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ペトロの手紙Ⅰ 1章1~2節 [新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ]

<あなたがたは、父である神があらかじめ立てられたご計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。(2節)>

この手紙はローマで死の直前、64年頃にぺトロがシルワノに書かせたと言われている。けれども、別の解説書は「しかし、この手紙の洗練されたギリシャ語の文体から、アラム語を主に話すガリラヤ出身のぺトロとは考えにくい。」と解説している。

ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアこれらの地方は、小アジアの中央あるいは北部に位置し、人々はギリシャ風の生活をする人や、東部(現在のイラン)の生活様式に倣う人がいた。その中に、迫害から逃れて故郷を離れて暮らす多くのユダヤ人(ディアスポラ)が住んでいた。

解説書は「この手紙は現在と将来の苦しみを多く述べているので、ローマ帝国のキリスト教に対する態度が変わってきた頃に書かれたと思われる。ローマ皇帝ドミティアーヌス(AD81~96年)の治世になるまで、ローマ帝国は、庇護下にあるユダヤ教の一部とみていたのでキリスト教を迫害しなかった。

しかし、彼の治世のころキリスト教とユダヤ教の活動は明確に分かれ始めた。神であると公言した皇帝を礼拝することをキリスト者が拒否した時から、ローマはキリスト者を迫害し始めたと思われる。」

ディアスポラにある人々を著者は「選ばれた者たち」と呼びかける。「父である神は、私たちが知るよりも先にすでに知っておられ “霊”の力によって神のものにして下さいました。かつて雄牛の血が注がれたように、神と私たちとの間には、神の恵みと平和は変わらないという約束がされたのです。」と9月の家庭礼拝歴担当、下館伝道所西橋直行牧師が説かれる。

「モーセは血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが『私たちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』(出エジプト24章)」

キリスト者にとって、神と神の民との契約を成立させるものは、主イエス・キリストの血である。聖餐式において、豊かに働かれる聖霊の注ぎを受け、キリスト者は主イエスの血を飲み、肉を頂く。

「わたしたちはこの世の旅人であります。しかし、この世で神に生かされ、この世のために生きる者とされているのです。神の中に住処が与えられています。『主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ』であります。」と西橋牧師は説かれる。

「この世の旅人」。祈祷会でも、すべてを断念して主に従うようにと勧められた。

「平和運動も、キリスト教徒は自分たちのように、自分の利で動くのではなく、無抵抗ですものね。私たちには真似できません。」と言われたことを思い出した。自分はキリスト教徒として人生を全うできるだろうか。危ういものだ。


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ペトロの手紙Ⅰ 1章3~5節 [新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ]

<また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 (4節)>

「神よ、守ってください。あなたを避けどころとするわたしを。主に申します『あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はありません。』・・・主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。(詩編16編)」

ここで詩編が「嗣業」というのは「遺産」という意味を持つ。親から子供に遺され、それは子供が受け継ぐものである。主を信じるあなたがたは、確実にこの遺産を受け継いでいるのだとぺトロはディアスポラの人々に告げる。それは手に取って、目で見ることは出来ないけれど、神が約束して下さった確実な財産なのだと。

信仰者が受け継ぐ財産は「朽ちず、汚れず、しぼまない」、すなわち腐らず、壊れず、全く敵の攻撃からも守られ壊されることがないと。外から来る敵だけでなく、心に巣食う罪からも守られるのだと。また、生きる力が萎えてしぼんでしまうこともないと説いた。

この世の財産は、この世においてしか価値のないものである。けれどもキリスト者はそのようなこの世の価値とは違う「天に蓄えられている財産」を受け継ぐと、ぺトロは説く。

「あなた方は地上に富を積んではならない。そこでは虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のある所にあなたの心もあるのだ。(マタイ書6章)」

全く違う宗教を信じているKさんは、この個所から、善行を人に施すとその行いが天に覚えられ、自分が天に召された時、神の近くに座ることが出来るのだと信じている。それで彼女は理屈をすぐに並べる自分と違い、町内の様々なお役を引き受け、善行を施している。

詩編は、「わたしは輝かしい嗣業を神から受けました」とうたい、ぺトロは、朽ちず、汚れず、しぼまない神からの遺産を受けているのだと告げる。神がご自身の独り子を世に遣わされ、十字架にかけられ、三日目に復活された出来事こそ財産であると。

「私たちには、イエス・キリストの復活によって『生き生きとした希望』が与えられているのです。芽をだし、枝を伸ばし、花を咲かせる。生活に潤いをもたらす希望が与えられているのです。そして、私たちのために天に蓄えられている朽ちることのない財産を受け継ぐ者とされ、終わりの時に、完全な救いを受けるように今この世のどんな力よりも強い神の力に守られているのです。」と西橋牧師は結ばれる。

天に召されてから用いる財産ではない。今この時に、この瞬間に新しく生きる命が与えられ、新たにされ生きて行く「希望」をすでに受け取っているということだ。真面目なKさんにそのことを伝えなければいけないが、何しろ町内会長さんなので、上手くいかない。


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ペトロの手紙Ⅰ 1章13~16節 [新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ]

<召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。(15節)>

13節からは勧告の文体へと変わり、3節から9節までに語られていることを受けて、「だから…聖なる者となりなさい。」と勧められている。3~9節は初代教会において、洗礼の時に読まれた箇所であるとも言われている。主イエス・キリストの復活によって主を信じる者には、生き生きとした希望が与えられている「だから・・・」ということに続く。

「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。・・・わたしは、あなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。(レビ記11章)」

レビ記で命じられているとおり、心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れる時に与えられる恵みをひたすら待ち望むようにと、具体的に語られる。

「心を引き締め」というのは直訳すると「心に腰帯を締め」となり、布をまとうだけでなく、しっかりと腰帯を締め、いつでも主の命に応えることが出来る状態におくことであり、「身を慎む」のは酒をのまないこと。すなわち、はっきりといつでも目を覚ましているということである。

「主イエス・キリストを信じる信仰者の生活は、何かよくわからない、はっきりしない生活なのではなく、はっきりと目が覚めている者の生活なのです。自分自身の身を整えて、目がはっきりと覚めている生活の中で『イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをひたすらに待ち望む』ということなのです。」とK牧師は説かれている。

そして、「無知であった頃の欲望に引きずられることなく…」と続く。この世の常識や、学問についての無知ではなく、神についての無知、神が与えて下さった恵みや救いについて無知であったということである。神の子供として私たちを召し出してくださった聖なる方に従い、生活のすべてにおいて聖なる者となることが勧められる。

ぺトロの勧めはもっともだけれど、誰もできることだろうか。もし、それができない者はキリスト者の資格がないということになれば、それはユダヤの律法のようになってしまう。

「レビ記で主は『わたしはあなたたちの神になる』と言われ、私たち人間がいつでも主なる神を唯一の主とすることが出来るようにすると告げられています。主イエスの十字架において、神が私たちの罪を赦して下さったのです。そのことを信じることが『聖なるお方に倣う』ということです。」とI牧師は説かれる。

聖なるお方に倣って生活する。そのことが上手にできるかどうかが問題ではなく、出来ないながらも完全を目指して走り進んでゆく。大事なことは主なる神を信じて従うことだと説かれている。

「クリスチャンだ」というと、同窓生は「あんたが・・・」とあきれる。自分は上品とか知性とか、無欲にほど遠い生き方をしているかららしい。


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ペトロの手紙Ⅰ 1章17~21節 [新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ]

<また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その力を畏れて生活すべきです。 (17節)>

この手紙は、小アジア北部に離散していたキリスト者にあてて書かれた。離散しなければならないほどの迫害の中にある人々に対して、どのようにキリスト者としての生活を送ればいいのかと説いていく。その一つの答えが「そのお方を畏れて」生活することであった。そのお方とは人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる主。『父』と呼ばれるお方」だと。

「公平」と訳されている言葉は「顔を見て区別しない」という意味の言葉であり、神は自分の気付かないところで人を判断してしまう私たちとは全く違い、それぞれの生活をはっきり正しくご覧になり、公平に判断をなさるお方である。

マタイ書20章「ぶどう園の労働者」の個所を思い起こす。早朝から働いた者、その後に働いた者、そして最後に夕方になって働いた者への労働の対価の話である。ぶどう園の主人はその人々に同額の報酬を与えた。最初に働いた者が主人に不平を言った。

「最後に来た者は1時間しか働かないのに、丸一日暑い中働いた自分たちと同じ扱いをするのですか」と。主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは「私と1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。…」と答えた。

納得いかないと思ってしまうが、これが、神の「公平」である。H牧師はこの個所で「早朝一番に雇われるのは元気な人、夕方やっと雇われた者は怪我や病弱で全く力の無い者です。」と説かれた。私たちの物差しとは全く違うお方を畏れて生きるようにと勧められる。

けれど、「せっかく神を信じたのに、いやむしろ神を信じたばかりに、我々はこのような苦難にあっている。神はどうしてくれるのか」といえる状況にあっても、「神を畏れて生きなさい」と人々に勧める。

それは、先祖伝来の空しい生活から贖われたのは「金や銀のように朽ち果てる物には寄らず、傷や汚れのない子羊のようなキリストの尊い血によるのです」と説く。

「イスラエルの祭司たちは、罪を赦すために種々の動物の初子を犠牲として献げ、儀式で血を流した。十字架上でのイエスの死は、罪の赦しのための供え物として新約聖書は記す。イエスはまた、傷のない子羊とたとえられ、その血は赦しをもたらす力がある。」と解説書は記す。

また、「先祖伝来の空しい生活から贖われた」とは、主を知らず欲望のままに生きた以前の生活から、主が独り子の血をもって贖って下さり、救い出して下さった。「贖う」の言葉は、奴隷や囚人を自由の身にするための代価の意味を持つ。

「心を高く上げよ」という讃美歌は、命の期限を与えられたSさんの愛唱歌であったことを思い出す。


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ペトロの手紙Ⅰ 1章22~25節 [新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ]

<あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。(22節)>

わたしたちは既に「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから…」と確信をもって語られる。そしてそれは、わたしたちは朽ちる種からではなく、朽ちない種、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのだからと言葉が続けられる。

「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う。何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(イザヤ書40章)」

人は皆、その華やかさは草の花のようだと告げられる。華やかな、この世における栄誉、名声、富、健康な体、時間、若さなどなど。けれども、それらはどれも永遠に続くことはなく、確実に誰もが逃れることのできない死へと向かっている。

イザヤ書の40章は、異教の地バビロンにおいて捕囚の屈辱の中に生きるイスラエルの人々へ慰めと励ましの言葉として主の御言葉が預言者を通して語られる。「肉なる者は皆、草に等しい」肉なる者、神でない者の支配は永遠ではないと、人々に告げられている。

「朽ちる種」から生まれた草花はやがて枯れてしまうが、「主の言葉は永遠に変わることなく、永遠に残る」これこそは「朽ちない種」であり、変わることのない生きた言葉は、人間が過ぎ去り滅びゆく世にあっても、永遠に変わることがない。わたしたちはその「朽ちない種」から新たに生まれたのだとぺトロは語る。

「新たに生まれる」とは、それまで生きていても死んでいた者が、神の言葉によって真実に生きている者にさせていただいたということだ。聖書の中の聖句に出会い、信仰を与えられ、生き方が変わったという知人も多くいる。み言葉によって、罪の中にいた者が自分自身の貧しさを知り、神を畏れる者として新たに生きる者とされる。

聖句によって新たに生きる者とされることはもちろんだけれど、決定的なのはやはり主イエスの十字架の死と復活という、朽ちることのない福音のみ言葉に尽きるだろう。

朽ちることのない種によって生まれた者同士、清い心で深く愛し合いなさいとぺトロは勧める。十字架にかかられた主の血によって私の罪が赦され、清められた、と同時に私の周りにいる隣人も罪赦され、清められた人なのだから、当然、愛し合いなさいと。

憎み合うのは当然いけないが、偽善的な愛はもっとも厄介だ。愛さなければと思うのだが、心がついていかず、自分は表面だけの愛に終わってしまっていることがある。

そういう泣き言をいう者に「ここで『兄弟愛』というのは、はっきりと相手を示した具体的な愛ということであります。具体的に、本当に愛さなければ、愛にはならないということなのです。神様が与えて下さった隣人を愛するのです。」とI牧師は叱責される。


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