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箴言 1章7~19節 [旧約聖書 箴言]

<主を畏れることは知恵のはじめ。無知な者は知恵をも諭をも侮る。(7節)>

「箴言」は辞書では「戒めとなる短い句、格言。旧約聖書の中の一書。格言、教訓、道徳訓を含むソロモンの書」とあった。また、ネットは「ユダヤ教では諸書のひとつであり、キリスト教では知恵文学のひとつとして詩編の後に置かれる」と記し、

「内容は教訓の集合で様々な徳や不徳とその結果、日常における知恵や忠告などである。格言の多くはソロモン王によって作られたとされている。律法に関する5書がモーセの書と呼ばれているように、知恵文学(箴言、コヘレトの言葉、雅歌)はソロモンの書と呼ばれている。」と続いている。

7月の家庭礼拝執筆担当、広島長束教会、井上豊牧師は「歴史に名高いソロモンの知恵は、彼の祈りに応えて神が与えて下さった賜物でありました。神を知らない人のどんなに優れた知恵も、神からいただく知恵にかなうものではありません。そればかりか無知に分類されてしまうのです。箴言はソロモンと彼に連なる主を畏れる人々に神を通して与えられた知恵と言ってよいでしょう。」と書き出される。

ソロモン(BC970~931年統治)はイスラエル第3代の王。ダビデとパト・シェバの子。ダビデの事業を完成し民族を統一した。周辺諸国をも支配し、強力な権力と富を得、神殿、王宮、多くの町を建設した。しかしそれは徴税制、強制労働制を生み出し、国民、特に北イスラエルの反感離反を引き起こし、王国分裂の要因となった。

箴言の1章の1節は「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」と書き出し「これは知恵と諭を弁え、分別ある言葉を理解するため、諭を受け入れて、正義と裁きと公平に目覚めるため。未熟なものに熟慮を教え、若者に知識と慎重さを与えるため。これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え、聡明な人も指導力を増すであろう。」と前置きされる。

「主を畏れることは知恵のはじめであり、知恵を重んじる人は父の諭しに聞き従い、母の教えをおろそかにしません。ならず者が誘惑することはいつの世にもあることですが、今日ではさらに洗練された形になっています。それだけに誘惑に抗することが難しいのですが、その先には破滅が待っています。」と井上牧師は説かれる。

列王記11章は「ソロモンの背信とその結果」と題がつけられ、「ソロモン王には、700人の王妃と300人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた・・・」と王の末路を記す。

ならず者は姿を変え、言葉を変えていつも我々のそばにいる。それらを、勇気をもって拒むことは、辛くとも命に導く道だと井上牧師は説かれる。技術や学問より、主なる神を畏れることだと。



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箴言 3章7~9節 [旧約聖書 箴言]

<自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり、あなたの骨は潤されるであろう。(7節)>

昨日今日の暑さと湿気に、右から左に体を動かすだけでもしんどいと感じてしまう。それが怠惰ゆえか、体の衰えゆえか、とにかく参ってしまっている。こういう時「自分の体は私のものではなく、神のものだ」とたえず覚えておれば奮起するかもしれないのだが・・・。

「『主を畏れ、悪を避けよ』と言われますが、二つの別々の課題が与えられているのではありません。私たちが本当に主を畏れるならば、当然、悪を避けるようになるからです。主を畏れているのに悪を避けない。などということは考えられません。自分自身を知恵ある者とみなすことは自惚れに過ぎず、本当に主を畏れる人ならありえないことです。」と井上牧師は書き出される。

「父の教え」とタイトルがつけられ、3~6節は「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に、好意を得、成功するであろう。心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうずれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」と続く。

そのように歩むと「筋肉は柔軟になり、骨が潤される」と、体の癒しが告げられる。2千数百年も前の人々の平均寿命は想像がつかないが、一部の人々を除いて、体を動かさなければ食物を口に入れることのできない毎日であったことは確かだ。その人々に、主の道を歩むことは、肉体労働による筋肉痛からの解放も与えられると告げられたのだろうか。

テモテ書で「信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。」とパウロが記していることから、井上牧師は、体のことよりも信仰が大事という人もいるが「健康な肉体を求めなくてよい」というものではないと説かれる。

箴言を、また井上牧師の解説を読んで正直よくわからず、自分には知恵がないことを知る。ヤコブ書では「知恵の欠けている人がいれば、誰でも惜しみなく咎めだてしないでお与えになる神に願い求めなさい。そうすれば、与えられる」願い、求めなければなるまい。

「父の諭し」は「わが子よ、主の諭しを拒むな、主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。」と結ばれている。

2千数百年も前の人々のことを思い「もう少し奮起しなければ」とエアコンの中で反省した。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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箴言 3章13~18節 [旧約聖書 箴言]

<いかに幸いなことか、知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、彼女によって収穫するものは金にまさる。真珠よりも貴く、どのような財宝も比べることはできない。右の手には長寿を、左の手には富と名誉を持っている。(13~16節)>

「いかに幸いなことか」という書き出しは、「幸いなるかな」で始まるマタイ書の山上の説教を思い起こす。山上の説教は5月の修養会での講演をきいて、私たちの教会では何度か読み直し思いを深め合った。

「心の貧しい人々は幸いである」という言葉に「心の貧しい人とは誰なのか」というところから分からない。自分の貧しさを自覚していない人、例えば「せこい」と言われた某知事のことなのかという人もいた。けれども、ここではむしろ自分の貧しさを自覚しさらけ出して、神に自分の弱さを訴えて祈る人ではないかという声に落ち着いた。

しかし、今日の箴言の個所は「知恵に到達、英知を獲得」と言われて、神の知恵に人間が到達することはないと知っている者には馴染まない言葉が続く。そのうえ到達し、獲得した者には「長寿、富と名誉」を持つことになると言われ、ずいぶん俗っぽく感じられる。

「しかし、長寿はやはり尊ばれるべきものです。それは長い生涯の経験でもって神と人に使えるためです。富も、名誉も神にささげるものである限り、決して斥けられるべきではありません。」と井上牧師は説かれている。

「箴言の『箴』とはどのような意味でしょうか。肩が凝ったとき鍼灸師に『鍼』を打ってもらって血の流れを良くしてもらうように、人の心を『鍼』で刺して打ち、その人の生き方を整える言葉、それが『箴言』です。『箴』はそういう意味で、戒めという意味を持つようになったのです。」とC牧師より教えていただいた。

箴言の教えを針のように刺して、自分の持つ信仰が頑固に固まってしまわないように、血の流れをよくして、信仰生活を整えるようにと言われた。

そしてC牧師は「私たちの国では子供たちは小さい時から知識の習得に励みます。けれども、残念なことにあらゆる知恵の中で第一となる『主を畏れる事』の知恵を知りません。主を畏れ敬いながら生きるという知恵を伝えるのは教会です。我々クリスチャンです」と熱っぽく付け加えられた。

旧約時代の神の民イスラエルは、父や年長者や宗教の教師が「わが子よ」と呼びかけ、子供たち、若者たちに信仰による知恵を繰り返し教えてきた。

しかし、どこでどう歪んでしまったのか、テロが続く。

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箴言 3章21~26節 [旧約聖書 箴言]

<あなたは確かな道を行き、足はつまずくことがない。横たわるとき、恐れることはなく、横たわれば、快い眠りが訪れる。突然襲う恐怖、神に逆らう者を見舞う破滅に、おびえてはならない。主があなたの傍らにいまし、足が罠にかからないように守って下さる。(23~26節)>

「知恵は、主なる神と共に確かな道を歩むことによって与えられます。ですから、神を見失ってはなりません。神があなたの傍らにいまして、あらゆる悪の誘惑から守ってくださることを信じましょう。」と井上牧師は書き出される。

今日の個所は「父の諭し4」と題され、「わが子よ、力と慎重さを保って見失うことのないようにせよ。そうすれば、あなたは魂に命を得、首には優雅な飾りを得るであろう」と書き出される。「心の貧しい人々は幸いである」という山上の説教に通じる。

しかし間違って、この個所を「首に優雅な飾りを得たいために、力と慎重さを保つように」と理解してしまうのが世の常であり、たびたびそう捉えてしまう自分の貧しさである。リオオリンピックを目の前にした関係者の心情でもあろう。

地区の公民館の七夕の短冊には、それぞれの願いが書かれてほほえましい。子供たちが将来の夢を書いているのに比べて、高齢者たちは、今の平安がこのまま続きますようにと願っていて面白かった。けれども、書きながら誰もが星がそれらの願いを聞くわけはないと笑っているのが淋しかった。八百の神々を持つ信仰と、主なる神との大きな違いである。

「父の諭し」を受け入れたものの受ける首飾りは「主の懲らしめ、可愛い息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。」である。苦難に遭うとき、それが確かに神からのものだと信じるとき、苦難の中に光が見える。その光こそ、希望の首飾りである。

「神と共に歩み、人生でやるべきことをやっている人には、たとえそれが世の人に何の評価もされなくても、安眠という恩寵が与えられます。それは神との信頼関係にある人に与えられる恵みです。」と井上牧師は説かれる。

そして「今、これを読んでいる人の中には、心配事などのため、夜も眠れない人がおられるかもしれません。しかし、昼間その問題に十分に取り組んでいるなら、夜寝る前に神に祈り、眠りの時を神に委ねればよいのです。」と励まされる。

先の大雨で教会の庭が崩れたので、暑くて暑い今日、業者の方が来て下さり3~4人で治してもらっている。エアコンの中で、椅子に座り、聖書を読み祈る、今日の祈祷会を彼らはどのように思われたことだろうか。

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箴言 3章27~35節 [旧約聖書 箴言]

<施すべき相手に善行を拒むな。あなたの手にその力があるなら。出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな。あなたが今持っているなら。友に対して悪意を耕すな。彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。理由もなく他人と争うな。あなたに悪事を働いていないなら。(27~30節)>

ヨハネの手紙(1)3章は、互いに愛し合いなさいと記され「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者のうちにとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」と勧められる。

「私たちが互いに良い隣人であるためには、施しを行うべき時にそれを渋ってはなりません。…人にしてほしいことを進んで行い、してほしくないことをすべきでないのですが、これらは単なる博愛の呼びかけではなく、神が求めていることです。」と井上牧師は書き出される。

この場合の「施し」は物理的な助けと考えてしまい、それではお寺の説法にも出てくるのではないかと思ってしまう。しかし、聖書は一つの真理を様々な側面から説明していると解説書は説き、コリントの手紙(1)13章を引用する。

「全財産を貧しい人々のために使いつくそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ何の益もない。愛は忍耐強い、愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。…すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

だから、物理的に助けることと、愛とは別なものとされている。ヨハネの手紙では行いをもって愛することが愛だと言われ、コリント書では行いだけでなく心が伴わなければ愛とは言えず、その両方が一体となるようにと勧められる。

大地震で途方にくれている人々を映像で見ると、自分にできることは…と考える。その心の中のどこかが、みんなしているんだからという思いがあり、自分もやっていることを示したい思いがあってのことだろう。しかし、それは愛ではなく、自分の心に平安を得たいために過ぎず、それが見返りを求める心だと解説書は説いている。

神への信頼があれば、心はいつも平安であり、見返りを求めることはなくなり、その結果、兄弟姉妹に寛容に接することができると説かれる。「愛」とは神を信頼することなくして成立しないのだと。

ボランティア活動を通していつも心しなければいけないことだ。障害を持つ人に手助けしすぎることが多く、彼女たちの自立を助けるのではなく、自分自身がことを早く済ませたいがための手助けになっている時がある。大いに反省した。

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