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ヨハネによる福音書 1章1~5節 [新約聖書 ヨハネによる福音書]

<初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1節)>

「ヨハネによる福音書は、神のもとからイエス・キリストが『言(ことば)』、『命』『光』となって世に来られたお方であることを証言しています。ここでは『言』(ギリシャ語ではロゴス)という文字を用いてイエス・キリストが永遠から永遠におられるおかたであることを説明しています。」と、6月の家庭礼拝歴担当、尾道西教会傳英二牧師は書き出される。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』こうして光があった。 (創世記1章)」その後も「神は言われた」が繰り返される。

「ギリシャ語の「ロゴス」は、理性や目的も意味し、聖書によると、神は知恵によって世界を創造した。「言」はまた、神の力、語るだけで創造できる力をも顕示する。ここでの「言」は、イエス・キリストを指す。イエスは神からのすべての人へのメッセージを伝え、神の力と意思を明らかにする。神の子イエスが人間として生まれながら、真の神であるのは、初めから神と共に存在するからである。」と解説書は説いている。

ローマ軍が神殿を破壊し、ユダヤ人の反乱が終結(70年)した後、主イエスの教えを受けいれたユダヤ人キリスト教徒は、ユダヤ教の会堂への立ち入りが禁じられていく。それまでパウロをはじめ弟子たちは、ユダヤ教の会堂で宣教していた。

本書は神殿崩壊の後、数十年の時を経て書かれ、マタイ、マルコ、ルカ書とは異なる視点で主イエスの生涯と言葉を記していく。その特徴として、三つの質問に関心が払われる。

1.「イエスとは誰か」 今日の箇所は、言であり、命であり、光であると記される。洗礼者ヨハネは「世の罪を取り除く神の子羊」と呼んだ。フィリポは「律法に記され、預言者たちも告げているお方だ」と答えた。主イエスはご自分の事を「メシア」「命を与えるパン」生きた水の源」「良い羊飼い」「まことのぶどうの木」と話される。

2.「神の子であることを証明するために、イエスはどんなことをしたか」 多くの奇跡、水をワインに変え、湖を鎮め、飢えた群衆を養い、病人を癒し、死人を蘇らせた。主イエスは神が主イエスを遣わされた意図、全ての人に新しい命をもたらすことを示された。

3.「イエスに従う者たちとイエスに敵対する者たちは、どんな関係があるか」 主イエスの教えに従う者たちと律法の教えに忠実な者たちとの葛藤が浮き彫りにされる。以上、解説書を要約してみた。

神殿が破壊され、反乱に失敗し、ローマから追放されたユダヤ人たちは近隣諸国に離散したが、10人が集まればその地に会堂を立て礼拝を持った。パウロの宣教旅行は、そのような会堂を見つけて、主イエスの福音を説いた。ユダヤ人たちがパウロに、入室禁止をした気持ちは分かる。


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ヨハネによる福音書 1章6~18節 [新約聖書 ヨハネによる福音書]

<この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 (13節)>

「言は神であった。」と主イエスを紹介したヨハネ書は、次にもう一人、神から遣わされた一人の人、ヨハネを登場させる。

「天使は言った。『恐れることはない。ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。…彼は母の胎にいる時から聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。』(ルカ書1章)」

ザカリヤとエリザベトの夫婦は、2人とも神の前に正しい人であったが、彼らには子どもがなく、2人ともすでに年を取っていた。天使は、産まれる子供は「父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい分別を持たせて、準備の出来た民を主のために用意する。」とザカリヤに告げた。

「光」は暗闇の中で輝いている。しかし、暗闇は光を理解しなかった。洗礼者ヨハネは、この「光」について証しするために来た。この「光」はまことの光で、「世に来て全ての人を照らすのである。」と告げた。自分自身が光ではなく、それを証しするために来たのだと。

「言」が、一人の人間として、現実のこの世界に現れたことを告げる。「言」はこの世に与えられたが、人々は受けいれなかった。主イエスはイスラエルの民、ユダヤ人として生まれ、同胞と共に幼児を過ごされたが、彼らは彼を救い主と認めることは出来なかった。

しかし、主イエスはその名を受けいれた人、信じる人々には神の子となる資格を与えられた。彼らは、生まれや育ち、人間的資質で与えられたのではなく、神が御子イエスを愛されたように、彼らを愛され、彼らが神の子となるということである。

「神はわたしたちに神の子の権威、資格、力を与えるほどに私たちを愛して下さっている。それは御子イエス・キリストと似た者とされるということです。」と傳牧師は説かれる。

15節。ヨハネはこの方について証しをし、声を張り上げて「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方の事である。」と言った。

そして、救いのすべての道は、このお方の宣教によって開かれ、啓示された神の恵みによって人は救われるとヨハネは説いた。旧約時代には、見える形で神を啓示することは出来なかったが、今、見える形で来られたのだと。

人々はどんなにびっくりした事だろうか。どんな大名行列がやって来るのだろうかと期待した人もいたかもしれない。


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ヨハネによる福音書 1章19~28節 [新約聖書 ヨハネによる福音書]

<「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(23節)>

ヨハネのことを聞いたエルサレムのユダヤ人たちは、ヨハネのもとに人を遣わし「あなたは、どなたですか」と質問させた。

ここでの「ユダヤ人たち」は最高法院に属する議員の事で、神殿の祭司職に就き、ファリサイ派や他の指導者たちに影響力を持つユダヤ教教師であった。ローマ帝国は最高法院に、ユダヤ人の慣習、特に宗教に関する決定権を与えていた。

ヨハネは、メシアでもなく、預言者エリアの再現でもなく、聖書に記された預言者でもないと答えた。そこで、遣いの者は「それでは一体、誰なのです。私たちの主人に返事をしなければなりません。」と尋ねた。

ヨハネはイスラエルがバビロン捕囚からの帰還を喜び歌った「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」とイザヤ書40章を彼らに伝え、「わたしはその声である」と言った。

「それは、荒れ野に王が部下を従えてやって来るとき、まず王の通る道を整えなければならない。そのために先触れがやって来て道を造り、人々に王を迎える準備をするようにと叫んでいる光景を歌った詩である。」と傳牧師は説かれる。

時代劇の「下にぃ、下にぃ」と人々を土下座させて進む大名行列、つい先日のサミットでの大警戒網、整った道、選別された人々の中を偉人は通ることになっている。ヨハネは、自分はまさにその前触れ役に過ぎないのだと言った。

しかし、ヨハネの前ぶれは、人々に形だけの土下座を求めるものでなく、また人々を選別し、彼らの武器を取り上げて、道を整えるものではなかった。

「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。…住民は皆、ヨハネのもとに来て罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。(マルコ書1章)」

遣いの者は、ヨハネが何の権威もないのに、なぜ人々に洗礼を授けるのかと尋ねた。ヨハネは「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか、悔い改めて実を結べ。…私は悔い改めに導くために水で洗礼を授けているが、私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私はその人の履物をお脱がせる値打ちもない。(マタイ書1章)」

「神の業にヨハネは用いられます。そのように、私たち一人一人をも選び、主イエスが再び来られるときに向かっての備えのため『荒れ野で呼ぶ声』として用いて下さっているということです。」と傳牧師は結ばれる。


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ヨハネによる福音書 1章43~51節 [新約聖書 ヨハネによる福音書]

<するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 (46節)>

「私は、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上に止まるのを見た。私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人に止まるのを見たら、その人が聖霊によって洗礼を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証したのである。」

と、ヨハネは神がここに来て下さったことを証しした。そしてその翌日、歩いておられる主イエスを見つめて「見よ、神の子羊だ」と彼の弟子に言った。すると2人の弟子はそれを聞いて、ヨハネのもとを離れ主イエスの後に従った。

主イエスは振り返り「何を求めているのか」と問われ、彼らが「ラビ、どこに泊まっておられますか」と尋ねると、ついてくるようにと促された。2人は従い、その日は主イエスのもとに泊まった。

「主イエスに出会い、招きを受け、従って主イエスのもとに泊まった彼らは確かに『見た』のです。何を見たのでしょうか。彼らは『メシアに出会った』と告白します。彼らが使った『見た』という言葉は、捜し求めるものを見つけた時の喜びを表す言葉です。」と傳牧師は説かれる。

彼らのうちの1人アンデレは、「メシアに出会った」と兄弟シモンに知らせると、彼を主イエスのもとに連れて行った。シモンは主イエスから「ケファ」と呼ばれることになった。

その翌日、主イエスはファリポに出会われ「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポはナタナエルに出会うと、救い主に出会ったと伝えたが、ナタナエルは自分と同じガリラヤ出身の貧しいナザレの大工の息子が待ち焦がれている救い主とは思えなかったが、フィリポの言葉に従った。

主イエスは彼が近づいてくるのを御覧になって「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われた。ナタナエルは自分が主イエスを見る前に、すでに見られていたことを知った。「それはナタナエルの背後にある苦しみ、悲しみ、生活苦のすべてを主イエスが知っていて下さっていたということです。」と傳牧師は結ばれる。

他の福音書は、洗礼を受けられた後、少しの間をおいてガリラヤ湖で漁をするぺトロたちを弟子にされる。本書は1章で一気に話が進む。どの福音書も一言一句を疎かには出来ないが、とりわけヨハネ書は緊張感を感じる。

主イエスに従う者とされたすぐ後に、彼らは兄に知人に福音を伝道してゆく。


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ヨハネによる福音書 2章1~12節 [新約聖書 ヨハネによる福音書]

<イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(11節)>

ヨハネ書において、主イエスの公的活動は、今日の箇所の「カナの婚礼におけるぶどう酒の奇跡」から開始される。カナはガリラヤの町、第二の奇跡も行われる、弟子ナタナエルの出身地であり、ナザレの北約13kにある。

「三日目に…」と2章が書き出されているのは、主の三日目の復活を暗示する。ユダヤの風習では、婚礼は1週間も続けられ、日本でもそうだったが、近所や親戚の女性たちが、飲食の準備をするために集められた。母と共に、主イエスもその弟子達も婚礼に招かれた。

ところが祝宴の最中にぶどう酒が足りなくなった。酒の欠乏は招かれた客の喜びを減少させるだけでなく、招いた主人の恥となる出来事であった。その事にいち早く気付いた母は、この解決を主イエスに求め「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

この問いかけは、彼女が主イエスのうちに神からの偉大な力が存在することを確信し、主イエスに対する信仰を持っていたことの現れでもある。主イエスは答えられた「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と。

「この言葉は、自分が産んだ自分の息子だという思いから抜け切っていない母に対して、主が、ご自分がこの世に来た救い主であることを、改めて認識させようとした愛情に満ちた教えであった」と解説書は説いている。

母は、わが子をコントロールしようとつい思ってしまうのは洋の東西を問わない。主イエスが言われた「わたしの時」とは、十字架につき復活なさる時であり、神の御心を行う時であった。しかし、その言葉に母は召使に、主が何か言われたら、それに従うようにと言った。

主イエスは、水瓶に水を一杯入れ、それを酌んで宴会の席に持っていくようにと召使たちに命じられた。彼らがその通り宴席の世話役に持ってゆき、世話役が水の味見をした。その味に驚いた世話役は花婿を呼んだ。そして言った。

「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すのだが、あなたは良いぶどう酒を今までとって置かれました。」とぶどう酒の旨さと花婿を褒めた。

「この物語全体は、主イエスが最初の栄光をガリラヤのカナで行った事、それによって栄光を現したこと、弟子たちはそれによって主を信じたことを語っています。「しるし」「栄光」「信仰」が結びあわされているのです。」と傳牧師が結ばれる。

「カナ」という言葉の響きからも美しい情景が浮かび、今日の箇所は、絵画にも音楽にも表現されている。


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