腐った」と訳されたヘブライ語は、受動態が使われており、厳密に訳すと「精神が腐敗させられている」という意味になると解説書は説いている。

彼らの罪の特徴は、愛の対象が、神や隣人ではなく、もっぱら自己に、あるいは自己を満足させる地位や財産になっていた。

「宗教の本質は、生活の外形や認識にあるというよりは、生きる力、自己を放棄する力です。『悪しき人々を避けなさい』と言われています。偽りの教えとは、本物に限りなく似ていますが、似て非なる存在です。天使を装う悪魔も然りです。」とK牧師は説かれた。

天使と悪魔を見分ける力は、自分を捨ててはじめて手にすることができるように思う。

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