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列王記下 2章1~7節 [旧約聖書 列王記下]

<「主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません。」(2.4.6節)>

列王記はその書名が示すように、ダビデの後継者ソロモンから南ユダ王国と北イスラエル王国における歴代の王の治世を記録している。それらは400年の期間に及んでおり、イスラエル王国の衰退の物語である。南ユダには20人、北イスラエルには19人の王が登場する。

ソロモンの治世に王国はその絶頂に達する。王国は父ダビデから引き継いだものの10倍に膨らんだ。しかし、ソロモンの死と共に王制はすでに神がそれを通してご自身の「聖」を表す媒体ではなくなっていた。この時から、エリヤをはじめとする預言者の時代が始まった。

イスラエル王制の理念、つまり「神こそ真の王であり、人間の王はあくまで神の代理者に過ぎない」とする理念が崩壊しつつあった時、それに対して断固「否」と叫んだのが預言者たちであった。彼らは命をかけてイスラエルの王制の理念を語り、王による国の私物化は亡国を招くことを警告した。その預言者たちの歴史観を骨格として記されたのが「列王記上下」である。

それぞれの時代を治めた王たちと深く関わりを持った彼らの霊性を通して、現代に生きる我々へのメッセージは何かを考えつつ読んでいくことを、解説書は説明し勧めている。

列王記下は、イスラエルの王アハズヤ(治世、紀元前853~852年)の死に始まる。屋上の欄干から落ちて病気になったアハズヤは部下に「バアル・ゼブブの所に行き、この病気が治るかどうか尋ねよ」と命じた。エリヤは王の使者に「イスラエルには神がいないとでもいうのか」と言って、「王アハズヤは上った寝台からおりることはない」と王の死を告げた。

そして2章は「主がエリヤを天に上げられた時の事である」と書き出される。預言者エリヤはこの地上での働きは完了しようとしていた。これからの事は弟子のエリシャが後を継ぐ時代がすぐそこに来ていた。地上での彼らの働きは、戦場のようであり、彼らは終始バアル礼拝と戦っていなければならなかった。

エリヤはエリシャに、「主が遣わされたのでベテルに向かうが、あなたはここに止まるように」と命じた。しかしエリシャは「主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません。」と言ってエリヤに従った。次にエリコ、ヨルダンに向かう時も同じ問答が繰り返され、エリシャはエリヤに従った。

「エリヤの後を継ぐエリシャの、エリヤと共に在ろうとする強い思いがここに表されております。」と4月の家庭礼拝暦担当、宝塚売布教会鎌田雅丈牧師が説かれる。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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列王記下 3章15~20節 [旧約聖書 列王記下]

<「風もなく、雨もないのに、この涸れ谷に水が溢れ、あなたたちは家畜や荷役の動物と共にそれを飲む。」(17節)>

「エリヤは嵐の中を天に上って行きました。彼の生涯は、バアル礼拝と戦う霊的なものでした。それはこの地上において真の礼拝を守ろうとするものでありました。その後をエリシャが受け継ぐことになります。」と鎌田牧師は説かれる。

アハブの子ヨラムがイスラエルの王位に着いて12年。モアブの王メシャはアハブが死ぬとイスラエルの王に反旗を翻した。メシャはそれまで10万匹の小羊と雄羊10万匹分の羊毛を、貢物として治めていたが、アハブの死後取りやめていた。

「主はわたしに言われた。『モアブを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。わたしはその土地を領地としてあなたに与えない』(申命記2章9節)」と語られ、もともとモアブはイスラエルの地ではなかった。モアブの王メシャはその統治の末期近くに、イスラエルからの解放のための闘争に挑んだ。

イスラエルの王ヨラムはそれをいつまでも看過することはできなかった。彼は自国の兵を動員し、また使者をユダの王ヨシャファトに遣わし、さらにエドムの王に呼びかけ連合軍を編成しエドムの荒れ野の道をモアブに向かった。

しかし、行程は予想以上に日を費やし、部隊と連れて来た家畜のための水が底をついた。イスラエルの王ヨラムは「ああ、主はこの三人の王をモアブの手に渡すために呼び集められたか」と嘆いた。ユダの王ヨシャファトは「ここには我々が主の御旨を尋ねることの出来る預言者はいないのか」とイスラエルの王に尋ねた。

二人の王の違いが二人の言葉に表れる。ヨラムは、たしかにこの戦いに主が加わって下さっていることは信じる事が出来るが、パニックに陥り、主の守りを疑った。それに対してヨシャファトは、主が何をされようとするのか見極め、そして導きを求めようという冷静なものであった。尋ね求めないで神が何をされようとするのか、人間の側で決めない事だと。

彼らはエリシャのもとに行き、彼の託宣を受けた。彼は堀を造ることを命じると、「風もなく、雨もないのに、この涸れ谷に水が溢れ、あなたたちは家畜や荷役の動物と共にそれを飲む。」と言った。水はエドムの方からモアブに流れ込み、その地は水でいっぱいになった。

イスラエルは壮絶な全面戦争を展開し、彼らは略奪のために邁進し、殺戮が始まった。モアブの王メシャは彼の長男を連れて来て、城壁の上で焼きつくすいけにえとして彼らの神ケモシュにささげた。イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルは引き上げざるをえなかった。

メシャの献げ物を彼らの神ケモシュが受け入れ、彼らの神ケモシュは、イスラエルを怒りで蹴散らし、自らの国に再びモアブの民と住むものとなった。

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列王記下 4章1~7節 [旧約聖書 列王記下]

<「その油を売りに行き、負債を払いなさい。」(17節)>

預言者の仲間の妻の1人がエリシャに「あなたの僕であるわたしの夫が死んでしまいました。ご存じのようにあなたの僕は主を畏れ敬う人でした。ところが債権者が来てわたしの子ども2人を連れ去り、奴隷にしようとしています。」と助けを求めて叫んだ。

エリシャは「何をしてあげられるだろうか」と思案し、彼女の家に壺が一つしかない事を知ると、近所の人々からも空の器を借りてきて集めるようにと言った。そして家に帰ったら戸を閉めて子どもたちと閉じこもり、その器のすべてに油を注ぐようにと命じた。

彼女は命じられたとおり子どもたちに空の器を集めさせ、それに油を注いだ。いよいよ器がなくなった時、油も止まった。彼女がエリシャにその事を知らせると、彼は言った。「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子どもたちはその残りで生活していくことが出来る」と。

友人の父上はクリスチャンではないけれど、村長として長く町に仕えられ、その期間、村で生活保護を受ける人はいなかった。生活困窮者が出ると村長はその家に出かけ、どのような状態かを見極めると、その家に合う仕事を捜し、働くことを勧めた。働きによって何がしかの報酬を得、それによって家庭を保つように方向づけた。

幼い子どもを遺して夫が死んだ妻にS牧師は「あなたがどんなに裕福であろうとも、必ず仕事をするように。父が子にしてあげることは、キャッチボールもいいかもしれないが、仕事をして報酬を得、子供たちを育てることだった。あなたは今日からその役目もしなければならないのだ。」と引きこもりそうになる夫人を励まされた。

大震災時の援助も、難民もたしかに最初はお金によって解決することが多いと思うが、それは各人の前進にはならないのだと思わせられる。債権者が子どもたちを奴隷にと言った時、彼女は無力を嘆き、エリシャにすがり、幾ばくかの用立てを望もうと思った。

しかし、彼女の思いに反しエリシャからは全く別のことを命じられた。言われるまま、空の容器を集めるために働き、油で満たすために動く、いや、その前に、壺ひとつしかない自分の家にどうしてふんだんに油があるのかと思いつつ、彼女はその行為を一つ一つ行ううち自分の中に希望と自信が満ちて来ることを実感した。

「私たちは誰もが神との関係において負債を負うものです。この負債を何とかしなければと思いながらどうにもできない現実を生きています。この女性の姿は私たちの姿です。エリシャの言葉はある意味で贖いを指示しています。」と大倉牧師は説かれている。

年金をたっぷりもらっていても、老後の心配ばかりしている人は大勢いる。このことと関係しているようにも思う。

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列王記下 4章13~37節 [旧約聖書 列王記下]

<「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている。」(16節)>

シュネムに来たエリシャを一人の裕福な婦人が食事に招いた。以来彼はそこを通るたび立ち寄って食事をするようになった。婦人は夫に願い、「神の人がおいでの時はそこに入っていただけます」と、エリシャのために階上に部屋を作り、家具を置いた。

エリシャはそれを喜び、「あなたのために何をしてあげればよいのだろうか」と従者を通じて尋ねた。「わたしは同族のものに囲まれ何不足なく暮らしています。」と彼女は答えた。その返答に戸惑うエリシャに従者が、彼女には子どもがなく夫も年を取っていると告げた。

エリシャは部屋の入り口に来た彼女に「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」と告げた。彼女は「いいえ、わたしの主人、神の人よ、はしためを欺かないでください」と答えたが、やがて身ごもり、エリシャが告げたとおり翌年の同じ頃、男の子を産んだ。

「『何不足ない』という女性にエリシャは『男の子を生む』というのです。その彼の言葉は『何不足ない』という言葉を否定するものであるように思われます。そして彼女は『いいえ、はしためを欺かないでください』と預言者の言葉を人間の常識を持って否定します。互いに理解しあいながらも、大切な所で否定し合うのであります。」と大倉牧師は説かれる。

男の子は大きくなったが、ある日刈り入れをする父のもとにいた時、急変し母の膝の上で死んでしまった。彼女は息子を神の人の寝台で横たえ、戸を閉めて出てくると、夫が止めるのも聞かず、すぐにカルメラ山にいる神の人の所に向かった。

彼女はエリシャの足にすがりつき「わたしがあなたに子供を求めたことがありましょうか。わたしを欺かないでくださいと申し上げたではありませんか。」と言った。全てを知ったエリシャは従者に、先に行って、エリシャの杖を子供の顔の上におくようにと命じた。

しかし従者の力では、子供が目を覚ますことはなかった。エリシャは子供が寝かされた部屋に入ると戸を閉じ、主に祈った。そして、寝台に上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を目に、手を手に重ねてかがみこむと子供の体は暖かくなった。

「再び寝台に上がって子供の上にかがみ込むと、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。」

「女性はエリシャに不満を述べます。しかし、彼女は彼から離れようとはしませんでした。この人ではだめだから、他の人の所に行ってしまおうと言うのではないのであります。深いところで信頼しているのであります。」と大倉牧師は説かれる。

「何不自由はない」という女性に預言者は子供を与えたが、それって正しいのだろうか。それはおかしいと思う。それは大金持ちが貧乏な人に気の毒な人たちだと憐れむようなものだ。子供がいなくとも、お金がなくとも十分潤っている人々が大勢いる。

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列王記下 4章38~44節 [旧約聖書 列王記下]

<「人々に与えて食べさせなさい。」(42節)>

エリシャはキルガルに帰った。その地は飢饉に見舞われていた。預言者の仲間たちが彼の前に座っていた時の事、彼は従者に「大きな鍋を火にかけ、預言者たちのために煮物を作りなさい。」と命じた。従者は野生の瓜をいっぱい集め、それを刻んで鍋に入れた。

ところが、その煮物を口にしたとき、死の毒が入っていると人々が叫んだ。一体どうして分かったのだろうか、よほど苦く誰もが吐き出したのだろうか。死者が出た様子はないが、とにかく食べることはできなかった。しかし、エリシャが鍋に麦粉を投げ入れると、鍋には有毒なものがなくなり、人々は喜んで食べることが出来た。

また、1人の男が初物のパン20個と新しい穀物を袋に入れてエリシャのもとに持って来た。エリシャが人々にと命じたが、召使は100人の人々に分配するにはあまりにも少ないと思った。しかし、エリシャは「主は言われる『彼らは食べきれずに残す』」といった。召使がそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

「4章のこれら奇跡的な4つの物語は、死から命への救済、絶望から希望へという共通したテーマを持つ。それぞれの場合に、ひとり子の死、飢饉と投獄、食物の欠乏などにより命の危機にさらされる。その一つ一つでエリシャがその絶望に立ち向かい、それを神の言葉によって克服する。」と解説者は説く。

そして「もし兄弟姉妹が着る物もなくその日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。(ヤコブ書2章)」を説く。

私たちの教会では、今年ディアコニアについて考えている。窮状に心痛め、自分に出来ることは何だろうかと考えるが、それが相手にとって迷惑、偽善的な行為である場合があった。信仰がなければ、本当に必要なものを差し出すことは出来ないということだろうか。

「私たちはここに、神様からの宣教命令を聞く思いがします。」と鎌田牧師は書き出される。「パンという命の恵みに与るのであります。しかしまたそれは少なく、百人で分けるにはとても…と思い、ここにはそれほどのものはないと思いました。それは、神様からの恵みに与る私たちの現実そのものであります。それは無理だと。」

解説書は分け与える側に立って説かれ、鎌田牧師はパンを頂く側にも立って説かれている。次々と主イエスの奇跡物語を聞かされても、こんな話は誰にもわかってもらえないと、自分の中に閉じ込めてしまいがちだが、けれども、このパンは他者と分け合うものらしい。

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