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テサロニケの信徒への手紙 1 5章12~15節 [新約聖書 テサロニケの信徒への手紙1]

<だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。(15節)>

教会は、神の招きと導きによって、主イエスの十字架の復活による救いの恵みに与る信仰を与えられ、主の再臨を信じて待ち望む希望を与えられて共に生きる者の群れである。気の合う人たちと作るクラブではないし、何かの目的をもって集まる結社でもない。主の再臨を待ち望む希望に続いて、パウロは主による兄弟愛について語って行く。

「遠くの愛を美しく語ることは容易ですが、顔を持った兄弟を愛することは困難なことです。ここに記されている勧めは、ほとんど何でもない当たり前の勧めのようですが、心からそのようになれたらどんなに幸いなことでしょう。」と鈴木牧師は説かれる。

例えば「愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい(13節)」などは、表面上では簡単にできることかもしれない。愛想よく、微笑みをもって、人と争わない、人が嫌がることをしないなら、自分もよく知っているし、出来るだけ心がけている。

イスラエルの民において「平和(シャローム)」は、単に争いや、戦争がない状態ではない。もっと積極的に神の祝福が満ちている状態、恵みと喜びに溢れている。そんな様子を意味する。争いをしないという消極的なものでなく、パウロは積極的に互いに愛し合っていくことを勧めている。

愛と尊敬、互いの平安のための具体的行動として「怠けている人を戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。(14節)」とパウロは命じる。

4章11節では、自分の仕事に励み、自分の手で働くようにとパウロは教えている。怠けている人とは、定職を持っているかどうかのことである。当時、再臨を待ち望む信仰が、この世の生活をないがしろにするという思いを生んでいた。そういう人々は、彼らの思う所の信仰的活動に精を出していた。

彼らは何もせずいたのではなく、むしろ多忙に信仰的活動に励んでいた。しかし、生活の面では教会に寄生し依存していた。社会における役割、責任を果たさず、自分の信仰的満足のための活動であった。自分の賜物を教会を築くために用いるようにと、彼らを戒めた。

また、気落ちしている者の傍らに立ち、彼が重荷としていることを背負っていくことが出来るように、手を貸し慰め助けることが求められる。そして、兄弟姉妹が互いの弱さを助け、補い合って生きることこそ、平和に過ごすことの積極的な形であると勧めた。

更に全てのことに忍耐強くとパウロは説く。寛容であることが相手を愛する一番大切な土台だとH長老に若いころ注意された。寛容であることこそ、主イエス・キリストによる信仰と希望に裏付けされた愛の特徴なのだと。

今年の自分の目標は「隣人を愛する」だけれど、なかなかうまくいかない。

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テサロニケの信徒への手紙 1 5章9~11節 [新約聖書 テサロニケの信徒への手紙1]

<神は私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められたのです。主は私たちのために死なれましたが、それは私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。(9.10節)>

「私たちは、神の峻厳な裁きを私たちに代わって引き受けて下さった主イエス・キリストを知るゆえに、日ごとの歩みにおいて、峻厳な裁きを見失うことがありません。裁きの時が救いの時であるからです。」と鈴木牧師は書き出される。

過去に気を取られたり、これからのことを思い煩ったり、そんなことばかりの毎日で「今」を大切にしているとは言い難い。問題にしなくてはならないのは「今、自分はどういう状態にあるのか」と言う事であり、更に決定的に重要なことは「今、神との関係はどうなっているのか」と言う事だと、K牧師は話された。

パウロは「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません(4節)」と言い「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。(5節)」と教える。今ここにこうしているのは、すでに光の子、昼の子として生きるように招かれているのだと。

父の財産を使い果たし、再び父の元に帰って来た放蕩息子を父は喜んで出迎えた。自分はその放蕩息子だと言える。長生きをしてしまって、その間何人の人を傷つけただろうか、その過ちは数えきれない。最後の時それが裁かれるなら、滅ぼされても仕方のない者である。にもかかわらず、聖日ごとに礼拝に招かれ、主と共に歩むことが赦されている。

「神は私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められたのです。(9節)」

惨めで、貧しく愚かな者でも、神に招かれ、神と共に生きる罪赦された者であるならば、終わりの日がいつであるのかは全く問題ではないし、キリストの再臨が突然のものであっても、むしろ待ち望んでいた者としては「救いの日」となるのだとパウロは説いた。

しかし、逆に「光の子」とされているのに、眠り込んでしまい、光の子として生きる力を放棄しているとすれば、終わりの日、キリストの再臨による厳しい裁きに耐えることは出来ないだろう。

「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。(8節)」。これらの武具が今、自分の身に着いているだろうか。K牧師は「どこかで埃をかぶっていませんか、昔は着けてたが…。なんて意味ないですよ」と言われた。

「あなたがたは…励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。(11節)」とパウロは勧める。人が信仰者として生きるには、他の信仰者の助けを必要とする。神との関係において目覚めているためには、他の目覚めている人の助けを必要とするのだとパウロは語る。

日曜日ごとに会う兄弟姉妹との話は楽しい。聖書については勿論、家族の事、身近に起こった事などおしゃべりする。その中で、信仰的解決、考え方などを教えられることが多い。

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テサロニケの信徒への手紙 1 5章1~8節 [新約聖書 テサロニケの信徒への手紙1]

<人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じです。決してそれから逃れられません。(3節)>

「ヨハネ書は、人々は『光よりも闇の方を愛した(3章)』と伝えていますが、私たちはその闇にあまりにも慣れ親しみ、そこに薄明かりがあるように思ってはいないでしょうか。先に『生きながらえて主の来臨の時まで残る私たち』とありましたが、それは終わりの時を待つ者として、一瞬一瞬を真実に目を向けて歩む者があることが語られていました。」と鈴木牧師は書き出される。

イースターの前の日曜日を除く40日をレント(受難節)と呼ぶ。教会は今日からレントに入る。主イエスが私たちのために十字架の苦しみを負って下さったことを忍んでこの時を過ごす。「40日」は、主イエスが公生涯を前に40日間荒野で断食をして過ごされた日である。

「突然、破滅が襲う」とは、穏やかではない言葉で、先の大津波の甚大な被害が思い起こされる。それがいつなのか、どういう形で来るのか気になるので地震の臨時ニュースなんかが入ると当座はそのたびに、びくびくして家族の安否を確かめた。

それと同時に、「その時、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん」と予告されている神の国の到来は、「いつ、どういう形でくるのか」と考えてしまう。自分は死ぬことは決まっているがそれが「いつ、どういう形でくるのか」が分からないのと同様だ。

パウロはテサロニケのひとびとに「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたに書き記す必要はありません(1節)」と語り「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身良く知っているからです(2節)」と続ける。

主イエスも「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。気を付けて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。(マルコ書13章)」その日をご存知ではないらしい。

K牧師は「それがいつなのかは大して重要なことではないのです。重要なのは『今』なのです。今、どうであるか。今、私たちはどう生きているのか。今、私と神様との関係はどうであるのか。今、自分は目を覚ましているのか。そのことが重要なのです。」と説かれた。

「無事だ。安全だ」としているその足元の地が、神の裁きの地であることを、心を痛めて自覚しなければなりません。眠ることも、酔うこともなく醒めている事、この時の中で主がもたらして下さる恵みに新しく与っていくことが光の子の責任であり祝福ですと鈴木牧師は結ばれる。

私たちは借家人に過ぎない、家主である神様から「出ていくように」と言われたら従うしかない者だ。

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テサロニケの信徒への手紙 1 4章15~18節 [新約聖書 テサロニケの信徒への手紙1]

<主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは決してありません。(15節)>

「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。(11節)」鈴木牧師は11節を、終わりの時を待ち望む者として、誠実に日常生活を送るようにパウロが勧めると説かれている。

そして「私たちの日常は、徒な偶然に支配されているように思います。しかし、日々迎えるその偶然と思われる日常は、主が真実をもって歩まれた日常であり、そこに主の十字架が立てられたゆえに、主が贖って下さる日常です。キリストの再臨の時がその時です。あなたの患難も死の苦しみも、主の贖いの約束の中に置かれています。」と続けられる。

テサロニケの信徒たちは、主の再臨をひたすら待ち望んでいた。しかし、その日を見ることなく死んでしまう兄弟姉妹についての悲しみに直面した。彼らは天の御国に入ることが出来るのだろうか、どうなってしまうのだろうかという深刻な疑問を生んだ。

パウロの返答は世の終わりに起こる出来事の説明ではなく、彼らを悩ませた疑問に対してパウロは「希望」について話すことで慰めた。キリスト信仰者は揺るがない希望を持つ。この希望は全能なる神に全面的に依存している希望なので、人の死の瞬間にも消失しない。

主イエスは十字架に架かられ死んでしまわれた。しかし、三日目に父なる神は主イエスを死者の中から復活させられた。再臨を待ち望みつつ世を去った死者たちもこれと同じ。神は彼らのことも復活させて下さる。主イエスを信じて生きている人々と同様、彼らもまた御国にあって喜びに与る、私たちは皆一緒に集められると彼らを慰めた。

パウロは、自分自身を主の再臨の時までまだ死なない信徒たちの一人とみなしていた。しかし、彼が待望していたように、主イエスの再臨はなかった。「天の父なる神のみが最後の時がいつであるかをご存知である」という主イエスの言葉通りであった。

K牧師は「だからと言って、パウロの待望はむだではないのです。主イエスの再臨に対して保つべき私たちの生活態度を勧めているからです。主イエスにお会いするその日のために備えるという姿勢で、目を覚ましてキリスト者は待ち続けるのです。」と説かれた。

「主の祈り」の中で「御国を来たらせ給え」の言葉がある。解説書によると「御国」は日本語の語感と異なり、「支配」とも訳し、この場合そちらの意味をよりよく含むとあった。「御国」と聞くとなんか上空にあり、自分の世界と異なるが、「支配」なら包括的なものとして理解しやすい。この世の全てが神の支配のもとに置かれるのが「終わりの日」らしい。

「この世界は死で終わるしかない人間の論理を、曲げられない事実とすることを通して、命を失ってきました。絶対的に上からのすなわち十字架の赦しに、死を超える命の未来が約束されていることを信じる信仰は世の希望です。」と鈴木牧師は説かれる。

頭が痛くなるほど文字にすると難しいが、老いも死も怖がることはないらしい。

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テサロニケの信徒への手紙 1 3章11~13節 [新約聖書 テサロニケの信徒への手紙1]

<どうか、主があなたがたを、お互いの愛と全ての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせて下さいますように、わたしたちがあなた方を愛しているように。そして、わたしたちの主イエスが、ご自身に属する全ての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非の打ちどころのない者としてくださるように、アーメン。(12.13節)>

テモテの報告を受けて、テサロニケの信徒たちの信仰を知ったパウロは喜びにあふれ、神への感謝へと導かれた。試練の中にあるものが一番危機に陥りやすいのは、試練の最中にあるのではなく、それを乗り越えたと思われる時であった。

試練に直面している時は、多くの祈りが捧げられるが、解決の知らせが伝えられると、誰もが祈りを止めてしまうからである。そのことを知っているパウロは、喜びの知らせを聞いたからこそ、なお一層テサロニケの人々のために祈った。

最初にパウロは、彼らに会う目処が立てられない今、主イエスが道を開いてパウロを彼らのところに行かせて下さいますようにと祈った。そして、互いの間の愛が増しますようにと祈り、共にキリストの再臨に備えて、主の御前に聖い歩みをすることが出来ますようにと祈った。

パウロは人間がどのような熱意と願望を持ってしても、神が道を開いて下さらなければそれは不可能であることを知っていた。それは、逆にどんな難しい状況にあっても、神が開いて下さるなら、必ず可能になると確信していた。すべては神のみ旨にあると知っていた。

Aさんは就職面談で落ちた。どうして落とされたのかその理由は知らされなかったと憤慨していた。そのような小さいことでも、神が関与されていると信じている。採用されなかったことを後になってきっと彼女は感謝するにちがいない。と慰めた。

また、苦難の中では兄弟姉妹の結束が深められ、愛の一致が生み出される。しかし、その問題が解決し良い方向に動き出すと、苦しみの中で動揺していた弱い信仰者を裁いたり、自分の正しさを誇示する者がいたりして、彼らの間にさまざまな軋轢を引き起こす事をパウロは危惧し、互いの愛を満ちあふれさせて下さいますようにと祈った。

そしてパウロはキリストの再臨についても祈っている。「キリスト者は、終わりの時を待つことが許されています。その時が、たとえ厳しい裁きの時であるとしても、キリストがすべてのすべてとなって下さいます。その終わりの時に向かって祈り、歩むことが、信仰の素晴らしさです。」と鈴木牧師は結ばれる。

主イエスは「戦争の騒ぎやうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。…これらはすべて産みの苦しみの始まりである。…」とマタイ書24章で「終わりの日」を語られている。

愛と聖さが急速に失われてゆく、今は正にその時ではないでしょうかとK牧師は説かれた。

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