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テモテへの第一の手紙 3章8~13節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。(9節)>

「執事職も厳しい審査が指示されています。執事の務めは、教会からの委託のもとに貧しい人々の援助や、病人の世話などの奉仕をする務めであります。神の恵みによる救いをしっかり心に抱き、信仰から出る真実の愛においてその務めが果たされなければなりません。」と渡部牧師は書き出される。

執事の起源は、使徒言行録6章に記される。使徒たちはヘブライ語を使う人々とギリシャ語を使う人々の間で、日々の食事の配給に苦情が出た時に、このことに専任して奉仕する人が必要となった。使徒たちに求められる務めは、主として祈りと御言葉の奉仕であった。

しかし、人々の肉体の必要に仕える働きも大切だと考え、これに使徒たちがあたると祈りと御言葉の務めが疎かになってしまうとして、両方を疎かにしないため、物質面の必要に専心する執事が7人選ばれた。その際に、信仰と聖霊に満たされ、その生活においても信頼されている人たちが選ばれた。

「この人々もまず審査を受けるべきです。その上で非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。(10節)」と、おもに7つの点が上げられる。

「品位のある人」人との関係において自制心があり、怒らず、思いやりをもって冷静に人との会話ができる人。「二枚舌を使わない人」相手によっていう内容を変えて都合よくふるまう人であってはならない。会員同士の調和に仕える時、二枚舌はどちらからも信頼が得られない。

「大酒を飲まない人」「恥ずべき利益をむさぼらない人」は、いうまでもない。「きよい良心の中に秘められた真理を持っている人」執事は一般のボランティア活動ではない。キリストの恵みによる信仰に応えて、キリストの愛によって奉仕する人である。

「人を中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人」婦人たちにも同じように言われているが、この婦人は執事のことか、執事の妻のことなのかはわからない。噂話を流さないようにと言うことなのか、それなら、男性についてもいえることだと思うけれど…。

「一人の妻の夫で、自分の家族をよく治める人」夫婦関係や親子関係が良好であること。自分の家庭をよく治めない者には、教会の霊の家族を治めることができないとされた。

私たちの教会で長老・執事選挙の時、この7つの条件を吟味しない。選挙で選ばれても、家の事情や、自分の体力・知力、仕事等々の理由で辞退する人がいるのだから。

K牧師は「これらの条件をすべて備えている人はいるでしょうか。完全な人は誰もいません。しかし、それでもなお奉仕者の資格が記されているのは、そこに向かうことが主にあって求められているからです。ですから、奉仕者は祈って、たえず上からの恵みと知恵を求める人なのです。」と話された。

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テモテへの第一の手紙 3章14~16節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。(15節)>

「神の家、生ける神の教会における生活を示すにあたって、教会の本質が示されています。教会は、真理の柱、真理の基礎です。教会において、神は、キリスト・イエスにおける唯一の救いを現わし、唯一の真理を世に据えておられるのです。」と渡部牧師は書き出される。

パウロがこの手紙を記したのは、神の家である教会において、テモテと信者がどのように行動すべきかを知らせるためであった。彼はすぐにでも彼らのいるエフェソに行きたいと思っていたが叶わないので、どうしても伝えたいことを祈りつつ記してゆく。

パウロにとってテモテは愛弟子であると共に、同労者であった。また、エフェソの信徒たちが異教や異端から守られ、健全に成熟することを願った。そして、エフェソの教会が、この地方の宣教の中心になることを願わずにはおれなかった。

「神の家でどのように生活すべきか…(15節)」教会は神の家族であり、神を父と仰ぐキリスト者全体の家族である。だから、教会に初めて来た人は戸惑うかもしれないが、信者たちは互いに、主にある霊的な兄弟姉妹としての交わりを持つ。

教会は建物ではなく、神によって招かれ、キリストを信じている全ての人の集まりである。「生ける神の教会」とは、動かない偶像の神々との対比として記されていることと、主イエスを頭とする教会はたえず、救いを与え、命を与える生きた神ご自身であることを示す。

遺跡として有名なエフェソには、異教のアルミテミス神殿がある。自らを神とするローマ皇帝の権力と豊富な財力を示し、石でできた柱や土台、神殿や競技場などの遺跡は、その流れの中で生きなければならなかったキリスト者たちの困難を想像する。

しかし、そのような歪んだ繁栄のなかにこそ「信心の秘められた真理は確かに偉大です。(16節)」とキリストこそ、信心深く敬虔に生きるための秘訣であるとパウロはテモテを励ます。

解説書は「私たちは自分の力では、そのように生きることは困難です。キリストに頼らなければ、主なる神を喜ばせる歩みはできません。主イエスの復活によって救われていても、一人一人は罪あるものであり、教会は罪びとの集まりとも言えます。

マルチン・ルターは、『赦された罪びと』と表現しています。教会の真理は、キリストの真理であり、教会の聖さはキリストの聖さなのです。このお方により頼み続けてこそ、真理の証人とされます。」と説いている。

教会は異端や異教、信仰的脱線から戦い続けなければならない。そのためにも、一人一人が自分の内に持つ「ご利益信仰」から抜け出さなければならない。

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テモテへの第一の手紙 4章1~5節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。(15節)>

「真理の霊である聖霊により、偽りの霊や悪しき霊に導かれて活動する人々が現れるようになることが、あらかじめ警告されます。それらの教師たちは、福音を信じる信仰から離れ、偽りの教えを語り、それに従うことを強要します。」と渡部牧師は書き出される。

1節の「終わりの時」と訳されている原文のギリシャ語は「後の時代」とも訳される。聖書によく出てくる言葉で、自分にとってはなかなか理解に難しい言葉である。主イエスが復活された後の時代は、「終わりの時の始まりです」とも説教では説かれていたりする。

主イエスが言われた「終わりの時」の御言葉に便乗して、人々を惑わす者がいた。不法や悪がはびこり、偽預言者や偽りの教えによって、人々は真の信仰から脱落していった。

その一つとしてこの時代、グノーシス主義という教えがあった。精神は「善」であるが、物質や肉体は「悪」と考えるもので、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりした。加えてユダヤ主義の教えも合わさって、禁欲を守ってこそ、救われるとし、律法主義も偽りの教えとなっていた。

偽りを語る者たちの良心には「焼き印が押されており(2節)」とは、奴隷や家畜が主人の所有物である印として焼き印が押された。そのように主人サタンの焼き印を心に押されてしまっている者たちだとパウロはいった。

結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを彼らは命じたが、創造主なる神は、人を男と女に造られ、アダムとエバを出会わせて、結婚の制度を制定された、そして「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われている。また、万物が造られた時「極めてよかった」と言われた。神が造られたものはすべて良いものであった。

グノーシス主義の禁欲が叫ばれると、それに逆の流れが生まれる。彼らは、肉体は所詮悪だから、悪く用いても仕様がないと主張し、情欲となって不品行を重ね、暴飲暴食を繰り返した。

K牧師は「創造主なる神から委ねられたものを正しく用いるには、信仰と全き知識と、積極的に表現された感謝の心を持つこと。信仰とは真のキリストを神の御子、救い主として信じて、聖霊の恵みを願うことです。聖霊を頂かなければ、出来ないのです。」と説かれた。

また、求めなければならない「知識」とは、聖書に基づいた正しい御言葉の理解であり、正しい神観と正しい生活の指針であり、神への感謝であると説かれた。

親しい友人が遠くの地で舌癌になり、見舞いにも行けず、彼女の治癒を祈って、退院できる日まで好きなコーヒーを断った。退院が決まった時はほんとに嬉しくて、コーヒー断ちが役立ったのかもしれないと思った。

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テモテへの第一の手紙 6章3~10節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<なぜならば、わたしたちは、何も持たずにこの世に生まれ、世を去るときは何も持ってゆくことができないからです。(7節)>

「ここでは、キリスト・イエスの健全な言葉を離れ、信仰の教えを守らない人々への批判がなされています。彼らは論争や思弁を好み、それに執着し、お互いに妬み合い、争いを繰り返しています。」と渡部牧師は書き出される。

テレビで大統領のビルや別荘、ゴルフ場が放映されているが、それ等を維持し、破壊を恐れる彼の心に安らぎがあるのだろうか。大統領になったために更に厳重さが求められる警備員、鉄格子、サーチライト、監視カメラ、防犯設備等々、彼が平安であるとは思えない。

「キリスト・イエスの健全な言葉からくる信仰の教えを守るなら、信仰によるまことの利益が限りなく与えられてきます。それをこそ、キリスト者は、キリスト・イエスにおいて、追い求めるべきであります。」と渡部牧師は続けられる。

「知恵を得ることは金に優り、分別を得ることは銀よりも望ましい。正しい人の道は悪を避けて通っている。魂を守る者はその道を守る。痛手に先立つのは驕り、躓きに先立つのは驕り。(箴言16章)」

偽りの教えをする教師たちの特徴は高慢であった。彼の高慢は自分自身も周囲のことも見えなくさせた。そのため、本当に大切なこと、人生で価値あるもの、目指すべきものが見えなくなる。そして、知的な病気に陥り、議論のための議論、口論に病みつきになった。

私たちの教会では1月の総会で、戦時下礼拝の前に国民儀礼実施した過ちをはっきりと悔い改めそれを表明した。その折、戦時下国民儀礼を正当化した神学者の論文が紹介された。

「我々の問題の核心はここにある。…日本で特に問われる問題とは、結局、国体と基督教、日本精神と基督教であろう。…我々は皆国体の精神について、少なくとも二つの権威ある解明を与えられている。ある学者はこうした我が国の国体を『皇室を中心とする家族国家』と呼んでいる。かくの如きは真に世界無比、我国独自の国体と言わねばならない。

今日体制下の下、合同教会が新しく発足されている時、我々は今一度新しくわが国体の尊厳に徹することが大切であると思う。この国に伝道せんとする時、このことなくしては到底真実に徹底した伝道をなし得ない。…天父の前にその使命の真実を告白するとともに、…上御一人への忠誠を誓わねばならず、いわば早朝宮城の前に出て心から天父に祈り大君への尽忠を念う心構えが求められる。」このようにして、桑田秀延氏は宮城遥拝に象徴される天皇礼拝と基督教信仰を併存させた。

宮城遥拝、国民儀礼などの天皇に対する崇敬、神社参拝は、キリスト教信仰と矛盾しないと主張した。彼の主張は今に至るも取り消されることがない。その後、1953年京都大学より文学博士、1967年フェリス女学院長。カール・バルトの著作を翻訳するなど日本のバルト主義者として知られる。

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テモテへの第一の手紙 6章11~16節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<神は、定められた時にキリストを現わして下さいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の王、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。(15.16節)>

「テモテは、堕落と滅亡の道を歩んでいる教師たちの在り方から逃れ、彼らの道に関わらないようにして、命に至る道を行くように勧められています。その道は、義の道、敬虔な信仰に歩む道、愛と忍耐、柔和を追い求める道として示されます。」と渡部牧師は書き出される。

「神の人よ」と11節には書き出されているが、旧約時代、神との特別な関係にあり、特別な使命を与えられている人は「神の僕」あるいは「神の人」と呼ばれた。モーセやダニエル、ヨブがそうであった。新約聖書では、テモテ書だけに登場する言葉である。

パウロから「神の人」と呼ばれることは、牧会に苦しむ若いテモテにとって大きな励ましであった。神によって選ばれ、神によってたてられ、神のために生かされている。主にある権威と確信の意識づけになった。

信仰の戦いを立派に戦い抜くには、消極的側面と、積極的側面の両方が勧められる。まず、「あなたは、これらのことを避けなさい。(11節)」と危険な金銭欲、名誉欲、異性からの誘惑などから遠ざかり避けることが求められる。

エジプトに売られたヨセフは、ポティファルの家ですべての管理を任された。ところが主人の妻が、主人の留守にヨセフに性的誘惑を仕掛けて来た。ヨセフはそれを避けて逃げた。けれども、怪力サムソンは、デリラの誘惑に乗って、力の源である髪の毛を切られてしまった。彼は力を失くし、敵につかまってしまった。

次に神の人が信仰の戦いを立派に戦い抜くためには、まず徳である正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めることが求められる。「追い求める」というギリシャ語は「熱心に追い求めよ」「目標を目指して駆けよ」「急ぎ走れ」という意味を持つ。

「私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。(エフェソ書6章)」

「自らの信仰告白の戦いを終わりまでよく戦い、命を得なければなりません。それを力強く支えるのは、ピラトのもとで、十字架上にご自身を献げ、与えられた証の務めを全うされたイエス・キリストであります。」と渡部牧師は説かれている。

戦時中の話ではなく、今日一日立派に戦い抜いたかとパウロからも渡部牧師からも問われる。天に召される日も近いというのに、本当の命を自分はまだ得ていない。

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