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テモテへの第一の手紙 1章1~7節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<わたしたちの救い主なる神と、わたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして、平和があるように。(1.2節)>

「使徒パウロは第二伝道旅行の時、ルステラの教会でテモテに出会いました。祖母から母へと受け継がれた信仰を受け継ぎ、教会で評判の良い若者でした。このテモテをパウロは伝道旅行の同伴者として仲間に加えることにしました。」と8月家庭礼拝担当、熊野伝道所・宇久井伝道所を兼牧される名嘉早苗牧師は書き出される。

この手紙は、パウロが書いたものではなく、むしろ、この手紙にある教会の組織構造や教えから、パウロの死後、一世代もしくは二世代を経てから書かれたと思われる。弟子が師の名で書き、師を称えるのは、古代世界では普通の事であった。と解説書にあった。

「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は私の愛する子で、主において忠実な者であり、至る所のすべての教会で私が教えている通りに、キリスト・イエスに結ばれた私の生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。(コリント書Ⅰ4章)」

ユダヤ人キリスト者の母と、異邦人の父を持つテモテは、まだ20代であったがその信仰は堅く、パウロの同労者として最後までパウロの宣べ伝えた福音に忠実であった。彼はパウロの殉教の時まで、パウロに寄り添い、慰めをもたらす同労者であった。

「このようなテモテに、パウロは重要な任務を与えます。それはエフェソ地域の教会を指導し、様々な誤った教えから教会を守ること、教会の奉仕の務めを確立し、教会の秩序を整え、教会を堅固にすることです。」と、名嘉牧師は説かれる。

初代教会は1世紀を過ぎるころから変化してきた。教会の指導者たちはローマ帝国によって投獄されるか、あるいは処罰される危険が出て来た。教会内には、十字架上での主イエスの死と復活の福音という初めの教えにそぐわない教えが持ち込まれてきた。神を信じていると主張する人々の中にはすでに悪魔に陥れられている者もいた。

人権や自由などの考え方がなく、権力者の独裁によって全て治められていた時代、どんなに名君と呼ばれる善意の権力者であっても、彼の意に背くものは弾圧され、追放され、死の裁きを受ける。それでもなお「福音」を宣べ伝えていった人々の信仰に感嘆する。

先日のC牧師の講演で「福音を恥としていませんか」と問いかけられ、周りの者から十字架の死と復活を「荒唐無稽、一神教の怖さだ」と一笑されて、いい加減に誤魔化してしまう自分に気づかされた。

自由や人権が憲法において保証されている今の時代でもそうである。自分の死と引き換えにしてでも福音を宣べ伝える力ある信仰が、自分に与えられる日が来るのだろうか。

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テモテへの第一の手紙 1章8~11節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<今、述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音を委ねられています。(11節)>

「エフェソの教会には、律法の教師を名乗って活動している人々がいました。彼らは、清い心と正しい良心と偽りのない信仰から出てくる愛を中心とした、信徒の交わりこそが福音にふさわしいものであることを、理解していませんでした。」と名嘉牧師は書き出される。

解説書は「律法は、神の意志にかなって用いられるなら、本当に良いものである。しかし、それが正しくない用い方をすると、それは人を縛りかつ神の御心に適うことはできない。「良いもの」と訳されたギリシャ語は「目的に適って美しい」という意味を持つ。モーセの十戒は、旧約時代の「幸福論」とも言われている。」と説いている。

エフェソの町の偽教師たちは、律法の教師としての名声を望み、その目的を理解しようとはしなかった。律法そのものは、人を救うことも、生まれ変わらせることもできないのに、彼らは人々に、律法を守ることによって、人は救われ変えられると教えていた。

それは間違いで、律法は何が正しく、何が間違っているのかを判断し、それによって人が救われ、矯正される方向を示すものとして用いられる時に、良いものとなる。律法は正しい者たちのために与えられているのではなく、むしろ正しくない者たちのためにある。

律法学者が主イエスに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねた。主イエスはお答えになった。「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』…(マルコ書12章)」

律法を守るのは、義務感や、罰を恐れるからではない。キリストの愛である福音は、聖く、義であり、正しく裁かれる神がどのようにして恵みの神、憐れみの神、愛の神であるかを示している。自分の力では出来ないことが、主の十字架の犠牲を覚え続けることによってはじめて可能になる。

偽教師たちは、律法を教えながらその生活では、それを否定するような生活をしていると、彼らの罪のリストが上げられる。このリストはモーセの十戒に照らして展開される。十戒の前半は神との関係に関することであり、後半は人との関係に関することである。その順序に沿って、神との関係における罪、人との関係における罪が指摘される。

私たちの教会では今年十戒を学んでいる。そこで、戦時中、すべての教会教派が一つにさせられ、組織された日本キリスト教団が、礼拝の初めに宮城遥拝を行った事、韓国の人たちに神社参拝を強要したことを改めて知る。日本キリスト教会の犯した罪であると同時に、各個教会の、さらに言えば教会員一人一人が犯した罪である。

キリスト教徒として、罪を犯すと、それは神の律法を破ることだけではなく、愛の神の心を破り、悲しませることであることを常に心に止めなければならない。

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テモテへの第一の手紙 1章12~17節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(16節)>

パウロは、「わたしは、その罪人の最たるものです。(15節)」と現在形で、テモテに伝えることに躊躇しなかった。エフェソ教会の現状を伝え、その牧会に向かうテモテのことを思い、気落ちすることなく勇気をもっていくようにと励ました。

パウロはかつて、神の教会を迫害し、次々とキリスト者を投獄した。神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者であった。そのパウロが、神の憐れみと力によってその罪が赦されただけでなく、キリストを宣べ伝える者として変えられた。その神の力は、テモテに対しても同じように与えられるのだと、テモテを励ました。

パウロは自分自身のことを「わたしは、その罪人の最たるものです。(15節)」という度に、自分の救われる前の姿を思い出し、自分の罪の深さを思った。そして、自分の醜さに対してのキリストの憐み深さへの感謝。自分の救いと召命の体験を語ることは、神の栄光であった。

今日の個所は、感謝に始まり、「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン(17節)」自分は罪びとの頭であるという度に、パウロはこの感謝と頌栄に導かれていく。

解説書はパウロがいう「罪びとの頭」について、「たとえどんな邪悪なものであったとしても、誰にも絶望する必要がないのです。パウロがこの言葉を言う時に、どんなものに対しても、諦めや絶望は不要なのだと私たちを勇気づけます。自分の失敗を語ることは、他の人が希望を持つことを可能にすることを彼は知っていました。」と説いている。

また、この言葉についてK牧師は、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、却って自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ書2章)」を説かれている。

「罪人の頭と自分を覚えるなら、その罪を赦すためには、栄光の神キリストが滅びる者のために、見える形を取り、限りなく身を低くされたことを覚えさせます。」と。

自分の弱さや貧しさ、特に醜さは自分自身良く知っているつもりなので、何かの折に周囲の者から指摘されると「あなただって…」と反論してしまう。けれども、そういう弱点を神は憐れんで下さり、人をその使命に相応しい者へと変えて下さるらしい。

讃美歌の「amazing・grace」は奴隷船の船長であった人が作った曲だと聞いている。

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テモテへの第一の手紙 1章18~20節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とをもって。(18.19節)>

解説書は「誰でも神に従って生きるなら、必ず悪魔と、この世に対して霊的な戦いがあります。むしろ、信仰の戦いがないなら、それは世に属する歩みをしていないかと、自分自身を疑わなければならないことです。信仰の戦いをしていないなら、悪魔の方が、あなたを無視するくらいに、信仰の歩みをしていないことになります。」と書き出している。

「・・・信じる人々の模範となりなさい。わたしが行く時まで、聖書の朗読と勤めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。長老たちがあなたに手を置いた時、預言によって与えられたのです。(テモテ4章13.14節)」

旧約の時代から、主なる神は預言者を通して、神の民がどのようにこの世において歩めばいいのかを語り掛けられていた。その御言葉を受け預言者たちは、人はどのようにして、神の望むように生きるべきかを教え導いてきた。

テモテへの異邦人地域のエフェソの教会の責任者としての派遣は、預言者たちの御言葉の導きがともなっていた。それは、彼にとって神に対してその勤めを忠実に果たしていくうえでの大きな力であり喜びであった。

しかし、神の民が神の望むように生きることを妨げてきたのが、悪魔であった。その例としてヒメナイとアレクサンドロがいたとパウロは名を上げる。彼らは、正しい信仰と正しい良心を捨て、その信仰が挫折してしまった。

ヒメナイについては「彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。(テモテⅡ2章18節)」アレクサンドロについては「銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主はその仕業に応じて彼にお報いになります。(テモテⅡ4章14節)」と記している。

2人はかつては「正しい信仰と正しい良心を」持っていたが、悪魔によってその信仰が挫折してしまった。「挫折」の原語は、船が難破し港に着くことができない状況の意味がある。

パウロは、テモテには福音宣教において預言を受けた事実と、またパウロ同様、神によって召されていることの召命感を持ち続けるようにと励ました。更には偽預言者たちと戦い、健全な教えを保つことを勧めた。

信仰の良き戦いをするためには、神の御心に従う信仰がなければ対抗できない。K牧師が「信仰と正しい良心を養い続けるためには、どうしても定期的に神の御前に静まる時が必要です。牧師には特にそれは重要です」と話されたことがある。

マザー・テレサは「神は成功させるために、わたしを召されたのではなく、従わせるために召されたのです。」と言われている。

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テモテへの第一の手紙 3章1~7節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。(1節)>

「教会の役職についての指示が行われています。まず、監督の職についてであります。教会の指導者である監督の職は、神の教会をあずかる大変良い仕事であります。その良い仕事が、人々の非難を受けることのないよう、その職を望む人は十分注意して選ばれるべきとされます。」と名嘉牧師は書き出される。

「監督」と訳されている「エピスコポス」という言葉は、ローマ・カトリック教会では、司教と訳している。プロテスタント教会では、牧師・長老・役員と訳し、その地に置かれている教会の指導者、宣教長老としての牧師と教会を牧師と共に治める治会長老をさす。

「監督の職を望む者」は、支配するというより、いわば神と人とに仕える生き方を望む者であり、それはもちろん良い仕事であり、神の民として望まれる生き方である。けれども、仕えることには必ず自己犠牲が伴うのである。

解説書は「人は身分として指導者を求めるが、神と人とに仕えること、いわば愛と自己犠牲を進んで求める人は少ないかもしれない。身分だけを求めることは広い門であり、仕えることを求めるのは狭い門である。」と説く。

私たちの教会では、定期総会において長老、執事が選挙によって選ばれる。長老は現住会員の2/3、執事は1/2の推薦数が満たされなければならない。

選ばれた者には、指導者としての資質が求められる。一つは家庭をよく治めている人、二つ目は、信仰に入って間もない人でないこと、三つ目は教会以外の人々から良い評判を得ている人だとパウロは列挙する。

「自分の家庭をよく治め、常に品位を保って、子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。(4.5節)」

今の世に、このように要求されて、簡単に長老が選出できるのだろうか。私たちの教会でも、夫妻揃って礼拝される人は少ないし、自分も含めて子供への信仰継承ができている人は少数だし、離婚経験者も少なくない。社会的に評価されている人はかえってそちらが忙しく、教会奉仕にまで手が回らないのでと、長老職を辞退される。

だから、私たちの教会で選ばれた人々が必ずしも優秀で、教会員に尊敬されているといえないかもしれない。けれどその姿は、12人の弟子の姿だと思っている。

解説書は「弟子たちはその宣教に関しては絶え間なく攻撃されていたが、彼らの品性に関しては攻撃されなかった。それは彼らの生活が非の打ちどころのないものだったからではないか」と説いている。

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