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新約聖書 ペトロの手紙Ⅱ ブログトップ

ペトロの手紙Ⅱ 2章1~16節 [新約聖書 ペトロの手紙Ⅱ]

<神は、罪を侵した天使を容赦せず、暗闇と言う縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。(4節)>

「ぺトロの手紙Ⅱは、一般的な挨拶のある手紙として書かれているが、実際には、使徒ぺトロの告別のメッセージ、あるいは最後の遺言を意図して書かれている。著者は、仮の宿である肉体をまもなく離れなければならないので、最後の助言と警告の言葉をキリスト者に与える。」と解説書は記す。

あて先は、小アジアの諸教会、あるいはより広範な読者で、本当の意味において公同書簡と言える。「異端を排撃し、信仰を正しく守るように、励まし、訓戒するのに『イエス・キリストの僕であり、使徒である』ことを強調した紀元100~120年ころの手紙でしょう。」と西橋牧師は書き出される。

神の栄光と力ある業とによって、尊く素晴らしい約束を与えられている者として、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性に与らせていただくようになるようにはと、八つの徳目が並べられる。

「あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私たちのイエス・キリストを知るようになるでしょう。(5~8節)」

ギリシャ哲学を取り入れた宗教思想では、世界は悪で退廃した場所とみなされ、人間の目標はこの退廃を超越して神の霊や力と一体化することであった。キリスト教が古代ローマ世界の諸宗教や哲学と競っていた時代にこの書は書かれている。それで5~8節の言葉は人々に馴染のものだった。

この書は巧みにそれらの言葉を入れながら、「神とわたしたちの主イエスを知ることによって・・・」それらをなすことが出来るのだと説いた。神の本性と一つになる時、キリスト者は、貪欲や偶像礼拝などの過去の欲望と、この世の退廃の影響から免れることが出来るのだと。

著者は人々に、主を知る真理を日々思い出させ、信仰に奮起させることが自分に課せられた使命であることを熟知して、「・・・自分がこの仮の宿をまもなく離れなければならないことを、私はよく承知しているからです。・・・」と記し、この個所からこの書が「ぺトロの遺言書」とも言われている。

そして「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」と説く。

「聖書を勝手に解釈してはならない。」と私たちも教えられている。西洋絵画では主イエスは白人に近く描かれているが、サモアの人からもらったクリスマスカードは、ヤシの下で憩う、やや浅黒いヨセフ、マリアと主イエスだった。十字架にかかられた主イエスは下着一枚も身に着けておられなかったかもとS牧師が話された時には、そんな屈辱を受けられたのかとショックだった。

昨日の説教は偽キリスト者のことが話され、今日の個所によく似ている。主イエスが、弟子たちにご自身の死と復活を予告されたとき、ぺトロがあわてて主イエスを脇へ招き、そのようなことを言ってはなりませんと忠告した。すると主イエスは「サタンよ、下がれ」とぺトロを叱責された。

信頼する者の中にも、サタンはもぐり込み、主を信じる群れを破滅する。戦中、当局に否を唱える牧師に「ここは難とかごまかしましょう」と多くの教会員が牧師に罪を犯させた。


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ペトロの手紙Ⅱ 2章17~22節 [新約聖書 ペトロの手紙Ⅱ]

<義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのために良かったであろうに。(21節)>

「不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。・・・飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲に溺れ、呪いの子になっています。」と偽預言者について語られ、「彼らは、干上がった泉、嵐に吹き荒れる霧であって、彼らには深い闇が用意されているのです。」と偽預言者の末路が語られる。

エレミヤ書14章でも「ユダは渇き、町々の城門は衰える。人々は地に伏して嘆き、エルサレムは叫びをあげる。貴族は水を求めて、召使を送る。彼らが貯水池に来ても、水がないので、空の水がめを持ち、失望して、頭を覆って帰る。…」とその惨状が記される。

そして続いて「主はこの民についてこう言われる。『彼らは彷徨うことを好み、足を慎もうとしない』主は彼らを喜ばれず、今や、その罪に御心を止め、咎を罰せられる。」と記され、主は預言者エレミヤに「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。…わたしは彼らの叫びを聞かない。…彼らを滅ぼしつくす。」と告げられる。

「折角、キリストに対する信仰告白をして、正しい信仰の道を歩む光栄が与えられても、信仰の戦いは容易ではないのです。わたしたちの教会はそれらの誘惑をはねつけ、若い人たちに信仰の継承をなしているでしょうか。」と西橋牧師は説かれる。

主イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われた。すると、彼らは「自分たちは今まで誰かの奴隷になったことはない」と言った。主イエスは「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と答えられた。

難しい問答だが、卑近な例を取ってみると、お金持ちになることを人生の目標に置くと、お金のあるなしによってすべてを判断してしまう。容貌こそ、頭の良さこそ、健康こそ、家系こそ、友人こそと思う者は、その物差しで自分自身をも測り、自分を縛ってしまうことになる。それが奴隷状態と言うことだろうか。

「何にも持っていないけれど、主がすべてをご存じで恵みの道を与えて下さる。」と清く生きようとする者に、偽預者は、神の赦しや恵みを曲解して説き、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑した。彼らに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷であった。彼らは、主の救いと恵みの「真理」を知ろうとはしなかったから。

箴言26章「犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は自分の愚かさを繰り返す。自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。」と、ぺトロのあげたことわざを「折角、キリストを受け入れた者がまた、不潔なところに戻ってゆくのを見捨てたくないものです。」と西橋牧師は注釈して下さった。

偽預言者が見るからに「サタン」の風体であったなら、すぐに接触を避けることが出来るけれど、そうじゃない時の方が多いだろう。彼自身も自分が偽預言者だと気づいていないのだから。


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ペトロの手紙Ⅱ 3章1~7節 [新約聖書 ペトロの手紙Ⅱ]

<愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。(1節)>

迫害は政権が代わっても止むことなく、キリスト者はいつまでたっても苦しみの中に置かれていた。その人々に「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこの方、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」と、欲望のままに生活している者が嘲りの言葉をなげた。

「人の子がいつ来られるのですか」と問う弟子たちに、主イエスは「人の子が大いなる栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によってえらばれた人たちを四方から呼び集める。(マルコ書13章)」と答えられている。

苦しみの後に、主の再臨があると信じられていた。それは「終わりの時」ともいわれ、今の世界が終わり神の完全な支配が始まる時だと、聖書の多くの個所が記している。主イエス以前のユダヤ教の書物の重要なテーマになっている。この信仰は、初期キリスト教においても、大切なことだった。

嘲りの言葉を投げる人々に、彼らはノアの洪水によってすでに世界は一度滅亡したことを認めていないからだとぺトロは説いた。そして「現在の天と地とは火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。」と続けた。

それでいくと、暑すぎたこの夏は、その予兆なのかと案じてしまう。そういえば先日、地質学者のTさんが、世界のどこか(地名は忘れたが)の氷はどんどん解けている、この暑さに地球は悲鳴を上げていると話された。熱によって滅ぼされる日があることを心に留めなければならないと。

「わたしたちは神の御支配に対して不信感を抱いたりします。しかし、聖書を通して、礼拝を通して、神のご計画は着々と進められ、新しい世界を待ち望む信仰を与えられていることを確信しましょう。すべてを御手の内に置かれている神を賛美し続けましょう。」と西橋牧師は結ばれる。

たしかに、ノアの時は箱舟に乗った者は洪水を免れることが出来た。だから、主を信じる者は何らかの形で免れることだろう。けれど、正直言って自分だけが助かったところで、分業が発展してしまった現代、誰一人、自分一人では生きて行けず地球が絶滅することは間違いないと思ってしまう。

犯罪者の再犯が多いことについてのTV報道を見た。北九州のO牧師が根気強く彼らを支援していると伝えられ、再犯を繰り返していた一人の男性にマイクが向けられた。彼は人との交わりを通して、立ち直り「もう繰り返すことはしません。O牧師を裏切ることは出来ませんから」と言った。

それを見ていて、自分も主の教えを裏切り続けている者だけれど、主がどんなときにも支えて下さっているのだと気づいた。彼がO牧師を悲しませないと言ったように、自分はO牧師よりうんと偉大な神に守られているんだから、もちろん主を悲しませることはしてはならないと自戒した。

彼もいずれは、O牧師に先立って彼を支援されている、神を知ることになるだろう。


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ペトロの手紙Ⅱ 3章8~13節 [新約聖書 ペトロの手紙Ⅱ]

<主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造りだされたものは暴かれてしまいます。(10節)>

「『主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。(8節)』神の計画を人間の性急な基準で計ってはならないと警告されています。終末がいつ来るかということは人間が計る事柄ではないのです。すべて神が支配されていることです。

人間は『遅い、いつくるのか』と考えがちですが、神は『一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(9節)』なんと神は憐み深い方でしょう。」と西橋牧師は書き出される。

今日はKさん宅で家庭集会があり、そこで創世記18章「ソドムの滅亡」の個所を学んだ。アブラハムと妻サラに「男の子が生まれる」と告げた主の御使いは、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」と言われる主の言葉にソドムの方に向かった。彼らを見送ったアブラハムは主の御前に出て、従弟ロトが住むソドムを滅ぼすのに、正しい者まで一緒に滅ぼさないでくださいと願い出た。

主は「その町に50人の正しい者がいるならば、その者たちのために、町全部を赦す」と答えられた。45人でも赦してくださいますか、40人でも・・・10人しかいなくても・・・とアブラハムが重ねて尋ねると主は「その10人のためにわたしは滅ぼさない。」と約束して下さった。

2人のみ使いがソドムのロトの家に入ると、町の男たちがやってきて乱暴にわめきたてた。み使いはロトに身内の者と一緒にここから逃げるように命じたが、皆冗談だと同行を断った。そこで、ロト、妻、2人の娘だけで「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない」と命じられた通り隣町に向かった。

「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。(19章)」

一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、忍耐して下さってはいるが、ついには、神の裁きはこのように行われるのだということを学んだ。正しい者がロト一家の4名しかいなかったので、こんなことになったのか、どうして10名だったのか。アブラハムが1名でも・・・と言っておればよかったのにと、言ったり、塩の柱になったロトの妻の気持ちもわからないではないという声があった。

10名と言うのは、当時ユダヤの会堂は10名の者が集まれば立てられたことから、社会の最小単位とされていたのでやはり10名。つまり今の教会と考えられる。ソドムの町に正義を打ち立てようと、神に祈り、神に訴える教会があれば、神はその町を滅ぼされなかった。と読むらしい。

それでは、助かった町は現状維持、欲望と怠惰な町の状態がこれからも続くことを神は許されるのかという疑問が残ってしまう。そんなはずはない。正しい10名の者の力を強めて下さるに違いないと教えられた。

「イスラエルの人々にとって、ソドムは自分たちの国であった。彼らは悪を正すことが出来ず、ユダ王国は滅亡した。しかし、国の滅亡はその国を正す少数者がいれば、免れ、救われるとの確信と希望である。私たちの国も国全体を正す10人がいれば、国は裁かれず、滅びることはないという希望がある。神はこの国に正義が確立することを望み、少数者を応援される。」とS牧師が説かれた。

為政者のためにキリスト者はなお強く祈ることが求められる。


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ペトロの手紙Ⅱ 3章14~18節 [新約聖書 ペトロの手紙Ⅱ]

<わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン (10節)>

解説書によると、このぺトロの手紙の形式は新約聖書のどの書よりもAD2世紀のギリシャ文化を反映している。使徒ぺトロはアラム語を主に話すガリラヤ出身の漁師で、ローマでAD65年ころ殉教したと伝えられ、この手紙はぺトロの遺志を継いだものの手によって記されたとされている。パウロもそのころに殉教の死を遂げたと伝えられている。

パウロの使徒書簡においては、キリストがまもなく再び来ると記されている。しかし、この手紙が記された頃は、偽教師たちがキリストの再臨を待つ信徒たちに、教会の初代の指導者たちはすでに死に、世の中のことは何一つ変わらないではないかと言った。

小アジア北部に離散していたキリスト者にあてて出された最初の手紙は、信仰のゆえに苦しみを受ける覚悟を促すものであった。それは、主イエスが苦しみ、罪を赦すために死に、神が主イエスを復活させたので、苦しみはキリスト者を打ち負かすことは出来ないからだというものであった。

苦しみを抜けたところにバラ色の生活があるかのように思った人々がいたのかもしれない。スーパーマンのように主イエスが再臨され、自分たちを苦しめるサタンを完膚なきまでに叩きのめし、救って下さり、また以前のような穏やかな生活が与えられるのだと。しかし、そうではなかった。

偽教師たちは、どのような目的でキリスト者を嘲り「再臨はどうなったのか。いつまでも変わらないではないか。」と扇動しようとしたのだろうか。勝手に推理してしまうと。それはちょうど戦争中の日本の教会に通じる。時の政権に逆らってまで信仰を守ることはない。聖書を曲解し、妥協点を見出し、この急場を逃げ延びるのが賢い生き方、信者の命、教会を守る生き方だと判断した。

偽教師たちが選択した間違った善意によって、教会は弱体化した。韓国の教会は戦争で多くの殉教者が出たが、国民の思いを裏切ることなく、教会はその後も民主化運動など様々な抵抗運動の中心となり、人々に信頼されている。私たちの教会は、戦後多くの若者が教会の門を潜ったが、その大半は西洋文化に憧れてのもので、通り一遍のことを吸収すると教会を去った。

この手紙は「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」と説き、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。「それは、私たちの愛するパウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。」と続いている。

パウロの手紙は難解な個所があり、考えの浅い者や、心の定まらない者はそれを曲げて解釈し「自分の滅びを招いています。それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように」と警告する。

パウロの手紙が諸教会に送られ、聖書としての権威を獲得するには、長い期間を要した。そのことからも、この手紙が書かれた時期は2世紀初頭だと思われる。

迫害や弾圧で苦しめられるのは辛い。それで、聖書を曲げて時の政権にすり寄る教会に自分はなびくかもしれない。「生きていても死に、死んでいても生きる」この言葉は重い。


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