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フィリピの信徒への手紙 1章1~6節 [新約聖書 フィリピの信徒への手紙]

<あなたがた一同のために祈るたびに、いつも喜びを持って祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音に与っているからです。(4.5節)>

「フィリピの信徒への手紙は『喜びの手紙』とも呼ばれる短い文章からなる手紙です。」と二月の家庭礼拝暦担当、大宮伝道所村松恵美牧師は書き出される。

フィリピは、第2次旅行でパウロが小アジア(現在のトルコ)から初めてヨーロッパの南東(同ギリシャ)に渡り、最初に訪問した町であった。フィリピはマケドニア州の重要な町で、その州を横切るイグナティア街道の東端に位置していた。街道はローマに続き、商売人やローマの軍隊が商品や生活必需品を運ぶ重要な道であった。

使徒言行録16章には、ネアポリスの港から最初にフィリピに入ったことが記され、数日間滞在し、安息日に町の門を出て祈りの場である川の畔に集まっていた婦人たちと話したことが記される。

この手紙はパウロの獄中書簡(エフェソの信徒への手紙・コロサイの信徒への手紙・フィレモンへの手紙)の一つと見なされる。正確にパウロがどこで、何度、獄中にいたのかは知られていないが、エフェソとカイサリアで獄中におり、ローマで自宅監禁されたと使徒言行録は語っている。

パウロは手紙の最初に、フィリピの信徒が贈り物や祈りで絶えず助けていることに感謝を述べて、ローマ人によって捕えられて以来、彼に起こっていることを知らせ、フィリピの信徒に助言と励ましを与え、彼らのために喜びを持って祈っていることを伝える。

彼が苦しんでいるように、フィリピの信徒も苦難に直面しなければならないが、苦難を恐れるべきではないと励ます。それは、最初の日から今日に至るまで福音の中に置かれ、善を始められた方が、その業を成し遂げて下さると、私は確信しているからだとつづる。

「パウロは、フィリピの教会の人々が共に福音に与っていることを感謝すると言います。この『与っている』というのは『コイノニア、交わり』ということです。福音を共にし、これを分かち合う、この時に交わりが生まれます。」と村松牧師は説かれる。

「投獄、迫害」と聞いただけで怖気づき、関わりを恐れてしまう。そのように目の前のことしか見えない者にもパウロは「知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことが見分けられますように。」と今も祈ってくれている。

「神の御言葉を聴き、信仰のつながりを持つという、この縦と横の関係の中に入れられていることが、福音に与っているということなのです。」と村松牧師は結ばれる。

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フィリピの信徒への手紙 1章7~8節 [新約聖書 フィリピの信徒への手紙]

<わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことを事をどれほど思っているかは、神が証してくださいます。(8節)>

この手紙は獄中からパウロがフィリピの信徒たちに送った3通の手紙をまとめたものであると考えられている。我々は聖書を信仰の規範、正典として読んでいるけれども、新約聖書は、キリスト教の教義が体系的に記されているものではなく、多くの文書は手紙として地上に立てられた具体的な教会に愛を込めて送りとどけられたものである。

神学に精通した人が難しい本と格闘しながらまとめあげた教理の体系というのではなく、使徒として伝道に励んだ伝道者が、福音を伝えたがために投獄されるという伝道活動の真っただ中で、教会に宛てて書かれた手紙だということを忘れてはなりません。とS牧師は最初に説かれる。

「感謝」「祈り」「喜び」という言葉が続く。S牧師は、「パウロ自身も単純にこれらのことを自らの努力によってのみ書き記しているわけではありません。そのような努力や心がけはしていたにせよ、根本的に自然とわき出てくる感謝を表現しています。感謝、祈り、喜びは、それは『共に福音に与っている』という根拠があるからです」と説かれる。

人間的な親しさを越えてパウロと教会の人々は「共に福音に与っている」という関係があった。「福音」というのは喜びの知らせという意味であり、十字架で死に復活された主イエスによって人間の罪が贖われ、罪と死の力から解放されたのだという喜びの知らせ。

その事に「与る」の原語を訳すと「交わり」ともなる。「交わり」は教会ではよく「主にある交わり」と言ってよく使うが、社会では馴染みがないので「親しい交わり。親交を深め教会に集まった者同士が仲良くなることだろう」と思われがちだが、それとは少し違う。

「福音とは、聞くだけではなく、与るものであり、それによって交わりが生まれてくるものです。教会での交わり『福音に共に与る交わり』は、信仰者同士の人間的関係の表現ではなく、『神の恵みに与る』ことであり、神への『奉仕』と関連付けられています。つまり、教会における交わりとは、福音に捕らえられた者たちの神に対する奉仕によって結ばれているのです」とS牧師は説かれる。

パウロは福音を伝えたがために獄中に入れられ、全くの自由がなくなった。けれども、そのような苦難の中で、教会の交わりに連なる人々、福音に共に与る人々を思い起こすことが出来る。彼らはパウロと共に、主の恵みを受け、一緒に証しする働き人として用いられ、自らを主に捧げる群れであった。パウロはそのことに喜び感謝し祈らずにはおれなかった。

全然次元が違うかもしれないが、メダルがかかった試合に「皆さんの応援が…」とコメントする選手がいる。余計プレッシャーがかかるだろうにと、ついつい思ってしまうが、取りこし苦労だったのかもしれない。

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フィリピの信徒への手紙 1章9~11節 [新約聖書 フィリピの信徒への手紙]

<わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。 (9.10節)>

知る力と見抜く力を身に付けて何が本当に重要なことであるのかを判断できるようにパウロはフィリピの信徒たちのために祈る。「これは、私たちにとっても大切なことです。多くの物で溢れている今の時代、何が重要なものであるかを判断するために深い知識を身に付けることが必要です。」と村松牧師は書き出される。

それらを身に着け「愛」が豊かになり、本当に重要なことを見分けられるようになり、清い者、咎められることのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実を溢れるほどに受けて、神の栄光と誉とをたたえることが出来るように祈っているとパウロは書き綴る。

パウロは、神から与えられる知識を持ったとき、そして、判断する力、見分ける力を与えられた時に、愛が豊かになり、本当に重要なことが何であるのかを知ることが出来るのだと説いた。

パウロの手紙は礼拝において読まれた。礼拝出席者は、それを目で受け止めたのではなく、耳を通して受け取った。ただの1通しかない手紙は大きく声を上げて読まれていた。パウロは自分の手紙がそういう風に用いられることを前提に、手紙の内容を耳から聞いて理解し記憶できるような形に仕上げていたと思われる。

バングラディシュの教会を訪問した時、壁一面に聖書の物語の絵が貼られていた。みんなに聖書が手渡せないし、多民族多言語で仮に渡しても文字が読めない人がいるのでこのようにしていますということだった。西洋の教会のステンドグラスや絵画もそういうことが発端だったのだろう。

私たちの教会はみんな自分の聖書と讃美歌を持つ。そのせいか説教する牧師の顔を見ないで、俯いて聞いている人ばかりだ。説教がみんなの頭の上を通り過ぎていくように思ってしまうと以前牧師が言われたことを思い出す。

「キリストの日」という言葉が2章、3章にも登場する。パウロはイエス・キリストが再び来る。特にそれはすぐに起こることをパウロは信じていた。旧約聖書の「主の日」は神が裁きを行われる日。新約聖書では、世の終わりにキリストが再臨される時を意味する。また主イエスの復活した日という意味で日曜日を指す場合もある。

主の再臨がどのような形で実現するのか、いやもう既に実現しているのか、自分には分からない。けれども、思いがけないところで自分の信仰が試された時、目の前の人が主イエスなのではないかと思う時がある。

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フィリピの信徒への手紙 1章12~14節 [新約聖書 フィリピの信徒への手紙]

<兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。(12節)>

フィリピの信徒たちにとって必要なものは、もちろんパウロの近況を知り、安心し、慰められ、救いを受けたいということであった。しかしそれ以上に彼らが知りたいのは、キリスト教の伝道者、説教者たちが逮捕監禁され、ローマ帝国の手に彼らの運命が委ねられてしまっていること、なぜそうなったのかという説明を求めていた。

主イエスの十字架の死に関して、主イエスが神の子であるならば、神が主イエスを救ったであろうにと、いう考えがあったように、今回のパウロの監禁も、パウロが真実神に属する者であるならば、このような苦しい屈辱的な敗北を蒙ることはないであろうという考えを持つ者もいた。

昨日は節分で、巻寿司を頬張ったり、豆まきをしている姿がニュースで流された。嫌なことである鬼を追い出し、幸福をもたらす健康や財産の福を我が家に招くというものだ。我々の国の多くの人が、神がそういうものを持って来てくれるのだと信じているらしい。

フィリピの教会に於いても、教会が本当に神のものであるかを疑い始めた信徒もいた。福音を説いた者が逮捕されるというのであれば、自分の身は一体どうなるのか、パウロの運命は早晩自分の運命でもある。キリスト教徒であることは、そもそも何の役に立つのかと。

「苦しみ、不正、さらに死でさえ。それに意味を見いだすことが出来るならば、それに対する理由と目的が提示されるならば、人はこれを耐え忍ぶことが出来る。しかるに、説明のない苦しみほど大きな苦しみをもたらすものはなく、意味を見いだすことの出来ない悲劇ほど重い悲劇はない。」と解説書は説いている。

パウロは彼らに自分の監禁について説明をしなければならなかった。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」と喜びに満ちた調子で書き送った。

牢獄でパウロを監視するローマ兵たちが、パウロが不法を働いたためにではなく、イエス・キリストの福音のために監禁されていることを理解したとパウロは伝えた。それは、交替でパウロを見張る彼らにパウロは、イエス・キリストについて語ったからだと思われる。

また、パウロの同労者たちが、パウロの「捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった。(14節)」

牢獄のパウロの言葉にローマ兵が耳を傾けたのも不思議だし、パウロの姿にますます力を得て、恐れることなく御言葉を語る者が増えていくというのも不思議なことだ。

聖霊の注ぎによってのみ教会は進む。常に主がおられると信じる態度への奇跡的な転換を、パウロもフィリピの信徒たちも、それを後世に読む我々も経験する。

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フィリピの信徒への手紙 1章15~19節 [新約聖書 フィリピの信徒への手紙]

<口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。 (18節)>

獄中のパウロは、自分の益のためではなく、主の御旨を感謝し、教会の前進を祈り、隣人のために祈り、時には彼を監視するローマ兵のためにも祈った。その姿に主を知らなかった人々も心動かされ、パウロが感謝する「主」とは誰なのかと仰ぎ見ずにはおれなかった。

パウロ投獄を機に、兄弟たちはますます勇敢に御言葉を語った。パウロはそれについて「キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者いる」と言った。パウロが投獄されたのをチャンスだとみてパウロを出し抜こうとその活動を盛んにする者もあらわれた。もちろん多くのまじめな宣教者もいた。

妬み、敵意、党派心が動機になって説教する。「それはパウロの時代だけの事ではなく、今の私たちにも起こりうることです。勝者であるか敗者であるかという尺度でものを考える文化にあっては、全員が勝者となることを望まれる神でさえ、天国は地獄があるからなお一層素敵なのだと考える人たちによって利用されている。」と解説書は説いている。

パウロは不純な動機であっても、「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」全く意に介さないといった。

ガラテヤの信徒に宛てた手紙には「他の福音と言っても、もう一つの福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」とユダヤ主義者たちを厳しく糾弾しているのと対照的である。彼らは別の全く違うものを福音として人々に教えていたことにパウロは我慢ならなかった。

それと同じで「聖書を読みましょう」と戸別訪問している団体もあるが、S牧師は、あれはキリスト教でも、宗教でもないと言って切り捨てられた。

「パウロは、福音の力はこれを宣教する人間の動機とか感情に左右されるものではない。宣教師に持って生まれた才能があろうがなかろうが、福音には固有の命と力が備わっていることを十分に信じていたのです。」と解説書は説いている。

牧師だけが福音を語るのではなく、クリスチャン一人一人が日常の中から福音を宣べ伝える。それが要領を得ない語りであっても、不思議と人の心を動かすときがある。それが福音の力というのだろう。

先日天に召されたTさんは、目も耳も不自由になられたが、絶えず祈られていた。祈りの言葉を誰も理解できなかったが、その姿が施設で働く人々の心を明るくしたと葬儀で語られた。

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