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コリントの信徒への手紙1 1章1~3節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(3節)>

コリントス(コリント)はアテネの西南約78㌔に位置する。西のコリント湾、東のサロニコス湾に挟まれたコリントス地峡のコリント湾側に面した港湾都市である。現在コリントス地峡を横断するコリント運河が掘りぬかれている。現代のコリントスは1858年の大地震後新たに建設されたものであり、古代のコリントスは、今のコリントスの南西3㌔の内陸にあった。

パウロの時代も港湾都市として繁栄したコリントは、多くの文化を持つ人々から影響を受けた世俗的な都市だった。住民は愛の女神アフロディアを祀っていた。この女神崇拝がコリントにもたらした影響のために、教会の信徒たちが葛藤する諸問題に対して、パウロは手紙を書きおくる。

「挨拶は大切です。私たちは挨拶をかわし交わりの手を差し出します。しかし、パウロが告げている挨拶は、私たちのする挨拶とは異なります。パウロは人間的な交わりの次元を越えた関係を結ぼうとしているからです。」と、3月の家庭礼拝歴担当、高知旭教会、青木豊牧師は書き出される。

先ずパウロは自分自身を「神の御心によって召されて使徒となった」と呼び、その言葉を彼は、神に背き教会を迫害した自分を使徒に召して下さった「神の御心」を思い、この手紙を深い喜びと感謝をもって記した。

だからパウロは、様々な過ちを犯して惨憺たる有様のコリントの教会の信徒たちを「聖なる者とされた人々」と呼ぶことをためらわなかった。彼らも同じ「神の御心」によって召されていることを知っているからだ。

使徒言行録18章にパウロのコリントでの出来事が記される。「パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシャ人の説得に努めていた。…ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証した。しかし、彼らが反抗し口汚く罵った…。」

「また、多くの人々もパウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。…パウロは1年6ヵ月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。…ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って『この男は律法に違反するようなしかたで神を崇めるようにと、人々をそそのかしております』と言った。」そして最後は、群衆がパウロを支援する会堂長を捕まえ殴りつけた。

パウロがコリントの教会を去った後、教会内には、幾つかのグループが生まれ、互いに論争に明け暮れていた。この手紙は、まとまりを持った一つの書簡であるが、実際にはパウロがコリントの信徒たちにあてた複数の手紙から集められて現在の形になったと考えられている。

ホームレス同然の暮らしをしていたIさんは、クリスチャンのSさんたちが立ち上げた支援センターで援助を受け、今ではボランティアの一員となっている。70歳の誕生日にSさんから「洗礼を受けないか」と勧められ「断り切れんで…」洗礼を受けた。

彼の教会はパプテスト、支援センターはカトリック、私はプロテスタントだというと「なんで、そんな分かれてんのか。ややこしいなぁ」と言った。彼から説明を求められるが、要領よく答えることができないで一緒に「ややこしいなぁ」と笑っている。

支援センターでは、神父さんもシスターも区別なく炊き出し準備に精出している。その姿にカトリックの信仰の強さを思うが、会堂にあるマリア像には違和感を持つ。

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コリントの信徒への手紙1 1章4~9節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(3節)>

「コリント教会の大きな問題の一つは、教会がいくつにも分裂し、賜物の優劣を競い合っていたことです。にもかかわらずパウロは、彼らが『あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされて』いることを『いつもわたしの神に感謝しています』と言います。」と青木牧師は書き出される。

コリント教会の信徒にとって「誇りと争いの種」であった「賜物」が、パウロには「神がコリント教会の信徒たちに働いておられることの現れ」と見えていた。

ギリシャ最大の港町コリントは60万人の人口を持つ大都市であり、様々な国々との交易によって豊かな経済の下、文化が発展していた。教会の中には、異邦人であったがパウロの導きで主イエスを仰ぐ信仰を持った者、選民イスラエルの血を引く誇り高いユダヤ人、パウロの後から来たアポロの説教によって教会に導かれたものがいた。

わたしたちの教会も様々な者の群れである。父母の代からのクリスチャン、欧米の文化にひかれてのクリスチャン、イスラエルの歴史に興味を持つクリスチャンもいるし、挫折の中、神を求めている者もいる。それだから、同じ説教を聞いているのだけれど、あとで話してみると、全く違う受け取り方をしていて、争いとまではいかないけれど「彼は間違っている」と決めつける時がある。

お互いが争って、キリストの福音を忘れることがあってはならない。パウロは教会の主は誰かと問いかける。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか、あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。(13節)」

Iさんが不思議がるように、残念ながらキリスト教はたくさんの「派」に分かれてしまっている。これでは、この世に真実を求める力が分散したままだとは思うけれど、欧州の教会堂を観光したり、バチカンの様子をテレビで見たりすると、自分たちの教会とは違うような気がしてならない。

しかし、そのような者にパウロは「あなた方が党派を作って争うために教会が立てられたのですか。教会は何のために立てられたのかを思い起こしなさい。」と訴える。

「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。(17節)」パウロの時代も「何々先生からわたしは洗礼を受けた」と言うことを誇りにする人があったらしい。

「パウロは問題の本質を『キリストの十字架がむなしいものになって』いることに見ていました。『キリストの十字架』は私どもが罪人に過ぎないことを明らかにします。その罪人を神は愛し救って下さったことを告げます。『知恵』は誇りと蔑みを生み、『キリストの十字架』は誇りを砕き、自分と他人を共に愛し尊ぶように導きます。」と青木牧師は説かれる。

キリスト教とイスラム教はユダヤ教から分かれたものだ。分かれなければ、平和が保たれていただろうか。それはよくわからないが、分かれることも神のご計画ととらえるならば、平和への道が開くのかもしれない。

昨日の祈祷会の帰り道Hさんが、映画「沈黙」を見たと言った。すると90歳のKさんが「あれは長崎、カトリックの話だ」と言った。プロテスタントの宣教は横浜から始まったんだと。

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コリントの信徒への手紙1 1章18~25節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。(18節)>

「『十字架の言葉』は、いろいろに解釈できますが、『十字架につけられたキリストを宣べ伝え』る言葉と理解してよいでしょう。十字架で惨めに殺された者が救い主などということは、ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものに過ぎませんが、それが『神の力、神の知恵である』ことを。パウロは自ら体験して知っていました。」と、青木牧師は書き出される。

「それゆえ、見よ、わたしは再び、驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される。(イザヤ書29章)」

「議員たちも嘲笑って言った。他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。(ルカ書23章)」救い主キリストが何故十字架につけられることになったのか。そのことは、異邦人であるギリシャ人には愚かなことと映っていたし、ユダヤ人には躓きの石であった。

神は人間に新しい命をもたらす手段として、挫折にさえ見えるキリストの十字架を選ばれた。神がもっと素晴らしい手段を選ぶと期待していたものには、十字架は愚かに見えた。知恵のある者も、学者も、どのような世の知恵を用いても神を知ることができない。

キリストの十字架は、神の知恵に適っていた。そこで神は、宣教と言う愚かな手段によって信じる者を救おうと考えられた。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。・・・ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(23.24節)」

主イエスを「神の子、救い主」と信仰告白した者は、もうその時点で「召された者」とされているのだから、自分の力や知恵で宣教しなければ・・・と考えることはない。必要な言葉や行いは時に応じて神が与えて下さるということらしい。

それでもなぁ・・・と躊躇する者に「あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい」とパウロは勧める。

自分の小さい頃、台所には神社のお札が張られ、朝夕の仏壇には炊き立てご飯を供え、父母は、野の神、山の神に豊作を与えて下さいと拝んで生活をしていた。一つだけ町にあった教会は、ハイカラで自分には関係のない場所だと、遠目に見ていた。25歳の時、クリスチャンの友人に出会うまで。

友人はハイカラではなく、立派な話もせず、十字架のことも有耶無耶で、楽天的な大雑把な人だったが、不思議と安らぎを覚える人だった。今思うと、彼女の人格そのものが宣教していた。

「宣教がなぜ『愚かな手段』なのかと言えば、知恵をはじめとするこの世の力によって相手を説得することではないからです。宣教は抽象的な理論や教えを語るのではなく『十字架につけられたキリストを宣べ伝える』ことです。だからこそ神は、愚かにも、生身の人間、しかも罪に汚れ、知恵も力もない人間をお用いになられます。」と青木牧師は説かれる。

今自分は、あの時の友人の年齢をとうに過ぎている。それなのにいつまで経っても・・・。

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コリントの信徒への手紙1 2章1~5節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。(2節)>

「パウロが『恐れに取りつかれ、ひどく不安でした』と言っているのを聞くと意外な感じがします。それはきっと『パウロは恐れや不安とは無縁の強い人』というイメージを自分で勝手に作り上げていたからでしょう。実際にはパウロはしばしば困窮し弱り果てていることを率直に語っています。」と青木牧師は書き出される。

コリント教会は知恵を誇りあったために、党派争いが起き分裂しそうだった。この世の知恵は人を支配することを目的としているので、知恵と知恵がぶつかり争いが生まれるのです。知恵は人に仕えることを目的とする時、人を一致に導きます。パウロが求めたものはこの「神の知恵」なのです。とI牧師は説かれている。

「兄弟たち、わたしはそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。(1節)」と2章は書き出される。神の知恵は十字架として私たちに示されたのだから、この十字架以外語るまいと書き出す。

パウロは自分自身の事を「わたしは生まれて、8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人中のヘブライ人です。律法に関しては、ファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのないものでした。(フィリピ書3章)」と記している。

しかし、彼はそれら一切を捨てて、ただ神が示された「神の秘められた計画」を宣べ伝えると言った。福音は神の計画であり、人間が自分で理解することはできないとパウロは言う。解説書によると、「神の秘められた計画」の中心は、主イエスが十字架上で死んだ時、神が人間の罪に対して完全な犠牲を払った事である。原語では「秘密」「秘儀」「奥義」の意味を持つ。

当時、十字架は犯罪者の処刑の道具であることに変わりはなかった。ギリシャ世界においてもそうであった。だから、未信者にとって十字架が救いだということは考えられないことであった。十字架に救いがあることはコリントの教会の信徒たちには明らかであったのに、それが知恵の強調によって、軽んじられたとすれば、それは教会の本質に関わることであった。

クリスチャンホームに育っていれば十字架のことは良く知っていただろうが、洗礼を受ける決意をしても、はっきり十字架やら復活やらを理解できていなかった。いや、信じていたかどうかも心もとない。「罪の赦し、神の贖い」と教えられても、自分が罪を犯した自覚もないので、よくわかっていなかった。

それでは、いつごろから自覚したのかと問われても、ピタリと心にはまった瞬間はなく、ただいつの間にか「復活、赦し、十字架」を信じないでキリスト教はないし、自分の人生もないと思うようになった。礼拝と、祈祷会によって目の上のうろこがはがされていったと思うしかない。

弱く貧しい自分にも聖霊を注がれる神に感謝して祈っている。そのような者に、青木牧師は「自分の弱さを口にするとき、それによって自分を正当化し、弱い自分に拘っている」だけの者は、そこで止まっていないかと忠告される。

そして「パウロは神の力が働いて下さることを信じて、なし得る限りのことをしました。『十字架につけられたキリスト』を語り、コリント教会が生まれたのです」と結ばれている。

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コリントの信徒への手紙1 2章6~16節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙1]

<霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されたりしません。(15節)>

「近頃、日本がオリンピックでのメダルの数とか、ノーベル賞受賞者が何人かなど、日本の良い面が報道されることが多いように思います。報道されている内容自体は良いことに違いありませんが、日本礼賛の報道が多いことに不自然さを感じます。もはや世界第二位の経済大国とはいえず、様々な困難を抱えている我が国が無理に『強がっている』ように思えます。

それは『世の知恵』『支配者たちの知恵』に生きている姿です。すなわち、自らの繁栄と栄誉を自分の力で獲得しようと汲々とする生き方です。そのためには人を利用し、神さえも利用します。」と青木牧師は書き出される。

世の知恵に対してパウロは「しかし、わたしたちは信仰に熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。(6節)」と語る。

神の知恵は、信仰に熟した人でなければ理解するのは難しい。なぜならそれは神秘としての神の知恵すなわち奥義なのだと言う。

「神の知恵はかつて旧約時代には『隠された奥義』であり、『奥義』は、密儀教の用語であった。この宗派では奥義は、特定のもの以外の者にはいつまでも隠されたある種の真理であるとされている。しかし、パウロにとってはそうではない。キリストと共に明らかにされた神の真理、救いの真理のことである。今の時代には、すべて明らかに示された開かれた奥義である。」と解説書は説く。

「神の深い知恵とは『神が、罪びとを救うために、自らが罪人として処刑される』道を選ばれたということだ。神の知恵、すなわち十字架による救いの計画は、人間の期待や予測をはるかに超えており、人の知恵では理解できない。神の知恵は、神が信仰者に与えて下さった聖霊によってのみ理解できる。」とI牧師は説かれる。

実家近くの山は、お坊さんが修行される山である。大滝がありその下でお念仏を唱えて、何日も白い衣のまま山の頂まで登り下りされる。食べ物もいりこと大豆だけなのだと母が言っていた。そういう修行をしてこそ立派なお坊さんになり悟りも開かれて、欲得がなくなるのだと。

しかし、パウロが説く神の奥義はそういう形で知ることではないらしい。イスラエルの民でもなく、律法を守ることもなく、割礼も受けない異邦人にさえ知らされる。

「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束に与る者となるということです。(エフェソ書3章)」

生まれながらの人間は自分の欲によって動かされる。欲と断絶し、世を見捨て、神の霊を受けるためには、主イエスにならって自ら十字架を背負う。自分の無力や限界を知った時、人は神の救けを求めざるを得ない。その時、十字架の底の底まで降りられたキリストの愛が分かり、人は肉の存在から霊の存在に変えられる。それが「霊の人」「信仰に熟した人」であると解説書は説いている。

世の流れに流され、自分を客観的に見る力もなく、そういう者がいつになったら「奥義」を知ることができるのか、道まだ遠しという所である。

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