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テモテへの第二の手紙 1章15~18節 [新約聖書 テモテへの第二の手紙 ]

<どうか、主がオネシフォロの家族を憐れんで下さいますように。彼は、わたしをしばしば励まし、わたしが囚人の身であることを恥とも思わず、ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれたのです。(16.17節)>

「この手紙では、パウロは囚人として、しかも間もなく死に追いやられてしまう人として記されている。テモテはパウロにとって、自分の子のようであり、宣教旅行を共にした同労者であった。この手紙も先の書と同様、パウロの死後、弟子の一人がパウロの名で書いたと思われる。」と解説書は記している。

パウロは繰り返し、テモテが務めにたてられた時の神の恵みの賜物を思い起こすよう促し続けた。そして、その恵みの賜物を大きく燃え立たせなさいと励ました。テモテに注がれた神の霊の賜物は、どのような状況でもその務めを果たす勇気と力を与えると説いた。

「様々な同労者たちが、パウロと共に福音宣教に仕えていました。しかし、その誰もが、常にパウロと苦しみを共にし、忠実で、誠実な同労者となったわけではなかったのであります。中には、パウロを見捨ててゆく同労者もいました。」と渡部牧師は書き出される。

戦時下の教会の歩みを学ぶ中で、どの教会においても牧師たちが苦しまれたことを感じる。ご自分は「国民儀礼なんて、間違っている」と思われても、その結果、教会に、教会員たちにどのような弾圧が加えられるのかと考えて、渋々、心にない「宮城遥拝」を礼拝の前に持つことを大部分の牧師が決意された。

パウロの過激なまでの、世におもねることのない、ややストイックな福音宣教に「ついて行けない」と、彼から離れて言った人々がいたことは想像できる。しかし、それこそ自分の求めていたものだと、パウロから洗礼をうけた人も多かっただろう。

TVドラマ「直虎」を熱心に見ているF長老は、国の発展なんて考えず、「お家大事」というあの時代の考え方が、戦時下の教会にも流れていたのかもしれない。主イエス・キリストを見ないで、教会の存続をまず第一に考えていたのでしょうと言われた。

パウロを見捨てていったフゲロとヘルモゲネ、この二人のことをテモテも知っていた。パウロの心の痛みと悲しみ、寂しさは、テモテにも伝わった。しかし、その反対にどこまでも苦しみをともにし、熱心に、彼を支えてくれるオネシフォロはパウロの励みとなった。

「オネシフォロはエフェソでもローマでも、投獄中のパウロの世話をしてくれた人物です。彼に、神がその報いを与えて下さるようにと祈られています。」と渡部牧師は説かれる。

熱心な福音宣教の結果、パウロは囚人となり。その監獄から、テモテに尚も福音宣教を呼びかける。「神の霊の賜物」があるんだからと。結果が惨憺たるものなのに・・・。なんか、おかしいのだ。目先の事だけで判断するなと言われそうだけれど、神の神秘は奥が深い。

ぬくぬくした今の自分から、抜けだすことが求められているのは痛感するが、それは辛いことで、今の自分はエアコンの効いた部屋からさえ出られない。

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テモテへの第二の手紙 2章1~7節 [新約聖書 テモテへの第二の手紙 ]

<そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。(1節)>

「テモテに新たな任務が託されます。そのためには、まず後継者を育てることです。パウロから聞いた福音の健全な教えを、他の人たちに教えることのできる人材を育て、彼らにテモテが果たしている務めを受け継がせるよう指示されています。そこには、テモテがパウロのもとに来られるようにという願いがありました。」と渡部牧師は書き出される。

「キリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。(1節)」という言葉は、自分の力だけでキリストのために生きようとすることを戒め、神の恵みは、キリスト・イエスとの結びつきによってのみ得られることを伝え、キリストの中に力を見い出すことを勧める。

しかも「強くなりなさい」という言葉の原語は、継続的な意味合いを持つので、一度だけ強くされるのではなく、絶えず強められていなさいと言われている。テモテにだけ呼びかけられているのではなく、しょっちゅう意気消沈したり、逃げ出したくなる者にも、絶えず何度も主イエスのめぐみによって強められるのだと勧められる。

ローマで獄中にあったパウロは、死ぬ前にテモテに会う必要に迫られていた。しかし、彼が仕えている教会を離れるためには、彼の務めを果たしてくれる働き人が必要であった。そこで、後継者を育てるようにと命じ、一刻も早く自分のもとに来てほしいと願った。

後継者は「多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちに委ねなさい。(2節)」と言われる。モーセが、アブラハムが受けた主の言葉、そしてこの世に来て下さった主イエスの御言葉、次々と伝言されていった。そして、はるか極東の小さな島国に福音は伝わった。しかし、それは、歪んではいないだろうか。

また、後継者は兵士のように、使徒パウロの苦しみを共にすることが求められる。兵士は生計を立てることに煩わされないで、自分を招集した者のために尽くすものだと。また、競技者がルールに則り自らを鍛錬しなければ、栄冠を受けることはできないように、日々自分の霊性を整え、更に福音をよく知るように努めることを勧める。

キリストの福音の使者は、日々の勤労と労苦を怠らない農夫のようでもある。怠惰ではなく勤勉、時宜にかなったことを一つ一つやり遂げる。働く農夫であると言った。

兵士は勝利の喜びを与えられ、競技者は勝利の栄冠を、農夫は収穫の喜びを最終的に与えられることになる。

しかし、聖書を読んで今もそうだが、自分勝手に解釈することが多い。自分は人に教える立場にないからそれでいいのかもしれないが、キリスト教にも多くの教派がある。本物、真実なるものをどうして見分けることができるのだろうか。

他教派を頭から否定してはいけないし、また自分の教会が目指すところが、歪んでいないかを吟味することも大切だ。

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テモテへの第二の手紙 2章8~13節 [新約聖書 テモテへの第二の手紙 ]

<イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。(8節)>

「蘇りのイエスを救い主として宣べ伝える福音に人々は敵対し、パウロはあたかも犯罪者のようにあつかわれ、投獄されています。しかし、自分が鎖につながれても、神の救いの御言葉は、決して鎖でつながれていないと、パウロは言います。」と渡部牧師は説かれる。

ユダヤ教指導者にとってパウロが宣べる福音は、自分たちの地位を脅かすものであった。また、ローマ帝国にとって、キリスト教徒は統治するうえで邪魔な存在だった。日本でも16世紀、全国統一を成し遂げた豊臣秀吉はキリシタンの存在を許すことができず弾圧した。

大祭司、長老数名とその弁護士は、ローマの総督にパウロを訴え出た。「…閣下のお陰で、私共は十分に平和を享受しております。…実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の首謀者であります。…。」他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、その通りであると申し出た。(使徒言行録24章)」

エルサレムで裁判を受けたいかと問う総督にパウロは「私は、ユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。・・・この人たちの訴えが事実無根なら、誰も私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。(使徒言行録25章)」と言った。

ローマの教会を訪問することを願っていたパウロだったが、囚人として鎖につながれてローマに行くことになった。その獄中からテモテに、主イエスは復活されて今もおられること、主イエスはただ記憶にとどめる方ではない、いつも思っていなさいと励ました。

束縛され鎖につながれてはいるけれど、なおキリストにあって自由であり、神の言葉は繋がれていないと告げた。彼の苦しみが、他の人々の信仰の妨げになると言うよりは、彼らの信仰をさらに深めた。彼によって宣べ伝えられた救いの福音は、人々の中を進んでいき、選ばれた人々を救いへととらえ続けた。

1937年、ドイツのM・ニーメラー牧師は、ナチス政権に反対して8年間投獄され、その間教勢は衰えていった。解放された後「舟(教会)の旗は傷つけられ、マストは折られ、その姿は醜くなった。しかし、キリストはなお舵を取り、舟は浮かんでいる。荒れ狂うが、踊れ、おお世界よ、私はここに安らかに立っている。」と言った。

ヒットラーの統治するナチスの豪華船は沈没した。だが、キリストが舵を取られる船は今も進んでいる。「神の言葉は、繋がれていない」だけでなく、かえって「ますます盛んになり、広まって行く。(使徒言行録12章)」のですとK牧師は説かれた。

使徒言行録24章で、ローマ総督フェリクスに取り入る大祭司アナニアの言葉が並ぶ。彼らは「教養のない無知で野蛮な異教徒たち」と軽蔑するローマ帝国によって属国とされている現状が我慢ならなかった。しかし、生きて行くには仕様がないと考えていたのだろう。

ユダヤの指導者の姿は、戦時下のキリスト教徒の姿であった。失敗を繰り返してはならないと思うが、それを誓うことはできない。

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テモテへの第二の手紙 2章14~26節 [新約聖書 テモテへの第二の手紙 ]

<あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。(15節)>

「伝達された正しい福音を教えるのではなく、それを勝手に作り変えて復活や救いについて教え、自らも他の人々も破滅へと向かわせる働き人が現れています。」と渡部牧師は書き出される。

「死者がすでに蘇った」と説く者が現れていた。彼らは、キリストにある新しい命は肉体的なものではなく霊的なものであると考えていた。この教えは、死者が新しい命に蘇ることや、新しい霊の体についての教えと一致しなかった。

それらに、「…決して調子を合わせてはならない。同調している信徒を、彼らから離れさせるため、福音から出ている正しい教えを思い出させ、言葉の争いをしないよう、神の御名において命じるべきである。とパウロはテモテに勧めています。」と渡部牧師は続けられる。

「死者がすでに蘇った」とする言葉の裏には、誰かを偶像化することがあったのかもしれない。キリスト者は主の恵みによって救われ、その後、救いに相応しい器となる歩みへと促される者に過ぎない。主イエスのように、体の芯から神聖な者、柔和な者はいないと、知るべきであることを、自分自身の教会生活を通して思う。

それでも、福音を宣べ伝える者として神に選ばれていることに、恐れを持たずにはおれない。福音宣教に携わる者がしてはならないことが上げられる。偽教師たちは、些細なことに難癖をつけ争いと分裂を引き起こしていた。無駄な討議はただ怒り買い、感情を害させるばかりであった。

感情的な言い争いは、それを聞くものを破滅させ、悪い腫物のように広がった。組織の一部が壊死に陥ることになった。偽りの教えが行きつく先は、不道徳な生活であった。これらが結ぶ実は、情欲、傲慢、短気、自己顕示欲、怠惰でしかなかった。

宣教の業に仕える者は、真理の言葉をたえず学び続ける者。健全な御言葉と教理だけが教会の成長の糧であることを、絶えず知る者であること。そして、神の言葉を生活に組み入れ、神に自分を献げるように努める者。その生活と働きが恥じることのない者であること。全く自分には資格がない。「それでも、私たちを用いられるのです。」とK牧師は話された。

そして「何の益にもならず、聞いているものを滅ぼすことになるような言葉の論争などしないようにしますが、全く議論してはならないというのではありません。クリスチャンの議論は、人間をより神のもとに近づけることが目的です。ですから論争に勝つことより、主にあって輝くことが大切なのです。」と説かれた。

教会の中での会話で、時々「その言葉は、聖書に適っていないぞ」と心で思い、相手を評価してしまう時がある。そういう時ほんとに相手のことを思うなら、その言葉の意味をもう一度尋ねて、自分の思いを言うべきだということだろう。難しいことだ。

昨日の夜の祈祷会には、韓国の女子学生3人の参加があった。祈祷会の後、韓国の太鼓(日本の鼓より大きいが鼓に似た太鼓)の演奏をして頂き、楽しかった。

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テモテへの第二の手紙 3章1~9節 [新約聖書 テモテへの第二の手紙 ]

<しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。(1節)>

「よくよく心に止め、注意しなければならないことが語られます。それは、終わりの時に来るであろう試練についてです。恐れを抱かせることがあげられます。人々は、教会の中で自己中心的になり、金銭に執着し、大きなことを言い、神を畏れない者となり、自らを偽り、信心深い様子で兄弟たちを欺くのです。」と渡部牧師は書き出される。

世界情勢の不安定さ、あちらこちらで起こる自然災害、為政者たちの無策と無力、愛が軽々しく叫ばれ、不正がはびこり、「終わりの時」と言われたら、その時が目前なのだと思ってしまう。自分はよくわからないが、その時は一瞬に起こるのではなく、徐々に蝕まれるという形でなら、もう始まっているのではないかと思っている。

2節から4節に、神を恐れなくなった人々がどのような姿に変り果てるのかが列挙されている。そして、5節では「信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい」とパウロは命じている。

偽教師たちの中には、「他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。(6節)」と続けられる。私たちの教会は4分の3が女性である。だから、教会や宗教のことをよく思っていない人たちも、このように考えているかもしれない。

宗教は家庭を破壊し洗脳するんだと。確かに真の神からではない教えは、いくら修行しても、本を読んでも、暗誦が上手にできても、決して真理には到達しない。

「モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられた通りに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。そこで、ファラオも賢者や魔術師(ヤンネとヤンブレ)を召し出した。彼らもまた同じことを行った。それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らをのみ込んだ。(出エジプト記7章)」

エジプトの賢者や魔術師も真理に逆らった人であった。彼らは精神の腐った人間だとパウロは断定した。「精神の腐った」と訳されたヘブライ語は、受動態が使われており、厳密に訳すと「精神が腐敗させられている」という意味になると解説書は説いている。

彼らの罪の特徴は、愛の対象が、神や隣人ではなく、もっぱら自己に、あるいは自己を満足させる地位や財産になっていた。

「宗教の本質は、生活の外形や認識にあるというよりは、生きる力、自己を放棄する力です。『悪しき人々を避けなさい』と言われています。偽りの教えとは、本物に限りなく似ていますが、似て非なる存在です。天使を装う悪魔も然りです。」とK牧師は説かれた。

天使と悪魔を見分ける力は、自分を捨ててはじめて手にすることができるように思う。

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