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ヨナ書 1章1~3節 [旧約聖書 ヨナ書]

<「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」(2節)>

「ヨナ書は、12小預言書の中の一つですが、他の預言書とは違って、預言者ヨナの伝記でも、その活動や言葉を記したものではありません。預言者ヨナを主人公にした物語なのです。時代背景は、強大な世界帝国を形成したアッシリアが隆盛を誇った時代で、その首都がニネベです。」と三輪牧師は書き出される。

書かれたのは捕囚後の紀元前4.5世紀と言われている。捕囚期間後のユダヤは民族主義に固まっていたが、その中で偏狭な民族主義を風刺し、異邦人にも神の愛が届くことを説く。ヨナは紀元前8世紀に生きた北イスラエルの実在の預言者であり、彼の名を借りた作品ではないかとされている。

陥落(前722年)した北イスラエルの民はアッシリアの捕囚となって連行され、アッシリアのいくつかの町に住まわせられ、アッシリアの民が北イスラエルに移住してきた。その結果、北イスラエルの町は異邦人の住む町になっていた。その後、南王国ユダも滅亡(598年)し、捕囚となってバビロニアの首都バビロンに連行される。

アッシリアは、メソポタミア(現在のイラク)北部を占める地域に紀元前2500~605年まで隆盛を極めた王国で、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ…」と主がヨナに命じられた「大いなる都ニネベ」はアッシリアの首都であった。

異邦人の住む町の人々に宣教するなんて、どうして敵国の救いのために働かなくてはいけないのだ、とてもじゃないが自分はやりたくないことだ。ヨナは主の前から、主の声の届かないところへと逃げることを考えた。

「しかし、ヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れて主から逃れようと、タルシシュに向かった。(3節)」

ヨナが乗る船はスペインに向かった。アッシリアは北イスラエルを滅ぼし、南のユダも長くその植民地として支配されていた。他の預言者もアッシリアを嫌い、その滅亡を預言している。敵の救いのために…、逃げ出す自分だけが悪いのではない。ヨナの正直な思いであった。

しかし、主なる神にとってはエルサレムが大事なように、ニネベも大事であった。

「当時、世界の果てと考えられていたタルシシュ行きの船に乗り込み、ニネベとは逆方向に逃げ出したのです。しかし、自分は神から逃げ出したつもりでも、それで逃げ出せるわけではありません。わたしたちは『神の中に生き、動き、存在する』者だからです。」と三輪牧師は結ばれている。

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ヨナ書 1章1~3節 [旧約聖書 ヨナ書]

<ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」(9節)>

「神の前からできるだけ遠くへ逃げたいと、タルシシュ行きの船に乗り込んだヨナは、船に乗っただけではまだ安心できず、船の中でも甲板から一番遠い船底に身を潜めました。これで、安心とばかり、身を横たえた途端、緊張の糸が解け、ぐっすりとねこんでしまいました。」と三輪牧師は書き出される。

けれども、「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。(4.5節)」

嵐には慣れている船乗りたちでさえ恐怖に陥るほどの大嵐だった。船長はこの大嵐に船が沈没しそうだというのに、船底で寝込んでいるヨナをたたき起こして「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいてくれるかもしれない。」と言った。

人々は嵐を神の怒りと考え「くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。(7節)」と言った。くじはヨナに当たった。人々は彼に詰め寄って「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族出身なのか(8節)」と言った。

問い詰められるヨナにははっきりと心当たりがあった。ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。(9節)」そして、主なる神の命令を拒み、神のいない、主から離れた遠い地へ逃げてきたと人々に白状した。

人々は「なんということをしたのだ。」というと「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか」とヨナに言った。そうする間も、海は荒れ狂い、船は沈没寸前となった。

ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海に放り込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞った事は、私が知っている。(12節)」と言った。

乗組員たちは船を陸に戻そうとしたが、出来なかった。ついに彼らは主に向かって「主よ、…無実の者を殺したと言って責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから(14節)」と叫んだ。

彼らがヨナを海に放り込むと荒れ狂っていた海は静まった。人々は大いに主を畏れ、いけにえを捧げ、誓いを立てた。異邦人であった彼らが主をおそれ、主に祈った。

「アッシリアに神が憐みをかけ、ヨナを宣教のために遣わそうとされたことに彼は憤慨し、タルシシュに逃げたヨナ。半ば怒り、半ば不貞腐れていた彼が、大嵐のなか人々が夫々の信じる神の名を呼んで助けを求める様子に、彼の信仰が覚醒された。その証として自分を海に投げ入れることを命じます。命をかけた彼の宣教の始まりです。」と三輪牧師は説かれる。

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ヨナ書 2章4~7節 [旧約聖書 ヨナ書]

<「地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げて下さった。」(7節)>

「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りを捧げて言った。(1.2節)」

「巨大な魚に呑み込まれる物語はギリシャ神話にもあり、記者はこのような伝承を用いて、神の救済を物語っている。2章では『不従順なヨナ』が、海に投げ込まれて初めて『祈り求めるヨナ』になる。」と解説書は説く。

今にも船が沈みそうになる状況は自分自身の背信のせいだと知ったヨナは、自分の手足を縛って海に投げ込むしか、神の怒りを、この大嵐を静める方法はないと船員たちに言い、そのようにするようにと願った。

その時のヨナの恐怖を思う。彼にはそれ以外の方法が考えつかなかった。「潮の流れが私を巻き込み、波また波が私の上を越えて行く。私は思った。あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。大水が私を襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。私は山々の基まで、地の底まで沈み、地は私の上に永久に扉を閉ざす。(4~7節)」。

「ヨナが大魚の腹の中で三日三晩過ごしたことは、最終的にそこから生きて地上に戻れたからそう言えるので、戻れるまでは、もうこれで再び地上に戻ることはあるまいと観念したことが、彼の祈り『永久に扉を閉ざす』という言葉から推測されます。それはさながら、死者が墓に身を横たえたさまを彷彿とさせます。」と三輪牧師は説かれる。

ヨナの上に起こった出来事は、地上での生を終えたものが、地上に生きて戻ることができた復活になぞらえられる。マタイ書12章で、主イエスにファリサイ派の人々が「先生、しるしを見せて下さい」と言った時、

「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる(40節)。」とご自身の死と復活を暗示された。

「一般に道化のように思われがちなヨナは、実は、イエス・キリストの死と復活を予示する重要な預言者だったのです。」と三輪牧師は結ばれる。

神に盾突き、従うことを嫌い、逃げ出すヨナは自分自身の姿である。トルストイの「靴屋のマルチン」を読んで感動し、自分も見習いたいと思い、たまたま通りがかったホームレスの人に声をかけようとしたができなかったと、友人が自分の情けなさ悔いていた。

情けない、愚かしい、そんな者を用いて神は宣教しようとされる。

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ヨナ書 2章8~11節 [旧約聖書 ヨナ書]

<主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。(7節)>

「ヨナはタルシシュへ逃げました。パウロは伝道生活の締めくくりに自ら進んでタルシシュのあるイスパニアを目指しました。目的は違いますが、いずれも目指したのは同じ所でした。これだけでなく、両者にはいくつか不思議な共通点があるのです。」と三輪牧師は書き出される。

神はヨナが心から悔い、神の怒りが他の人に及ぶことがないように自分の命を献げたことに応えられ、地の底に沈むしかなった彼に巨大な魚を用意された。

「地の底まで」に達したとき、ヨナは初めてそこにおられる神の臨在を認識した。死の淵から救済を求めるヨナの叫び「息絶えようとするとき、私は主の御名を唱えた。私の祈りがあなたに届き…(8節)」は、神の憐みによって聞かれ、ヨナは救われた。

ヨナが体験したことは、海の中に投げ込まれて古い自分に死に、浜に吐き出されて新しい命に生きる出来事であった。不従順なヨナが変えられるためには、いったん死ぬ必要があった。これはヨナが受けた洗礼であった。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死に与るために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ書6章)」

ヨナは主の命令を拒むような預言者で、神に救われるに値するものではなかった。けれども、この経験を通して、そのような者をも神は顧みて下さることを知った。神が、罪にまみれた異邦人ニネベの人々に対しても同じ憐みを示されるということをヨナが知ったことになる。

「わたしは感謝の声を上げ、いけにえをささげて、誓った事を果たそう。救いは、主にこそある。主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。(11節)」

と、2章はここで終わるが、三輪牧師が説かれるヨナとパウロとの共通点について学んでゆく。ヨナは異邦人の地に行くことを神から命じられ、パウロは異邦人伝道のために召された使徒であった。ヨナは大嵐に海に放り投げられたが、魚に一命を救われた。パウロも、ローマへ護送される途中、船が難破するがマルタ島の人々によって救われた。

神を拒む点では、パウロは教会への迫害者であった。彼は復活のキリストに出会い回心するが、三日間失明の闇に閉ざされた。光を取り戻した時、彼は新しい人に生まれ変わっていた。大魚から吐き出されたヨナもそうであった。

聖書の話は動くことのない筋が通っていることを知る。

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ヨナ書 3章1~10節 [旧約聖書 ヨナ書]

<ヨナは先ず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと40日すれば、ニネベの町は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高いものも低いものも粗布をまとった。(4.5節)>

「陸に戻ったヨナに、再び主の言葉が臨みました。生まれ変わったヨナは、今度は従順に従い、『あと40日も…』と告げ、ニネベに行き悔い改めを促しました。たった一日の宣教で、何と住民は『神を信じ…』と言いますから驚きです。」と三輪牧師は書き出される。

当時のニネベの町はアッシリア帝国の首都であり、世界有数の都市だった。町を一回りするためには三日かかった。ヨナはまず、最初の一日分の距離を歩きながら叫んで回った。

まだ一日目なのに、彼の叫びに住民たちは、神を信じ断食を呼びかけ身分の高いものも身に纏っていた着物を脱ぎ、粗布を身に着けた。それを伝え聞いたニネベの王までも「王座から立ち上がって、王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。(6.7節)」

「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば、神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びから免れるかもしれない。(7.8.9節)」

通常このような悔い改めの布告は、都に疫病が発生したり、大災害の遭遇や、外国の軍隊が迫ってくるなどの危機に際して発行されるものであった。解説書は「普通では考えられないことだが、ヨナ書の関心は、ヨナのあり方に焦点が絞られている」と説く。

神はニネベの人たちが悪の道から離れたことをご覧になると、思い直され彼らに災いを下すのを止められた。ヨナの宣教は、人々を変え、彼らを救いに導いた。

ヨナにとってニネベの町とは暴虐の町、神の国を苦しめる悪の帝国、人間の高ぶりの象徴、神に逆らう者であった。このような悪を滅ぼすことこそ、神の正義ではないかとヨナは思っていた。「都は滅びる」とふれ回る彼の叫びに、ニネベは応えた。宣教は成功したと喜ぶべきだったが、ヨナには納得がいかなかった。

解説書は「ここには放蕩息子の弟の帰還を喜べない兄の姿がある。」とルカ書15章を上げる。「僕が言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです』兄は怒って家に入ろうとせず、父親が来てなだめた・・・

兄は父親に言った『この通り、私は何年もお父さんに仕えています。…それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』・・・」

放蕩息子の個所を最初に読んだ者の大体は兄に共感する。

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