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マタイによる福音書 27章11~14節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<すると、ピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。(13節)>

「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。」と27章は始まる。

ポンティオ・ピラトはユダヤを統治したローマの総督(26~36年在位)ピラトの官邸は地中海沿岸のカイサリアにあった。エルサレム滞在中は神殿を北西から監視できるアントニア要塞に住んでいた。ユダヤの最高法院は主イエスを死刑にすべきだと合意したが、法律上、死刑判決を宣告できたのはローマ人だけだった。

最高法院のメンバーたちが、主イエスをピラトの元に連行する場面から、一転して「ユダ、自殺する」とタイトルが付けられ、ユダが後悔し祭司長たちに銀貨30枚を返す記事が続く。ピラトの前にいるはずの祭司たちが、どうして神殿にいるのか不思議なことだが、解説書は「マタイの目的とするところは神学的なものである」と説明している。

「『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし、彼らは『我々の知ったことではない、お前の問題だ』と言った。そこでユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(4節~5節)」ユダの惨めな末路が記される。

ぺトロの三度の否認が、主イエスの勇敢な告白とぺトロの臆病さを比較する目的で、カイアファの前での主イエスの尋問と並べられているように、ユダの振舞いは、祭司長たちとピラトがローマの裁判において何をしたのかということを際立たせている。

ユダの記事は、主イエスに罪がないとユダが告白したことと、ピラトの前に主イエスが連れてこられたのは、祭司長たちの主イエスの対する妬みのゆえであることを示し、ユダが銀貨を返還したのは、この陰謀の第一の責任をユダヤ人指導者に帰することを象徴する。

それにしても、唐突なこの記事を、もっと後に持ってきてもいいように思うのだが、と前置きして解説書は「まさにこの位置にあることで、もう一つ別の目的を果たしている。ユダに関する物語は、ぺトロに関する物語を引き立てる役割を構成している」と説いている。

彼らは二人とも、主イエスに対して重大な罪を犯した。しかし、ぺトロは主イエスが言われたことを思い出して激しく泣いたことで、真摯な悔い改めを表明しているのに対して、ユダは単に「後悔した」に過ぎないのである。

ユダは自分の罪に気づいているけれど、神の憐みに身を委ねることをしなかった。その代りに彼は汚れた金を返還することによって、自分の罪を買い戻そうとした。裏切りの罪よりもさらに悪いことは、主イエスが宣べ伝えた恵み深い神を信じる信仰から、ユダが堕落したことであると解説書は説いている。

このマタイ書が記された頃、キリスト教迫害に多くの信徒たちは苦しんでいた。彼らの中には棄教する者、裏切る者、密告する者、まさにぺトロやユダのような者が多くいた。

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マタイによる福音書 27章15~26節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<ピラトが、「ではメシアと言われているイエスの方は、どうしたらよいか」というと、皆は、「十字架につけろ」と言った。(22節)>

「イザヤ書53章において預言された苦難の僕について、イスラエルの民や宗教指導者たちに正しい認識があれば、主イエスを十字架につけろと叫ぶことはなかったと思います。彼らの現実は神のみ言葉を土に埋めている状態だと言えます。」と4月の家庭礼拝歴担当、神戸桜が丘伝道所牧師、池永順一牧師が書き出される。

裁判の物語は「お前がユダヤ人の王なのか」というピラトの尋問によって始まる。このピラトの言葉は、4福音書すべてに記される。そして「ユダヤ人の王」という言葉は、生まれたばかりの幼子を捜す3人の博士によって用いられ、主イエスの十字架上にも記される。

主イエスはその質問に「それは、あなたが言っている言葉です」と言われた。それは、質問者が尋ねていることの真理について、意図的ではない形において、質問者その人に証言させたことになった。主イエスはその後どんな訴えにもお答えにならなかった。

「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった。(イザヤ53章7節)」。主イエスは父の意思に従って死へと赴かれるのだから、自分自身を弁護されない。

「ところで、(過越)祭のたびごとに、総督は民衆の希望する囚人を1人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。(15,16節)」ピラトは群衆に「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか」と尋ねた。バラバについてマルコ書には「暴動の時人殺しをした」と書かれている。

ピラトは群衆に「剣によって彼らを救おうと努めるイエスか」それとも「彼らの罪のためにその命を与えるイエス」を釈放するのかという選択を迫った。解説書は「胸を刺すような選択である。キリスト者ならそれは永続的な状況であることを告白しなければならない。私たちは、今なおキリストにましてバラバを選ぶような誘惑にさらされている。」と戒める。

どちらを釈放してほしいのかとピラトが言うと、「人々は『バラバを』と言った。ピラトが『では、メシアと言われているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は『十字架につけろ』と言った。(21.22節)」

群衆はますます激しく「十字架につけろ」と叫び続け、騒動が起こりそうなのを見て、ピラトは水を持ってこさせ、群衆の前で手を洗い「この人の血について、わたしには責任がない。」と言った。人々は「その血の責任は我々と子孫にある。」とこぞって答えた。この個所を元に「キリストを殺した者たち」としてユダヤ人迫害が正当化された時があった。

解説書は「ユダヤ人が『その血の責任…』という発言は、むしろイスラエル全体が最後決定的な方法でメシアを拒絶してしまった事、そしてその結果、神の特別な民としての地位から放逐されるに値するという神学的な確信が表明されたのである。」と説いている。

「剣によって平和を人々に」と願ったバラバは革命家だったのだろうか、現在、この時、彼のように間違った正義を振りかざし武器を構えている者がいる。世界の為政者のためへの祈りを主が聞き届けて下さいますように。

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マタイによる福音書 27章27~31節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。(27節)>

「ローマの兵士たちは、主イエスを嘲笑するために着物を剥ぎ取り、赤い外套を着せ、茨で編んだ冠を主イエスの頭に載せました。そして右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき『ユダヤ人の王、万歳』と言いました。彼らはユダヤ人の持つ神信仰を愚かな虚しいものととらえていた可能性があります。」と池永牧師は書き出される。

池永牧師の書き出しに続く30節は、「また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるため引いていった。」とある。

「打とうとする者には、わたしの背中を任せた。ひげを抜こうとする者には頬を任せた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。(イザヤ書50章)」ここでも預言が成就される。

ピラトは群衆の前で手を洗い「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」と言ったが、彼の直属の部下たちの行為からみても、彼に責任がないとは言えない。自分の立場を犠牲にしてでも、彼は神に与えられた良心を貫くべきだった。

「かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。(イザヤ書52章)」

解説書は「イエスを十字架につける」とは「祭司長たちのように自分の罪を認めず業績によって生きることを示し、また、群衆のように光よりも闇を愛することを意味し、ユダやピラトのように自分の計画や立場を優先させることを示す。このようにあらゆる醜さと悪い行いが一つに集約されているのが、イエスを十字架につけることです。」と説く。

S牧師は「忘れてはならないことは、神がその出来事が起こるようにされたという事実であす。その計画は、ご自分の愛を私たちに示す計画です。神が私たちを愛され、神が私たちの罪のためご自分の独り子イエス・キリストを死に渡されたという真実です。今、読んでおります主イエスの苦しみは、人間の醜さが良く現われていると同時に、神の私たちに対する愛が、完全に示されているところです。」と説かれた。

物語として読んでいると気づかないが、主イエスを自分が慕い尊敬している親や、誰かに置き替えてみるとそれがどんなに残酷なことかを知る。昨日まで自分を励まし、心を癒して下さった方が、何も知らない粗野な野蛮な者たちによってぼろ布のように・・・。この先を読むのが辛い。

どこからかスーパーマンが現れて正義が完成されるということもなく、どんどん絶望の底に落ちてゆく。教会では、明日の木曜日に夕礼拝が守られ、金曜日の3時には祈祷会がもたれる。

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マタイによる福音書 27章32~44節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。(37節)>

「主イエスは『ゴルゴダ』と呼ばれる刑場で十字架につけられました。ローマ総督ピラトは、主イエスに罪を見出すことはできませんでしたが、周囲の圧力に屈して主イエスに死刑判決を下したのです。それはある意味、世界の公権力の現実を示しているのです。そこには、真の神を知らない実態があり、自己保身に向かう人間の弱さがあります。」と池永牧師は書き出される。

十字架刑を宣告された者は、十字架に使う横木を担いで刑場まで歩く。人目に曝し、見せしめにするためだった。主イエスは夜を通して尋問され、鞭打たれ、打擲され、十字架を担ぐには無理だと見た兵士たちは、通りがかりのシモンに無理に十字架を担がせた。

「そして、イエスをゴルゴダという所―その意味は『されこうべの場所』―に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それからイエスを十字架につけて、その服を分け合った。誰が何を取るかくじ引きで決めてから。(22~24節)」

死刑執行についてマタイ書はわずかしか記されていない。手や足に釘を打ち込まれ、その痛みを和らげるためにぶどう酒が与えられたが、主イエスはそれを拒まれたことが記されているだけで、その苦痛、また絶望的な渇きなども触れられていない。

解説書には「イエスは完全に受動的なのである。細部まで描写されているのは、犠牲者『イエス』ではなくて見物人たちについてなのである。」と指摘する。

第一の見学人は、キレネ人シモン。マルコ書によると彼はユダヤ人で、過越祭を祝うためにエルサレムに来た。彼は主イエスの十字架を担ったことで後にキリスト者になったと考えられている。受難物語の沈黙の見物人と言える。

次は兵士たち。彼らは残忍な死刑執行人というだけでなく、詩編69編「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします。」同22編「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」預言の言葉が悉く彼らによって成就されてゆく。

次は強盗たち。「ユダヤ人の王」の左右の十字架につけられた2人。「共に死を」と言いながら、主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちに代わって彼らにその地位が与えられた。しかし、彼らは主イエスを罵り、その役割を拒み、他の見物人と同調した。

次は通りがかりの人々。哀歌2章「道行く人は誰もかれも、手をたたいてあなたを嘲る。」詩編22章「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い。唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けて下さるだろう』」

次は、祭司長たちや律法学者、および長老たち、すなわち主イエスに有罪判決を下した指導者。

今日はここまでで紙面も時間も尽きてしまった。とにかく彼らが主に油注がれた者を嘲笑するのは、すべて神のご計画に即しているのである。

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マタイによる福音書 27章45~56節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。(50節)>

「信仰を持つ者は、主イエスの十字架をいつも覚えなくてはなりません。私共の生きる時間、住む場所に現臨の主を迎えるということの意味は、罪の贖いのために十字架に付けられた主を仰ぎ、感謝の応答をすることなのです。特に礼拝において聖餐式に与るという行為は重要です。十字架における主の愛と恵みを聖霊によって受けるからです。」と池永牧師は書き出される。

「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。(45.46節)」

解説書は「福音書全体は、謙遜と畏敬の念を起こさせることを目指しているのである。つまり、意気を高めるような演説を行う代わりに、イエスの最後の言葉は、責めさいなむような問いを読者に提示するものになっている。」と記している。

また、別の書は詩編22編「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いて下さらないのか。」を引用し、遺棄の状態の叫びに代わって、詩編に流れる神を信じる信仰の勝利に満ちた宣言であると説いている。

自分はどっちかわからないので、今日は手元の解説書に沿ってみる。「ヨブが神の正義を問題視したように、神に大きな信頼を置いている人々だけが、神が遠ざかっておられる時に、失望することがありうるのではないか。それでは、主イエスは本当に神に見捨てられたと感じられたのだろうか。記者マタイはたしかにそうだったと信じている。

しかし、彼は主イエスには罪がないとみなしている。とすれば、神から見捨てられた主イエスは、罪びとたちのための身代金となって下さったということにおいて考えられる。神から分離して、罪が支払うべき代価、他者のためにその代価となられたのだ。」

主の最後の言葉が理解できなくても、「罪と何の関わりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。私たちはその方によって神の義を得ることができたのです。(コリントⅡ5章)」とパウロが言うように、十字架が指し示す神秘を瞑想することがここで求められている。

「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。(54節)」兵士たちとは、主イエスの復活の後に、彼らに対して福音が説教されるような、大多数の異邦人を指している。

「使徒信条で十字架の主は陰府に降られたことを告白しますが、それは主イエスが神の裁きを受け、神に見捨てられる苦難を味わったことを示しています。それゆえに私共は感謝し、真の神にして真の人である主イエスの十字架の贖いの御業に心合わせて生きることができるのです。」と池永牧師は結ばれる。

信仰を持たないNさんと友人として付き合うのに疲れる時がある。先方もややそのような時があるらしい。器用になれず困ったことだ。

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