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コヘレトの言葉 5章12~19節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<人は、裸で母の胎をでたように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何一つ持ってゆくわけではない。(14節)>

「14節は、ヨブ記にも記されている言葉で、私たちの命の初めと終わりの様子を的確に表現しています。私たちは生まれた時何一つ携えていません。死ぬ時も同じです。この世に生きている間、どれだけのものを集め、身に着けたとしても、すべて手放していかざるを得ません。」と藤田牧師は書き出される。

今日はこの文書の最後のブログなので、藤田牧師の原稿をそのまま転載させていただく。

「でも、死の時、裸でどこに帰るのでしょう。帰るとしたら、それは神のもと以外にありません。そこに裸でいかざるを得ないということは、神の前に恥じることなく立つためには、私たちが地上で集めたどんなものも役に立たないということでしょう。

神はそのようなものをご覧になるのではありません。そして、神がどう見て下さるかということに、私たちの生涯に意味があったかどうかにかかっています。そのことを忘れ、ひたすら地上のものだけを追い求めることは空しいことではないかと、コヘレトは問いかけているように思います。」

<神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。(17節)>

「私たちに与えられている人生は短いとコヘレトは言います。その間、労苦は絶えず、その労苦の結果も永遠に続くようなものではありません。ならば、与えられたものに満足し、それを楽しみながら生きるのが良いとコヘレトは勧めます。

人それぞれにその人の分というものがあります。それは、神がそれぞれに与えて下さるものです。神はひとりひとりに異なる賜物を与え、それを用いて生きるよう、それぞれに召しを与えておられます。

その召しに相応しく生きることができればそれで十分です。人と見比べて、与えられたものの量が多いとか少ないということに煩わされ、自分に与えられたものを喜べないとしたら、自分で自分を空しくしてしまうことになります。

神が託して下さったものが何かを確かめながら、神と共に、御心に従って生きる一日を送りたいものです。そこに満足があり、幸福があるのではないでしょうか。」と結ばれた。

人に秀でるものは何も持たず、「自分に託されたもの、与えられているもの」それが何か、いよいよ人生の終盤に差し掛かっているのにいまだに分かっていない。けれども、分かっていないから、面白いのかもしれないとも思っている。

この頃は、山頂近くとわかっていても足元ばかり見ながら、必死で前の人について行っている。「着いたよ」という誰かの声にやっと顔を上げ、歓声をあげる。そんなことなんだろうか。

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コヘレトの言葉 5章11節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<働く者の眠りは快い。満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。(11節)>

「一日一日を満足して終えることができるとしたら、それはどんなに幸いなことでしょうか。現代は忙しい時代で、わたしたちはいつも何かに追いかけられているような暮らし方をしているような気がします。」と藤田牧師は書き出される。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ書6章)」

その御言葉どおり、精一杯身体を使って働き、一日の終わりを満たされた思いの中で眠りに就くことができたらどれほどいいだろうかと、孫たちの眠りを見ていて思う。歳を重ねると、眠ることにも苦が伴う時がある。

コヘレトは「働く者の眠りは快い」という。自分のなすべき務めが何であるかを知り、その務めを果たすことを喜びとしている者は、与えられたその日を満ち足りて終えることができるというが、そうだろうか、足りなかったことを思い返しては眠れない時が多い。

T牧師は、コヘレトの言葉は、聖書全体の中でも異彩を放つ文書だと言われた。「知恵文学」と分類されているが、同じ知恵文学の「ヨブ記」では、どんなに苦しい試練があっても、神の深い意図が隠されているのだから、神を信頼して生きよう、神は幸福を与えて下さるのだから、不幸をも頂こうではないかと教えています。

コヘレトの言葉はそれとは真逆の印象を与えます。そして、冒頭から「すべてが空しい」という言葉が繰り返され、その言葉によって、聖書によって満たされたい、聖書を読んで希望を見つけたいと思っている人を拒絶するような印象を与えている。

けれども、この文書を読む時、私たちは人生における様々な出来事に一喜一憂するのではなく、すべては神が与えた時の中にあって移り変わって行くものだと、冷静な平常心を保つことができる。「落ち込むことがあっても、またそこから這い上がる時を神が与えて下さるのだと、大きく構えることができそうな気がしませんか。」と問いかけられた。

そして、いつ、どんな時でも信仰さえあれば幸せに生きられるというわけではなく、辛い時も、苦しい時もあるし、理不尽だと思う事に出くわす時もある。しかし、「現実というのはそういうものだ」と、共に嘆き、共感してくれるのがこの文書なのだと言われた。

今朝は草むしりに励んだ。頑張っていると雨が降って来たので中止せざるを得なかった。中途半端で心残りであったけれど、本心は雨が降ってそれを理由に中止出来てほっとした。腰が痛くなっていたからだ。体力を尽くして働かないので今夜の眠りも浅いだろう。

草は、抜いても抜いてもまた生える。草抜き自体が「空しい」とコヘレトは言うだろう。

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コヘレトの言葉 5章9~10節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。(9節)>

富を愛する人は、さらに富を増し加えようとするが、けれども「それが『愛する』ということでしょうか。それは本当に愛しているのではなく、単に自分の所有欲を満たそうとして、際限なく集めているだけのような気もします。」と藤田牧師は説かれる。

「財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。(10節)」。米国大統領はビルや、ゴルフ場を所有しながら、そこで寛ぐ時間も持てず、その警備に追われ、どこからくるかもわからない攻撃に、日々怯えて暮らしているだろう。

お金は人生に必要なことは論を待たないけれど、しかしお金は魔性を持つ。さらなる富を求め、満足することはない。富は人間を幸せにしないとコヘレトは語る。

「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害な様々の欲望に陥ります。その欲望が人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、様々なひどい苦しみで突き刺された者もいます。(Ⅰテモテ6章)」

パウロは、自分の財産保持に汲々するだけでなく「金持ちになろうとする」こと自体が大きな過ちを犯すと説いた。「信心は、満ち足りることを知る者には大きな利得の道なのです。なぜなら、私たちは何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持ってゆくことができないからです。(Ⅰテモテ6章)」と説いている。

富を愛する愛は、主イエスの説かれる「愛」ではない。藤田牧師は「愛は、一方的なものではなく、愛する事が愛を呼び起こし、自分も同じように愛される事を願うものです。語り掛け、答え合う。そんな関係の中にこそ愛は宿るのではないでしょうか。富にそんな関係を求めても答えは返って来ません。その愛は空しく終わるのです。」と説かれている。

「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。…愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。片手を満たして憩いを得るのは、両手を満たして、なお労苦するよりも良い…(4章)」コヘレトは空しいと嘆く。

愚か者は怠惰によって身を持ち崩し、金持ちは富に支配されることを通して人生を浪費している。共に満たされることのない人生だと。

動物の中で人間だけが、明日のことがだいたい見えるから厄介なのに違いない。今晩の献立、明日の買い物、予定など考えると、それだけの資金が必要だと気づくので、蓄えがなくては・・・。となって行くのだろうか。

競争心、向上心、探求心すべて、悪いものではない。用い方に問題があるらしい。

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コヘレトの言葉 5章7~8節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら、身分の高い者が、身分の高い者をかばい、更に身分の高い者が両者をかばうのだから。(7節)>

「社会に不正がはびこっている事実を目の当たりにしても驚くなとコヘレトは言います。…社会の仕組み自体が不正を行う人々に都合よくできてしまっているのです。その指摘はまるで現代の私たちに対するもののようにも聞こえます。」と藤田牧師は書き出される。

コヘレトは改めて経済的不平等の問題に言及する。この世に正義はなく、あるのは「強い者がさらに強くなる」という現実であった。どの時代、どの社会にも経済格差の問題があり、裁きは学閥や門閥、経済的な力によって左右されることが起こる。

古代社会の王たちは、正義と公正を守ることが期待された。そうでない王たちは預言者の厳しい糾弾を受けた。「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。(エレミヤ書22章)」

イスラエルの民は王位に着いていても、王自身が自分は神の僕に過ぎないと自覚していた。

「何にもまして国にとって益となるのは、王が耕地を大切にすること。(8節)」この聖句に、安倍首相が国連で、北朝鮮ともはや対話ではなく力だと得意気に演説した事が重なる。彼は戦後の焼け野原も、その惨禍も家族から聞く事もなく育ったのか。彼の一族が戦争をどのように伝えていったのか、裕福ではあったが、彼は貧しい者だと思わずにはおれない。

戦争に勝って大喜びするよりは、豊かな収穫を喜ぶ方がどれほど幸せか、国民にそのような喜びをもたらすことのできない人が、為政者になってほしくない。

「権力を持つ者は、自分たちに都合の良い仕組みを作り上げ、不正が不正として明らかにならないようにしてしまうものなのです。だからこそ目を覚まし、本当に正しいことや良いことは何かを見つめ、求め続けている。その社会にとっての良心のようなものの存在がなければならないのではないでしょうか。」と藤田牧師は勧められる。

力に力で対抗するのは愚かすぎる。人間の力には限界があるとK牧師はバベルの塔の話をされた。「バベルの塔(創世記11章)は、崩壊しました。原子力発電もまた壮大なバベルの塔と思えます。

核燃料は、冷却装置が喪失しただけで、何十万人の人間がその土地を追われました。その福島の体験を忘れたように、再稼働が始まっているのです。バベルは崩壊したのに、またバベルの塔を造ろうとしているのです。コヘレトの冷笑が聞こえます。」と。

力に勝つのは、真の知恵でしかない。為政者たちに与えられますようにと祈る。

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コヘレトの言葉 5章3~6節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。(3節)>

「誓いをたてるのなら必ず果たしなさいとコヘレトは教えます。誓いを立てる時、初めは誰もがそう思っているでしょう。しかし、次第にその思いが薄らぎ、何を約束したのかもわからなくなってしまうことがないとは言えません。」と藤田牧師は書き出される。

コヘレトは無神論者ではないが、伝統的な神信仰「神は求める者に応えて下さる」を信じることは出来ないと言った。神に犠牲を献げれば幸福になれるという安易な恵みを否定した。人々は供え物を神が喜んで下さると信じ、神殿に詣で献げ物をした。しかし、神が動物の犠牲を必要とされるだろうか、初穂を食されるだろうか、それはないと言った。

神が求められるのは、神の言葉を聞くことに尽きると。しかし、人々は自分の願望を満たすため様々な誓いを立てた。しかし、果たすことのできない誓約など何の役に立つだろうかとコヘレトは語った。

「シモン、シモン、サタンはあなた方を、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。…」と主イエスがぺトロの離反を予告されたとき、ぺトロは「主よ、ご一緒なら、労に入っても死んでもよいと覚悟しております。」と答えた。(ルカ書22章)

「主を知らないなどと決して言わないといったぺトロは、そのすぐあと、三度も知らないと言ってしまいます。私たちの言葉は、いつでも語られた通りの中身が伴っているとは言い難いのです。」と藤田牧師は説かれる。

水曜日の祈祷会は短いお勧めの後、出席者が順番に祈る。祈りが人に聞かれることを意識してしまい、整った祈りを・・・と思ってしまう。「神の前に言葉を出す。」祈りは、中身のないことを言い連ねるのもよくないが、気ぜわしく慌てて言葉を並べるのも、自らを愚者だと言い表しているようなものだとコヘレトから指摘される。

「神は願う前から必要な物をご存じだから、そのことを信じる者は神に信頼し、委ねることを知っています。だから、自分の言葉で神を操ろうとするかのような祈りをすることはないのです。」と藤田牧師からも注意を受ける。

運動会の宣誓、証人喚問の宣誓、結婚式の誓いの言葉、誓いが身近にある。Yさんのご主人が鬱になられ、彼女のお母さんが神を恨むようなことを言われた時、彼女は「病む時も・・・」って誓ったのはこの時のためよ。神様が一緒にいて下さると笑って答えられたそうだ。

Yさんの決意は正しい。けど長く生きていると、誓った事をやり遂げるのは難しいとつくづく思う。

間違ってしまった時、悔い改め、主に立ち帰ってもう一度やり直す、何度でも何度でも、それが誓いを偽りにしてしまわない在り方なのではないか。その謙遜さを持ちつつ、主の御心に従うことを求めて生きていきたいと藤田牧師は結ばれる。

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