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エフェソの信徒への手紙 1章1~6節 [新約聖書 エフェソの信徒への手紙]

<神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ。(1節)>

「今日からエフェソの信徒への手紙を読みます。この手紙は、パウロの他の手紙に比して最晩年の作と思われます。円熟した手紙です。その信仰の深さ、思想の高さ、祈りと聖霊の導き、頌栄と賛美に満ちた作品です。」と12月の家庭礼拝歴担当田中豁牧師は書き出される。

かつてエフェソには地中海の主要な港があった。パウロの時代までには、その港は沈んでいた。それでも、この地は荘厳なアルテミス神殿がある美しい都市で、神殿には女神アルテミウスが送ったとされる隕石がご神体としておかれている。何百人もの娼婦が神殿に仕え、商人たちはアルテミウスを崇める様々な宝石を売っていた。大劇場、闘牛場、図書館もあった。

パウロはおよそ3年間エフェソで宣教した。一世代後の黙示録には、エフェソの信徒は、キリストの愛から離れてしまったと書かれている。

パウロは最初に「聖なる者たち」とエフェソの信徒たちに呼びかける。「聖なる者」とは、聖人君子ではなく、また自らの功績によって立派な人格を作り上げた人でもない。神によって選ばれ、主イエス・キリストを崇め、礼拝し、神のみ言葉を生涯聞き続ける信徒だと田中牧師は説かれている。

エフェソは、アウグストゥスの時代(紀元前27年)には、ローマ帝国のアジア州の都として、広大な帝国内でも5本の指に入る大都市であった。しかし、だんだん港が浅くなりその機能を果たせなくなり、パウロの時代には活気を失い、それに従いアルテミス信仰も力を失っていた。やがて、ゴート族の攻撃を受けエフェソは衰退していった。

港は年々浅くなってゆき、大きな船がエフェソを避けるようになった。活気に満ちていた港に人声はなくなり、町全体が希望を失い始めていたころ、パウロが新しい希望を人々に告げ知らせていった。すがる思いで、利を求めて人々は主を信じる者となった。

使徒言行録19.20章にはパウロがエフェソで人々に告げ知らせた時の様子が記されている。それによると、最初パウロの宣教活動は実りあるものだったが、女神アルテミスを崇拝していた人々との間に騒動が起こった。町の指導者によって群衆は静まったものの、パウロは町を去るのが最善の策だと思い、長老たちを勇気づけてこの町を去ることになる。

高齢のため体が不自由になり、施設で生活している義兄の誕生日が来た。食べ物も、本もすべて楽しめなくなった義兄へのプレゼントには頭を悩ます。こういう時、霊験あらたかな「お守り」が何よりだとつい思ってしまう。偶像崇拝の誘惑は身近にある。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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エフェソの信徒への手紙 1章7~10節 [新約聖書 エフェソの信徒への手紙]

<こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(10節)>

「9節で『秘められたる計画』とは、奥義の啓示であります。それは、『時が満ちるに及んで、救いの業が完成される』ということです。旧約聖書で予告されていたことの成就であります。」と田中牧師は書き出されるが、聖書に馴染みのない者には難解な言葉である。

「神はかつて預言者たちによって、多くの形でまた、多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者に定め、また、御子によって世界を創造された。(ヘブライ書1章2節)」

ここで指す先祖は、アブラハムとサラの子孫であるイスラエルの民のこと。代々の預言者たちはイスラエルの民の歴史を理解し、神の民として生きることや神を礼拝することについて神の言葉を伝えてきた。しかしこれらの、すなわち預言者が告げる時代が、主イエス・キリストの到来によって終わった。主イエスの降臨は「終わりの日の始まり」である。

「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた『光あれ』こうして、光があった。(創世記1章)」キリストは世界の創造の初めに神といた「言葉」である。言葉は人間となったが、神と等しい存在である。

今月の短歌の課題は「クリスマス」、但しカタカナを使ってはならないということだった。それで「人を責め心すさぶる吾のため御子は来ませり贖罪として」を出詠しようとMさんに見せたら、意気込みすぎてイメージが湧かないと言われてしまった。

礼拝を守り続けてゆく中で自分の貧しさ愚かさに気づかずにはおれない。いくら聖句を覚え、讃美歌が気持ちよく歌えても、会堂を出れば骨抜き状態。噂話は好きだし、お祈りは弁解ばかり。飢餓で苦しむ子供たちを覚え食事を摂るものの、所詮、人ごと遠くの話。確かに神はおられることを信じているが、何か事が起こってもそう信じられるだろうか。

大昔、イスラエルの民は、その小さな地域でしか生きていなかったが、それでも無条件に神を信じ切る人ばかりではなかった。偶像を排し、見えないものを信じることは容易ではない。何度も何度も神との約束を十戒を律法を蹂躙した。

そのような民の罪を贖うために、神は愛する独り子を、この世に送って下さった。

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エフェソの信徒への手紙 1章20~23節 [新約聖書 エフェソの信徒への手紙]

<教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられるところです。(23節)>

「地にある目に見える教会だけでなく、目に見えない天上にある教会を含めて、教会はキリストの主であり、同時に教会はキリストの体です。」と田中牧師は書き出される。

エフェソ書はパウロがローマの獄中から、エフェソをはじめとする地方の諸教会に送った回覧書簡と言われている。獄中にもかかわらず、パウロは神を賛美することで手紙を書く。彼は獄にあってもそれを祝福ととらえていた。

それは神によって自分が選ばれている、天地創造の前から自分を選んでくださったのだという確信を持っていたからである。彼は、神によって選ばれたのは、今この手紙を読むあなたがたもそうなのだと、ひたすらに説いた。

私たちが選ばれたのは、それは私たちを通して御国を来たらせるためであり、救いの業を完成されるためなのだ。すべて歴史は神の経綸の中にあるのだと説いた。罪まみれの我々は、御子の血によって罪を赦された。御子が十字架につかれたのだから、私たちも苦難を恵みとして喜ぶのだとパウロは説いた。

パウロの最大の願いは、人々が父なる神と出会い、その愛を知り、新しく変えられて生き始めることにあった。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように。神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」と祈った。

神を知る時に初めて人は人となりうる。神を知らない人は恐れと孤独から怪物となってしまうとO牧師は創世記4章、「レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ、わたしの傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。」と、終わりのない報復をあげられる。

また、神の御力はキリストを死から復活させ天に上げられ、天においてご自分の右の座に着かせ、すべての、支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりではなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれる。


この神の御力は教会にも与えられている。教会こそ地上におけるキリストの体、やがて来る神の国の先触れなのだと説かれてゆく。

召命によるアブラハムの旅立ちに始まるイスラエルの歴史はすべて「群れ」である。そこが、自分が知っている仏教との大きな違いである。教会の一人一人は欠け多いが、互いに愛をもって補足しあう、信仰の群れである。真実のリーダーが頭におられる群れである。

クリスマスの愛餐会の献立にいろんな意見が出てまとまらない。頭が痛いが、それでも誰もが御子の誕生を祝いたい気持ちは同じなので、そのうちまとまるだろうと思う。

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エフェソの信徒への手紙 2章1~6節 [新約聖書 エフェソの信徒への手紙]

<さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。(1節)>

「2章は信仰者が受けた救いの事実を、信仰に入る以前の状態に対比させて明らかにしようとしています。『かつて』と『今や』の鋭い対比です。」と田中牧師は書き出される。エフェソの信徒たちはかつて異教の神々を信じる人々であった。

自分の過ちと罪のため、生きていても死んだ状態のものであった。自分の肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、神を知らない他の人々と同じように生まれながら神の怒りを受けるべきものであった。

「激しい言葉です。イエス・キリストを知るまでは、生きてはいるが生ける屍であったのです。たとえ無垢の嬰児でも死んでいるとパウロは断言するのです。」と田中牧師は続けられる。

神を知らない人たちは、自分を神とし、自分の利益のために争い合う。そこにおいて生きることは相手への貪りとなり、貪りは争いを生み、争いは平和を壊し、自分自身もその中で壊れてしまうしかない。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、猥褻、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、怒り、利己心、不和、仲間争い、泥酔、酒宴、その他この類のものです。」とガラテヤ書5章は列挙している。

傲慢な為政者の姿勢は政治不信につながる。カジノ法案でも多くの人々が反対しているなか強行採決された。保守系の新聞にまで「博打で損をした人のお金で、国の経済を潤そうとしているのか」と非難する記事が載った。

近くのバス停は、競艇場が開く時はあまり子供を近づけたくない。同じように野球がある日も多くの人が利用するのだが、その時は勝敗に関わらず人々に殺気立った気配はない。誰もが持つ強欲の罪を利用して経済を立て直そうとする算段を許してはならない。

神はキリストの十字架を通して私たちと和解して下さった。繰り返し罪を犯し続ける者だけれど、神に赦されることで罪が取り除かれ、神に立ち帰り、私たちは再び神に受け入れられる者となる。罪が赦されただけでなく、そして新しい命に生きる者になるのである。

「神が私たちを救われたのは、私たちを通して神の恵みを伝えるためです。個人の幸福、救いを超えた出来事として、私たちは召されているのです。神との正しい関係に入ったとき、私たちは良い業を行い、その業を通して神を証しするのです。」とO牧師は説かれる。

キリスト者がする「証し」とは、病気が治ったとか、出来事が好転したとかいうことではない。それならご利益信仰と変わりないと教えられている。

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エフェソの信徒への手紙 2章7~9節 [新約聖書 エフェソの信徒への手紙]

<事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によってすくわれました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(8節)>

「救いは『神の賜物です。』それは『恵みにより』、『信仰によって』、『自らの力によらず』与えられるものです。全く神の恵みによる賜物です。わたしたちが、心を神に向けて開き、神の恵みの賜物を感謝して素直に受け入れることが信仰です。それは、人間の行為や業による功績ではなく、素直な心を持って受け入れ、誰も誇ってはならないのです。」と田中牧師は書き出される。

「罪」とか「救い」という言葉は、キリスト教と全く関係ない環境で育った者にはなかなか馴染めない。芥川龍之介の「くもの糸」が浮かぶ。暗闇の世界に落ち込んだカンダタを、お釈迦様が彼の生前の善行をもとに許されて、救いのくもの糸を垂らされる。

くもの糸が自分のためだけに垂らされているはずなのに、ぞろぞろと後に続く者をみたカンダタは、足元のくもの糸を切ってしまう。と同時にお釈迦様が、カンダタのすがっていた糸を手放されてしまう。物語はここで終わるが、お釈迦様ではなく主イエスならどうされただろうか。

先ず、主は彼の生前の行いの良さを基準にくもの糸を垂らされない。彼が必死で夜昼休むことなく助けを求めたので、くもの糸を垂らされた。彼の行いや性格ではなく「必死に助けを求めた(祈った)」ことが主の心を動かすことになるのではないだろうか。

大勢の者が糸に縋ったので彼も糸を切った。主はどうされるだろうか。やはり手放されたのだろうか。しかし、それではお釈迦様と一緒になってしまう。K長老に聞いてみたら、「手放されるでしょう。でも、また彼が叫び声をあげたら糸を垂らされるでしょう。何度でも何度でも」と笑って答えられた。

彼は救われるのは自分だけだと思っていたが、後に続く者も神に愛され、神が必要とされる者であった。それに気づかなければならなかった。

クリスマスを前に(待降節)した今日の祈祷会では「隣人を愛せ」と敵をも愛することが求められた。カンダタの後に続いた者たちは、生前、悪行の限りを尽くした者たちだったかもしれない。それでも隣人として愛することが求められる。容易ではない。

惨めな自分を愛して下さり、赦してくださった覚えを持つが、昨今の事件や事故、とりわけ幼い子供が巻き込まれると、許し難い思いにとらわれ、人を非難してしまう。

姑息に生きる自分の罪を、神が赦して下さっていることを知らなければならない。

待降節を迎えています。日曜日はお近くの教会で礼拝を
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