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ヨハネによる福音書 17章1~5節 [新約聖書 ヨハネによる福音書]

<「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」 (3節)>

「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えて下さい。…」と主イエスは天を仰いで祈られた。十字架につけられる時と、死から蘇る時、その両方の出来事において、全き栄光を受けられる主イエスの時が来たのである。

歴史的に見れば、主イエスはユダヤ人指導者やローマ帝国総督によって十字架にかけられて殺された。しかし、信仰の目で見れば、主イエスはご自分の命を「人類の罪のための償い」として十字架にささげられた。

殺されるのではなく、命を捧げてゆくのだという積極的な意思がこの祈りを通してもある。だからその死は「栄光」なのである。ここに表明されているのは、主イエスの言葉というよりも、ヨハネの信仰告白の言葉とみるべきであると、I牧師は説かれる。

「父なるあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることができました」と主イエスは祈りを続けられる。

かつて主イエスはファリサイ派の人々に「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証するものだ」と言われた。人々は聖書に、永遠の命を獲得するために人間に何ができるかばかりを求めようになってしまっていたからである。

この個所で主イエスが「人々に与えることができた」と断定される「永遠の命」とは、「唯一の神と主イエスを知ることである。」と言われる。「神を知る」とは、自分が神でないことを認めること、主イエスが求められたのは、父の栄光を現すことである。

「父よ、今御前で私に栄光を与えて下さい。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」と祈りは続けられる。主イエスは3年間、言葉をもって教えられ、最後の時は十字架を通して教えられた。十字架は主イエスの身をもって話された言葉である。

「弟子たちは、懸命に主の言葉を聞き、御業を見続けました。そして唯一の神が遣わされたキリストを知り、信じて生きることに導かれている自分の姿を知ったのです。そして、聖書を利用するのではなく、聖書に聞き従ってキリストを証しする者へと整えられたのです。従う者を祝福し主は祈りを捧げて下さいます。」と1月の家庭礼拝歴担当、札幌発寒教会八田牧人牧師が結ばれる。

今年のお正月は暖かく過ごすことができた。気候は平安だけれども、政情不安に、災害への恐怖、原発は再稼働が画策され、辺野古には基地が造られようとしている。前途が明るいとは言い難く、宣教も前には進まない。

八方塞がりだが、私たちの武器は神の言葉、教会では「神様がなんとかして下さるに違いない」を合言葉として祈り合っている。今年もご愛読いただきますように。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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ヨハネによる福音書 17章6~13節 [新約聖書 ヨハネによる福音書]

<「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるようになるためです。」 (13節)>

主イエスの祈りが続く。「世から選びだし、わたしに与えて下さった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えて下さいました。彼らはみ言葉を守りました。わたしに与えて下さったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。(6.7節)」

父なる神が御子イエスに与えられた人々とは、福音を信じ、信仰に目覚め、主イエスに従う人々である。「もしかしたら、私もそのつながりにぶら下がっているんですか?」と思わず聞き返したくなる言葉である。S牧師は「そうです。あなたも私も」と微笑まれた。

なぜ、人々は主イエスの言葉を、旧約聖書によって語られている、彼らの父祖イスラエルの民をエジプトから導き出して下さった神の言葉として信じることができたのか。さらには、異教の神々を崇めていた人々が唯一の神の言葉であると信じることができたのか。

「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出てきたことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。(8節)」主イエスが人々に伝え、人々がそれを信じたのは、主イエスご自分の言葉ではなく、神から託された真理の言葉だからである。

自分自身振り返って、主イエスの語られる言葉、主イエスの起こされる数々の御業。これらを「信じなければ…」と、様々な裏付けをとっていた時期もあったが、今はそういう気負いはない。神の独り子がこの世に降られたことを無条件に信じている。ご利益信仰しか知らなかった者が、どうして今に至ったのかは、聖霊によってだとしか思えない。

主イエスは「彼らのためにお願いします。」と、人々のためにとりなしの祈りをされる。「わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしは身許に参ります。父なる神よ、わたしに与えて下さった御名によって彼らを守って下さい。わたしたちのように彼らも一つとなるためです。」

「栄光を受けました。わたしはもはや世にはいません」と主イエスは告げられる。主イエスの側で共に祈っていた弟子たちはそのことを理解することができただろうか。

ユダヤ人にとって十字架刑は神から見捨てられた、汚れた者の末路であった。ギリシャ人にとっても、それは世の失敗者、敗残者の辿る道であった。誰もが「救い主」だとは信じることができない状況が待っているのに主イエスは「わたしの喜びが、彼らのうちに満ちあふれますように。」と祈られる。

「主が神の身許に行かれることによって贖罪が完成され、主が言われた通りに神ご自身のご計画が完成された絶大な喜びは満ち溢れ、決して消えなくなるのです。」と八田牧師は結ばれる。

やがて、主イエスは衣服をはぎ取られ、唾をかけられ、嘲笑を浴びて十字架に架かられる。

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ヨハネによる福音書 17章6~13節 [新約聖書 ヨハネによる福音書]

<「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」 (19節)>

「主イエスは、弟子たちとの食事の際に彼らの足を洗われた後、共に食事をなさる中で裏切りを予告されました。また、彼らの神のご計画について教えられると同時に祈ってもおられます。主が弟子たちのために、私たちのためにも祈って下さるのです。」と八田牧師は書き出される。

「わたしは彼らにみ言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守って下さることです。(14.15節)」と祈って下さる。

神は人を造られたが、それを人々は罪の世にしてしまった。だから、そのような罪の世に生きる者は、世に属する者になる。けれども、主イエスは神に属されているので、その主イエスに従う者たちは罪の世に属する者ではない。ということになる。

主イエスは「彼らを聖なる者として下さい」と執り成しの祈りを捧げられる。そして「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。・・・彼らのために自分自身をささげます。彼らも真理によってささげられた者となるためです。」と続けられる。

ほとんど慣習のように形だけの礼拝を守っている者は、自分が「献げ物」になってしまうのだということに改めて気づく。去年のクリスマス礼拝は25日だったので、いつになく大勢の方々と礼拝を守ることが赦され、嬉しかった。

ミッションスクール卒の友人は、同窓会気分で5人の同級生を誘って来てくれた。讃美歌やオルガンが良かった、久しぶりの説教はやはり心に沁みるなどと感謝された。けれども、礼拝は家の宗教が違うし、多忙で「無理、無理」と、手をひらひらさせながら笑顔で断られた。

「み言葉を宣べる私たちも世から憎まれるのです。主イエスが世に属されていないように私たちも世に属していないのです。だから、福音を伝道しても受け入れる人が少ないであろうことは覚悟しなければならないのです。それにも関わらず、私たちは宣べ伝えるのです。なぜならば、この言葉にこそ、真理が、命があるからです。」とI牧師は説教された。

「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにもお願いします。」と主イエスの祈りは、すべての人のための祈りとなって行く。

主イエスの弟子たちは福音により選ばれた人々であるが、福音は弟子たちの救いを超える広がりを持つ。最終の願いは地上のすべての神の民が救われ、信仰により一つとなることである。戦火は消えることなく、憎しみと争いは後を絶たない。すべてを克服するには福音を通しての愛しかない。

人は父なる神のもと愛をもって一つになることができる。その時、神の栄光が地上にあらわされる。

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ヨハネによる福音書 18章15~18節 [新約聖書 ヨハネによる福音書]

<僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ぺトロも彼らと一緒に立って、火に当たっていた。(18節)>

祈り終えられると、主イエスは彼らを連れてギドロンの谷の向こう(ゲッセマネの園)に向かわれた。その場所は主イエスが祈るためにしばしば来られる場所であることを、ユダは知っていた。

ユダが良く知る場所を選ばれたことから「主イエスは逮捕されたのではなく、逮捕させたのだ。」と説く者もいる。なぜなら、それが父の御心であることを知っておられたからだと。

ユダの手引きによって、一隊の兵士と、祭司長たちの遣わした下役たちが、たいまつやともし火や武器を手にしてやってきた。「誰を探しているのか」と主イエスが彼らに問われると「ナザレのイエスだ」と言った。主イエスは何の防御もなく立ち「わたしである(直訳わたしはある)」と答えられた。彼らは驚きのあまり後ずさりして、その場に倒れた。

主イエスは再び「誰を探しているのか」と尋ねられ「それはわたしである」と答えられると、「わたしを探しているなら、この人々を去らせなさい」と弟子たちを去らせることを命じられた。それは「あなたが与えて下さった人を、わたしは一人も失いませんでした」のみ言葉が実現するためであった。

しかし、ぺトロはいたたまれず、剣を抜き、大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。しかし、無抵抗で逮捕されるお気持ちだった主イエスはぺトロに「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯を飲むべきではないか」と戒められた。

この個所はもちろん4福音書すべてに記されるが、マルコ書とマタイ書は「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と彼らの背信を描くが、ヨハネ書は彼らが逃げたことを批判せず、むしろ、イエスが逃げるように言われたことを強調している。

この個所について「歴史は弟子たちが逃げることを通して、教会が形成していったことを伝えている。」とY牧師は語られる。そして少し話が飛ぶが「徳川時代のキリシタン迫害が残酷を極めた一因は、信徒に逃げよと教えなかったことだ」と説かれる。

「教職者は殉教の死を遂げても、信徒には逃れる道を与えるべきであった。信徒には踏み絵を迫られたら、どんどん踏んで生きながらえ、心の中で信仰を持ち続け、信仰の火を絶やすなと教えるべきだったのです。」と続けられる。

逮捕された主イエスは縛られたまま、大祭司の舅の所に連行された。彼は、ローマ帝国との軍事的衝突を避けるため「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」と言っていた。

「しかし、この言葉こそ、主イエスの十字架が散らされた神の民を再び集めるための神の計画であったことを示しているのです。公に語られた言葉は取り消すことができません。その真実の意味が明らかにされてゆくのです」と八田牧師は結ばれている。

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ヨハネによる福音書 18章19~24節 [新約聖書 ヨハネによる福音書]

<イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」(23節)>

ぺトロともう一人の弟子は、捕らえられた主イエスの後を追って大祭司の屋敷にやってきた。大祭司の知り合いだったもう一人の弟子は、自分だけでなく門番の女に話し、ぺトロを中に入れた。女はぺトロに言った「あなたは、あの人の弟子の一人ではありませんか」ぺトロは「違う」と言うと、僕や下役たちと一緒に炭火にあたって体を暖めた。

ぺトロとユダ、二人の弟子が主イエスを裏切ってしまう。ユダは迫害者に主イエスを売り渡し、ぺトロは迫害者の前で師弟関係を否定した。ユダには悪意があり、ぺトロにはないものの、人間の弱さが浮き彫りになった。焚火にあたるぺトロに、大祭司の手下の耳を斬り落としたぺトロが見られない。体は暖まっても、彼の心は怯えきっていた。

「これはぺトロの意地や度胸試しであるはずがありません。ぺトロをはじめとする弟子たちの新しい務めを理解させるためのものです。殉ずるのでもなく、首尾一貫を誇るのでもなく、主から与えられる務め、宣教の務めを、感謝をもって受け容れることができるように主によって備えられたものだったのです。」と八田牧師は説かれる。

捕縛された主イエスは、大祭司の舅アンナスの前に立たれていた。アンナスは大祭司を退任し、娘婿にその職を継がせ勢力を保っていた。神殿から上がる膨大な神殿税や租税は彼ら一族の勢力維持に役立った。それで、「神の住まいを強盗の住まいとした」と言われて、神殿を清められた主イエスを彼らは敵視していた。

アンナスは主イエスに弟子のことや教えについて尋ねた。主イエスは「わたしは世に向かって公然と話をした。わたしはいつもユダヤ人が集まる会堂や神殿の境内で教えた。秘かに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。彼らがわたしの話したことを知っている。」と答えられた。

その答えに下役が、そんな返事の仕方があるかと言って平手打ちした。逮捕された者は、体に縄を巻かれ、武器を持つ人々の前で尋問を受けて、誰もが悄然としてうなだれるか虚勢を張るかである。しかし、主イエスは冷静に反論される。それは、ご自分の身に起こることを何もかも知っておられたからであった。

平手打ちに「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と抗議された。「アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。」と聖書は記し、アンナスの言葉はない。

緊張を覚える個所が続く。今日の祈祷会は「第一の掟は『私たちの神である主は、唯一の神である。心を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』第二の掟は『隣人を自分のように愛しなさい』」だった。これさえ実行できれば、立派な信仰者になる。しかし、これほど難しいことはない。

どうやら、その難しいことを克服するというのが人生の目標として自分には与えられているらしい。

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