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マルコによる福音書 12章18~27節 [新約聖書 マルコによる福音書]

<死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。(25節)>

妻がいる男が子供を残さずに死んだ場合、古代イスラエルではその弟が未亡人を妻に迎える習慣があった。2人の間に生まれた子は、死んだ兄の子と見なされ、兄の名が次の世代に伝えられた。主イエスの時代にはこの律法はそれほど厳守されていなかったが、サドカイ派はこの習慣を利用して、死後の生について質問した。

サドカイ派はユダヤ人の富裕階級で、祭司と密接な関係にあった。彼らの教えで重要なのは、神殿に行って犠牲を献げることであった。ファリサイ派は死後の生を信じていたが、サドカイ派は、律法に記されていないという理由から信じていなかった。

サドカイ派の人々が主イエスのところに来て「先生、モーセは私たちのために『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と言っていますが・・・」と言い、その後、次々と7人の夫が死に、最後に死んだ女は、復活の時、彼らが復活すると、彼女は誰の妻になるのかと尋ねた。

主イエスはエルサレムに入られると、神殿から商人を追い出し宮清めを通して、神殿祭儀の欺瞞性を批判された。この事を機にユダヤの指導者たちが、主イエスを警戒し問題視するようになった。彼らは祭司や律法学者たちを遣わして主イエスに論争を挑ませた。

最初の主イエスへの質問は「何の権威で、このようなことをしているのか。誰がそうする権威を与えたのか」であった。彼らは逆に主イエスから問いかけを受けたが、それに答えることはできなかった。主イエスは「それなら、わたしも言うまい」とお答えになった。

そして、主イエスの十字架を思わせる「ぶどう園と農夫」のたとえを話された。彼らは主イエスが自分たちに当てつけてこの譬えを話されたと気付いたので、主イエスを捕えようとしたが、群衆の騒ぎを恐れて立ち去った。

次の質問は「皇帝への税金」を納めることは、律法に適っているのかというものであった。植民地としてユダヤ人はローマ帝国へ納税の義務が課せられていた。主イエスはデナリオン硬貨の肖像を指し「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられた。

そして今日の「復活についての問答」である。聖書を熟読している学者たちの愚問に主イエスは「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」と制された。当時多くのユダヤ人は死後の生を信じ、希求するようになっていた。しかし、律法では特に明言されていなかった。

「天使のようになるのだ」と主イエスは答えられた。神の使者、神に仕える者となるのだと。死後の生は地上のものとは異なるのだと答えられた。

病気がちなHさんはお医者さんから「今の世は、次の世への予行演習です」と言われたから、失敗も苦でなくなったと言っていた。

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マルコによる福音書 12章28~34節 [新約聖書 マルコによる福音書]

<イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである」 (29節)>

「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出て、イエスが立派にお答えになったのを見て尋ねた。『あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか。』」と今日の箇所は始まる。

今まで質問していた人々が、主イエスの言葉尻を捉えたいという思いから質問したのに対して、彼は本当にその事が知りたかった。律法には覚えられないほどの規定があり、その中で本当に大切なものは何か、主イエスのお答えを彼自身心から望んだのであった。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい。(申命記6章)」シェマーと呼ばれるこの御言葉は十戒と共に命じられ。

そして「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩くときも、寝ている時も起きている時も、これを語り聞かせなさい」と続けられる。ユダヤ人の友人はこの御言葉を柱に掲げていたとS牧師が言われていた。

主イエスは第一の掟でシェマーを教えられ、第二の掟として「『隣人を自分のように愛しなさい』この二つに勝る掟はほかにない。」と答えられた。

第一の掟の中心は「それは、神が先ず罪ある私たちを愛して下さったということです。愛する価値のない者を愛して、御子をお与え下さったということです。ここに初めて真の愛が示されました。この愛を受け入れて初めて、私たちも心、精神、思い、力を尽くして主なる神を愛する者となれるのです。」と3月の家庭礼拝暦担当、聖園教会大倉薫牧師は説かれる。

仏教では「功徳を積む」という言葉を聞いたことがあるが、それとは全く反対の信仰である。何のとり得もなく、自分勝手な祈りばかり重ねる貧しい者であっても、父、御子、聖霊を信じる信仰、復活の主を信じる信仰に生きるかぎり、主は愛して下さる。

父母や親族が様々な理由で子供を愛せず虐待のニュースがつらい。児童相談所の人が「私たちが、このお母さんでは子供が可哀想と思っても、子どもはお母さんがほんとに好きなんです。お母さんの喜ぶことを一生懸命考えるんです。」と言われていた。

肉によるつながりは持続が難しい。時に誰でも利己的になる。暴力的な子どもに悩む親の悩みも聞く。けれども、父なる主は無条件で徹底的に愛し、御子の血をもって私たちが犯す罪の数々を赦して下さった。

その愛によって、幼子が母の喜ぶ姿を求めるように、既に我々も神の喜びを求め、力を、心を、魂を尽くして、神を愛し、隣人を愛する者とされているということを知る。

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マルコによる福音書 13章3~13節 [新約聖書 マルコによる福音書]

<イエスは話しはじめられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」 (29節)>

神殿を見上げて弟子の一人が「先生 御覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と言うと、主イエスは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われた。

紀元前950年頃ソロモンによって立てられた神殿は、バビロン王によって破壊され、その後、バビロンの捕囚から帰った人々の手で質素な神殿が再建された。そして、紀元前20年頃からヘロデ大王によって大規模な修理拡張工事が46年かけて行われた。周囲約1.6kに及ぶ巨大な石の土台の上に神殿は建てられていた。

主イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、最初に弟子になった4人が近づき、「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、その事がすべて実現する時には、どんな徴があるのですか。」と尋ねた。

オリーブ山は4k続く尾根で、パレスチナの中南部を南北に貫く大きな山脈の一部。エルサレム神殿から1k東に位置し、神殿より標高が約100~150m高いため、主イエスがこれから起こることを彼らに指し示すのに最適の場所であった。

「主イエスはご自身が十字架の死から復活して、復活の体をもって天に上げられた後に、偽キリストが大勢現れることを先ず注意されました。そして、この世界はどこかで必ずと言ってよいほど戦争があり、その噂に人々は不安に駆られると話されました。」と大倉牧師は説かれる。

主イエスが話された2000年後の今、現状は更に悪化。ネットによって世界の隅々の出来事が知らされ、戦争に加えて、天災、病気、経済悪化、それに対抗するのに右往左往する政治家たち、それを煽るマスコミ、我々は脅威にさらされ、何とか自分の周りだけでもそのとばっちりを受けないようにと画策する。

「慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。…これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分の事に気をつけていなさい。」と主イエスは彼らに語られ、彼らが「地方法院に引き渡され、打ちたたかれ、総督や王の前に立たされて証しをすることになる。」と告げられた。

ユダヤ人指導者たちが主イエスを敵視し言葉尻を捕まえようと必死になっているものの、どこにいても民衆は主イエスのそばを離れず、その御言葉の教えを喜んで受け入れていた。弟子たちにとって、主イエスの十字架の死と復活は考えられない事であり、自分たちが地方法院に連行されることも、神殿の崩壊同様信じられない事であった。

昨日借りた本からの抜粋「聖書とは何でしょう。それはメガネであり、それを通して初めて『純粋で明確な神の知識』を視認できるのであって、他のいかなる手段を介しても、それは不可能なのです。聖書は『真の神を私たちに明証してくれる』のです。なぜなら、神は聖書に於いてのみ『ご自身のいとも清らかな唇をお開きになるからである』」

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マルコによる福音書 13章14~23節 [新約聖書 マルコによる福音書]

<「だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事をもって言っておく。」 (23節)>

「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」と14節は書き出され、文中に「―読者は悟れー」と注意書きがはさまれている。この言葉は主イエスが発せられた言葉ではなく、著者マルコが挿入した言葉なのだろうか。

主イエスが神殿の崩壊を予言された40年後、マルコはエルサレム神殿がローマ軍によって包囲されやがて崩れ落ちて行くのを目撃する。彼は、目の前の現実を主イエスがかつて語られた御言葉によって理解しようとした。

彼が生きるパレスチナでは、地震や飢饉が続発し、ユダヤ戦争によってイスラエルの民は消滅の危機を迎えていた。ユダヤ教の中でのキリスト者、信徒たちは迫害や艱難の中、「世の終わり」が近づいていると思わざるを得なかった。

マルコは主イエスが「終末の徴は再臨の時だ」と言われたではないかと人々を励ました。終末を考えた時、人は投げやりになってしまう。けれども、「終末は喜ばしい時、迫害はいつまでも続かない。主が来られるその日まで、今は忍びなさい。」と励ました。

マルコによる福音書は4福音書の中で一番短く、最も古い。マルコ書は、①どのようにして主イエスは旧約聖書の預言を成就したのか。②どのような意味で主イエスは神の子であるのか。③なぜ主イエスは死んだのか。どのようにして再び来るのか。④どのようにして新しい民は生きるのか。の重要な質問に答えていると、解説書は記している。

主イエスは弟子たちに、憎むべき者が立つのを見たら「逃げなさい」と勧められる。ここで「えっ、戦うのではないか」と思ってしまう。旧約では「私が先に立っている。」と前進を促される箇所が多数あることと、矛盾しているので戸惑う。

「このことが起こったら物に執着しないで、身一つになってでも逃げなさいと言われました。パウロは更に『その時が来ると、不法のものが現れますが、主イエスはご自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます』と言います。」と大倉牧師は結ばれている。

「悪い奴が来たらすぐにでもやっつけて欲しい。今すぐに」と思ってしまうのがいけない。その時は神が決められることである。第一「悪い奴」が誰なのか、我々には簡単に分からない。彼らは、我々よりも数倍頭脳明晰で人間を騙す才に長けているからである。

D.K.マッキム著「魂の養いと思索のために」2.三位一体について抜粋「『三位一体』はキリスト教信仰の核心であり、それによって多くの神々を信じる他の諸宗教、あるいは、単独で孤立した神を唯一神と信じる他の諸宗教から区別されるのです。カルヴァンによれば『三位一体』の語彙は聖書にはないとしても、その教義は聖書の中で教えられ、指し示されている。」

「現代人のためのカルヴァン」と副題が付き、確かな希望と指針が与えられるということだ。

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マルコによる福音書 13章24~27節 [新約聖書 マルコによる福音書]

<「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」 (26節)>

「主イエスは、この世界の終わりの時、偽キリストが現れ、人々を惑わし、クリスチャンの信仰を試すことを話されました。そのような、苦難の後世の終わりが来ます。その、終わりとは神によって創造される新しい世界を来たらすための終わりであって、太陽、月、星といった天体も揺り動かすと語られました。」と、大倉牧師は書き出される。

「見よ、主の日が来る。残忍な怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ、そこから罪びとを断つために。天のもろもろの星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かさない。(イザヤ書13章)」

今日の祈祷会ではみんなで東北大震災、その後の人々の苦しみについて祈り合った。全く被害に遭っていないものの、震災の時、自分がどこに誰といて、その報せに何を感じ、一日をどう過ごしたのかを思い出すことが出来る。

何もかも滅茶苦茶になってしまった報道を見て「神がなさることならば、どうしてこんなことになるのか」と思った。命を無くされた方の事を思う時、主イエスがここで言われる「世の終わり」とはこういうことなのだろうかと戸惑う。自分にはまだわからない。

けれどももう一方で、この大きな災害を神が御存じであるならば必ず、残された者に、立ち直る力と、癒しの道は与えられるはずだと希望を持つことが出来た。「いかに大きな苦難であろうともそのことはサタンの勝利のゆえではなく、神の御支配のもとにあるということがわかります。」と大倉牧師も説かれている。

恐ろしい天災であった。けれども、月も太陽も星も狂うことなくあの日もいつもと同じように動いていた。

主イエスは弟子たちに「天体は揺り動かされる」と告げられる。今日は晴れていれば、部分日食が見られる日で天体ショーを楽しみにしていたが、2000年前、突然やって来る真昼の闇を人々はどれほど恐れたことだろうかと想像する。このような時に、偽預言者や占星術師が横行し、人々に不思議な業を行い扇動したのだろう。

「その時、人の子が来る」と宣言される。現在も、愚かな者を扇動するサタンは後を絶たない、「人の子」を見分ける目と耳、魂を与えて下さいますようにと祈り続けなければならない。

③神の舞台としての被造物について「私たちはそのすべてが、神の創造になることを知っています。なぜなら『地とそこに満ちるもの、世界とそこに住む者は、主のもの』だからです。それゆえに、自然というこの素晴らしい劇場を褒め称え、感謝を深めることは、いつでもキリスト者にとって生まれつきの衝動のようなものとなるはずです。」

天気予報が「寒い」と告げても、確かに春が生まれている。この嬉しさを、子も孫も、その子も、もっとずうっと子々孫々、味わう権利を奪ってはならない。

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