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コヘレトの言葉 1章12~15節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。(14節)>

「太陽の下には、新しいものなど何一つないとコヘレトは言います。新しいと思うのは、かつてあったことを忘れているからにすぎないと。・・・新しいものが発見されたというニュースも聞きますが、でもそれは私たち人間が知らなかっただけで、それ自体はずっと以前から存在していたのです。」と、藤田牧師が昨日の個所を書き出される。

「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。(3.4節)」コヘレトは地上の営みは無意味な繰り返しと感じていたのだろうか。

「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる。(5~7節)」と、続けられる。

しかし、それらは命の鼓動であっても、無意味な繰り返しではないのです。自然の中に神の臨在を示し、神の栄光が現わされていると、詩編は説いています。とK牧師は説かれた。

「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくとも、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。そこに神は太陽の幕屋を設けられた。(19章)」と。

宇宙の仕組みが学校で大雑把であるが教えられる今の世と、コヘレトの時代は違いすぎるので、その空しさの実感を共有することはできない。彼らの時代には情報が乏しいことによる恐怖があったことに比べ、今の世は大量の情報によって増幅する恐怖がある。

農夫であった両親は、雲の動き、風の様子で明日の作業に備えていた。蝉の鳴き声に元気がなかったとか、カエルが少ないとか、言い伝えやまじないもあり天気の予想が外れることもあったと思うが、その時代は、耳や目、体感を駆使して生きていたと思われる。

物事を深く知れば知るほど、人には手を出せないことがある。コヘレトはどれだけ知識を得ても、それは苦痛でしかなかった。人の知識は万能でも全能でもない。知識を深めていけば何でもできると思わず、真の知恵である「主への畏れ」を求めることを伝えた。

クリスチャンではない両親だったけれど、自然の中に神々を確かに見て、畏れをもっていた。そういう風土に育ったものだから、田んぼの中の鳥居とかお地蔵さんにはなにか神聖なものを感じてしまう。偶像崇拝を避けなければいけないが。

無条件に神様、仏様を信じていた両親に比べて、自分は無条件に主を信じていると言えるのだろうか。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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