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旧約聖書 コヘレトの言葉  ブログトップ
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コヘレトの言葉 1章1~2節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。(2節)>

「『すべては空しい』。コヘレトの言葉を読んで一番印象に残る言葉はこれではないでしょうか。コヘレトは太陽の下にあるあらゆることを試し、いつまでも残るもの、変わらないものはないか、尋ね求めます。けれど、いくら尋ね求めてもすべては過ぎ去るものでしかありませんでした。」と9月の家庭礼拝歴担当、大阪姫松教会藤田英夫牧師は書き出される。

ネットを見ると「コヘレトの言葉は、聖書の中でも不思議な書である。これが書かれたのは紀元前200年前後とされている。これよりやや時代が下るシラ書の作者も、知恵の書の作者もこの書を知っている。しかし正典に入れられたのは、紀元96年である。作者はエルサレムに住む富裕で身分は高いものの、家族のいない孤独な老人であったとされている。

「コヘレト」というのは「神殿で語る者」を意味する女性名詞である。しかし、男性とされているのは「エルサレムの子、ダビデの子…」という書き出しから推察されている。この書はソロモン王の作であると伝えられてきたが、この説に疑義を呈したのはルターが最初とされている。」と記されている。

私たちの教会では説教にあまり登場しないので、この書にはなじみがない。始まりの言葉から、平家物語の「諸行無常の響きあり…」を連想してしまうがそれとはどこが違うのだろうか。

Wikipediaには、この書は、知恵文学に属しており、コヘレトを介して、宗教、民族を超えた普遍的な疑問(人生の空しさ、諸行無常、「国破れて山河在り」といった無常観)の哲学的な考察が試みられている。…そのため、キリスト教やユダヤ教の信者だけでなく、異教徒や無宗教者、更に不可知論者などにも大きな違和感を与えることなく、比較的馴染みやすいと記されている。

主なる神がおられることを信じない信じたこともない人々が、この書を理解できるというのは少し合点が行かない。それで、藤田牧師の文章を引用させていただく。

「何を見ても、何をしてもすべて空しいと言われると、すべてが否定されているような気持になってしまいます。それこそ、この世に生きて存在していること自体、意味がないのではないかとまで思ってしまいそうです。

でも、太陽の下にあるいかなるものも、信頼に足りないという言い表しでもあります。空しくないものは太陽の下ではない別のところにある。コヘレトの言葉は、そのように語り掛けているのではないでしょうか。」

混沌とした地に、神が「光あれ。(創世記1章)」と命じられた。目に見える範囲で考えるとすべてが「空しい」かもしれないけれど、私たちは太陽よりももっと偉大なお方の下に置かれているんだよと藤田牧師は説かれている。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。

コヘレトの言葉 1章12~15節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。(14節)>

「太陽の下には、新しいものなど何一つないとコヘレトは言います。新しいと思うのは、かつてあったことを忘れているからにすぎないと。・・・新しいものが発見されたというニュースも聞きますが、でもそれは私たち人間が知らなかっただけで、それ自体はずっと以前から存在していたのです。」と、藤田牧師が昨日の個所を書き出される。

「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。(3.4節)」コヘレトは地上の営みは無意味な繰り返しと感じていたのだろうか。

「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる。(5~7節)」と、続けられる。

しかし、それらは命の鼓動であっても、無意味な繰り返しではないのです。自然の中に神の臨在を示し、神の栄光が現わされていると、詩編は説いています。とK牧師は説かれた。

「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくとも、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。そこに神は太陽の幕屋を設けられた。(19章)」と。

宇宙の仕組みが学校で大雑把であるが教えられる今の世と、コヘレトの時代は違いすぎるので、その空しさの実感を共有することはできない。彼らの時代には情報が乏しいことによる恐怖があったことに比べ、今の世は大量の情報によって増幅する恐怖がある。

農夫であった両親は、雲の動き、風の様子で明日の作業に備えていた。蝉の鳴き声に元気がなかったとか、カエルが少ないとか、言い伝えやまじないもあり天気の予想が外れることもあったと思うが、その時代は、耳や目、体感を駆使して生きていたと思われる。

物事を深く知れば知るほど、人には手を出せないことがある。コヘレトはどれだけ知識を得ても、それは苦痛でしかなかった。人の知識は万能でも全能でもない。知識を深めていけば何でもできると思わず、真の知恵である「主への畏れ」を求めることを伝えた。

クリスチャンではない両親だったけれど、自然の中に神々を確かに見て、畏れをもっていた。そういう風土に育ったものだから、田んぼの中の鳥居とかお地蔵さんにはなにか神聖なものを感じてしまう。偶像崇拝を避けなければいけないが。

無条件に神様、仏様を信じていた両親に比べて、自分は無条件に主を信じていると言えるのだろうか。

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コヘレトの言葉 1章16~18節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。(18節)>

「わたしたちは、知恵や知識が深まれば、それだけ可能性が増え、世界が広がると考えているように思います、科学万能とまでは言わないまでも、このまま知恵や知識が深まっていけば、やがて人間はどんなことでもできるようになると思っているのではないかと感じる時があります。」と藤田牧師は書き出されている。

「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神は辛いことを人の子らの務めとなさったものだ。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。(12~14節)」

コヘレトは自らを「王」と称して重々しく語り始める。彼は並々ならぬ探求心によって、地上に起こるすべての出来事を調べたが、「見よ、どれもみな空しく…」と嘆いている。けれど、もし彼が貧しい民であったなら、その日の糧を得るために、早朝から夕方まで働き、深く考える時間もなく眠りにつく毎日だったろう。

だとすると、彼の「空しさの論理」は机上の教えであり、当時の人の全てが持つ普遍的な論理とは言えないのではないか。

登山は楽しい。近くの山を歩くだけでも、木の色、花の匂い、風の音、鳥の声に、自分も自然の一部であることを覚える。過日家族といったディズニーランドの受け身の楽しさは、残念ながらすぐに退屈した。コヘレトの言葉は五感を動かして得た言葉なのだろうか。

「歪みは直らず、欠けていれば、数えられない。わたしは心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者の誰にも優って、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった』と。わたしの心は知恵と知識を深く極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。(15~17節)」

新学期が始まって、いよいよ子供を塾に通わせようと長女は躍起になっている。「鉄は熱いうちに打て」である。それなのに、知恵や知識は「狂気であり愚かである」とコヘレトは教え、知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増すと教える。

お医者さんのKさんは、様々な病気と格闘し、本を読み、研究すればするほど、体の謎や不思議にぶつかり、神のなさる業だとしか思えないことが多くあると言われていた。コヘレトが知識を極めたと言っているが、それは、まだまだ手前の段階だったのかもしれない。

「知識は深まれば深まるほど、正しい選択をする責任も大きくなります。主に信頼して委ねることを知っていなければ、それは到底できないことです。ただ知識だけを増やすことは、悩みや痛みを増し加えることになるのではないでしょうか。」と藤田牧師は結ばれる。

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コヘレトの言葉 2章1~2節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう。愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。(1節)>

「笑いや快楽は、楽しみをもたらしてくれます。笑うということは良いことであるという認識は、広くひろまっているのではないでしょうか。健康に良いともいわれます。しかし、コヘレトは、それもまた空しいと言います。笑いや快楽が一時的なものでしかないからです。」と、藤田牧師は書き出される。

地元の野球チームに負けが重なるとTVを見るのがつらくなり、守備に回るとTVを消したくなる。TVを消すと全く別の世界に戻ることができ、いらいらハラハラすることなく、血圧も正常に戻る。それでも、夢中になっての観戦は面白い。

藤田牧師は「いっとき笑わせてくれ、楽しい気分にしてくれるものも私たちには必要です。ですが、その喜びは、私たちの命や生涯を意味あるものとして支えてくれる土台にまではなりません。」と戒められる。

スポーツ観戦で喜びや感動が与えられ、明日への力になるような時がある。誰もがそのような経験をするはずだからと「東京オリンピック」は、誘致されたのだろう。けれど、それは「いっとき」のものであると、藤田牧師は説かれる。それは、酒に酔うように、世の流れに沿うような、自分を失くした酩酊状態の喜びなのだと。

「人間の本性の深いところは、神が下さる喜びを、そのまま受け取ろうとしない傾向が潜んでいるのです」とK牧師は言われ、神から受けるのではなく、自分自身で作り出した喜びにこそ憧れるという傾向があると説かれた。

人は与えられる喜びより、勝ち取る喜びを好むらしい。創世記は、人が神から与えられた楽園に満足しないで、自ら喜びを勝ち取ろうとした罪を伝えている。

「人をまことに喜ばしいものにしてくれるのは、一人一人の命や存在を意味あるもの、尊いものとして守り、支えてくれるものではないでしょうか。そんな拠り所を持つことができれば、私たちはどんなことが起こっても、喜ばしい存在でいることができるように思います。永遠に変わらない真実なお方こそ、その拠り所なのです。」と藤田牧師は結ばれる。

真実なお方は、こちらが惨めな時にも、不遜になって誰からも厭われる者になった時にも、助け求める者に、変わらぬ愛の手を差し伸べて下さる。

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コヘレトの言葉 2章3~11節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<しかし、わたしは顧みた。この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。(11節)>

「コヘレトは手に入る限りの富を蓄え、尽くせる限りの贅を尽くして屋敷を整えたと言います。ほしいと思うものは何でも手に入れました。『どのような快楽もあまさず試みた』というほどです。しかし、その結果のひとつひとつを振り返ってみる時、どれも空しいと言わざるを得なかったのでした。」と藤田牧師は書き出される。

人生は短い、その短い人生に人は何をなすべきか、コヘレトは「わたしの心は何事も知恵に聞こうと(3節)」した。何をすれば幸福になるのかを見極めるまで「酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。(3節)」

そして、彼は、多くの宮殿を建設し、果樹を植え、池を掘り、水路を開くなどの大事業を起こし、男女の奴隷と家畜、金銀、宝物を手に入れ、歌手と側女を置き「快楽をあまさず試みた(10節)」彼は高位と繁栄と快楽を得、労苦を通して楽しみを得た。しかし、その結果、彼が得たのは空しさだけであった。

「コヘレトの言葉」は、ソロモンが書いたのではないと解説書にあったが、ソロモン王がモデルになっているということだろうか。こんなに贅沢ができるのはソロモン以外に考えられないのだけれど。それにしても、彼が耳を傾けた知恵の書には、お金を投ずることによってしか「幸福」は得られないのだと、記していたのだろうか。

彼から税金を搾り取られる人々や、厳しい立場にある奴隷の人権、その他、彼を取り巻く人々も幸福を求めているのだと、彼が気づくことはなかったのだろうか。彼の身近な人々から彼が「幸福」を感じることはなかったのだろうか。古代なのだから仕方がないと思うものの、今の世でも彼のような人は多くいるだろう。

「空しくない人生を送るために必要な物とは何でしょう。それは、有り余るほどの富ではないとコヘレトは証言しています。それは、わたしたち自身の中にある何かではないし、また自分で獲得した何かでもなく、与えられるもの、あるいは受け取ることしか出来ないものなのではないでしょうか。自分の手の業によって生きることの意味を満たすことはできないと、コヘレトは言っているように思います。」と藤田牧師は説かれる。

そして「神がご自分の愛ゆえに与えて下さる恵み、その中にこそわたしたちは空しくならない命を見いだすのです。」と結ばれている。

藤田牧師の言葉は深い。よくわかり、そうなんだと思うもののぼんやりとした理解だ。歳を重ねていいかげん「神がご自分の愛ゆえに与えて下さる恵み」を自覚しないといけないのだけれど…。顧みて自分が空しい人生を送っているとも思えない。かといって空しくないとも言い切れない。

「コヘレトの言葉」をじっくり読んで、これを機に人生について考えることにする。

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