So-net無料ブログ作成

イザヤ書 6章1~3節 [旧約聖書 イザヤ書 ]

<わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。(1節)>

「ここでイザヤは自分がどのように神から預言者としての召命を受けたかを語っています。ユダのウジヤ王は52年間も支配をつづけた賢い王でありました。国力は成長し、安定と平安の時代は彼の死とともに去り、アッシリア帝国の台頭により時代は激動と危機をはらんだ転換期に入りました。」と北村牧師は書き出される。

ユダの王ウジヤは紀元前740年頃に死んだとされている。彼は16歳で王位に着き52年間統治した。「彼はまた、エルサレムで技術者により考案された装置を造り、塔や城壁の角の上において、矢や大きな石を放てるようにした。ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くまでに及んだ。(歴代誌下26章)」と記される名君であった。

イザヤは王が死んだ年、神殿に仕える身として幻の中に深い霊的な経験をし、主を見た。聖なる神が彼に臨まれ、彼は打ち砕かれ、霊的な清めを受けた。

人々から尊敬と信頼を得ていたウジヤ王がその王座から離れた。その時イザヤは「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた(1節)。」真の王である主が、目の前に座しておられるのを見た。

歴代誌においてウジヤの業績を書き記したのはイザヤであったとされている。彼はウジヤ王の業績を書き記す過程で、ウジヤに傾倒し期待していたのではないだろうか。そのウジヤが死んで王座から離れ、主が高く上げられた天の御座に座される主を見て、はじめて本当に頼るべきお方は主なる神であるということに気づかされた。

神殿いっぱいに広がる衣の裾は、神殿全体に王の王としての権威が満ちていることを表した。人間の王は死んだり、退位させられたりするが、真の王であられる主は遥か高い所から最高の権威をもって君臨される。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。(3節)」

また、上の方には、六つの翼を持つセラフィムが、顔と足を覆い飛び交い、呼び交わし唱えた。よくわからないけれど、そういう天使でさえ、主の聖さに、御顔を見ることが出来ず、身を屈めて「聖なる…」を三度も繰り返し飛び交っていた。

天使でさえ主を見ることが出来ない。罪深い人間が近づくことは到底出来ない聖なるお方であるのに「ご自身は遜って罪人たちに近づいて下さるのです。イザヤが霊の眼で見たものはその主の御顔ではなく、わずかにその衣の裾でありました。」と北村牧師は結ばれる。

自分自身の汚れさえまともに認めることが出来ない大きな罪を持つ。そのような者にも主は近づいてきて下さり、支え導きの手を差し伸べて下さる。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


共通テーマ:

イザヤ書 5章1~7節 [旧約聖書 イザヤ書 ]

<わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。(4節)>

「神はその民を選び、長い年月にわたって愛と真実の限りを尽くして彼らを導き育ててこられましたが、その民は神に対して真実をもって応答しませんでした。イザヤは、民が集った収穫祭にこのことをぶどう畑の比喩を用いて歌い表し、彼らの非を悟らせようとしました。」と北村牧師は書き出される。

わが愛する者(神)は、よく肥えた地を選び、そこを耕し、最上品種のぶどうの苗を植えられた。畑を獣から守るために柵を巡らし、酒船を掘って甘いぶどうのなるのを待ち望まれた。

石の多いパレスチナの土地を耕すのは大変な作業であった。その石で石垣を巡らし見張り櫓を立て、畑の監視も大事な仕事だった。収穫物を貯蔵するための酒船は、岩を掘って作らなければならなかった。

ぶどう畑はイスラエルのこと、神は彼らのためにこれほどまでも手をかけて下さり愛して下さっているのだと、預言者は人々に歌い伝えた。神がイスラエルにこれほど手をかけられたのは、「良いぶどうが実る(2節)」のを待ち望まれたからであった。

「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった(2節)。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ。わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ(3節)。」神の期待は裏切られた。「酸っぱいぶどう」と訳されているが、ぶどうは、「臭くて食べ物にならない状態」であった。

「神に従う人は偽りの言葉を憎む。神に逆らう者は悪臭を放ち、辱められる。(箴言13章)」の、「悪臭を放つ」と同じ言葉である。見かけは上等でも、中身は全く違っていた。実際はそうではないのに、そうであるかのように見せかけることが問題だった。

O牧師は「福音を自分流に理解して信仰生活を送るようになってしまったのです。これでは霊的に成熟することは出来ません。逆に霊的な衰退に陥ることになるでしょう。表面的に言葉を並べ、立派な行いをしたとしても、神に喜ばれないぶどうでしかないのです。」と説かれた。

「このぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるに任せ、石垣を崩し、踏み荒らされるに任せ。わたしはこれを見捨てる。(5.6節)」

囲いは取り除かれ、荒れ廃れるにまかせ、外敵によって踏みつけられ、滅びるままに任せられた。その上「雨も降らせるな(6節)」と雲に命じられた。北村牧師は「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい(ローマ書11章)」の御言葉で結ばれた。

主に立ち帰り、毎日の生活を改めることが求められている。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


共通テーマ:

イザヤ書 4章2~6節 [旧約聖書 イザヤ書 ]

<主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をそのなかからすすぎ清めて下さる。(7.8節)>

北イスラエル王国の首都サマリアはアッシリア帝国によって陥落した(紀元前722年)。その後、南王国ユダは何とか持ちこたえているものの、バビロン、エジプト、アッシリアからの大帝国の脅威にさらされていた。そのような中、ユダはアッシリアに救援を求めた。

「その日には七人の女が、一人の男をとらえて言う。『自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから、どうか、あなたの名を名乗ることを許し、わたしたちの恥を取り去って下さい』と。(1節)」

神の裁きの日に、エルサレム(七人の女)はアッシリア(一人の男)に対して助けを求めた。「どうか、私をあなたの奴隷として生きることを許してください。そしてあなたの名を名乗ることを許し、あなたに反抗した北イスラエルのような愚かなを恥を取り去って下さい」と。自ら異教の国アッシリアの奴隷となる道を選ぼうとした、屈辱的な歴史を批判した。

「神の民の歴史の中には神への背きと悪があります。罪の払う値は死です。神が産み育てたイスラエルが滅びないようにと執り成し祈って下さるのはイスラエルの神です。そのイスラエル、ユダとエルサレムは神の恵みを受けながら、その高慢と不従順のために厳しい裁きを受けることになりました。」と北村牧師は書き出される。

しかし、2節では「その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。」と希望が語られる。

けれども、「その日」が来るためには、イスラエルは撃たれなければならなかった。それを通して神は彼らの中から不純物を取り除くため、精錬し、純銀だけを残される。そこまで追い込まれないと、人は悔い改めることが出来ない。

日本は1945年の敗戦を経験したが、そのことで滅びこそ祝福の始まりであると知ることが出来ただろうか。若者の多くは戦場で死に、老人や女や子供だけが残された。イスラエルの残された民は「聖なる民」と呼ばれ、彼らから新しい命が生まれていった。

「今日の礼拝に集う者も、老人と婦人だけ、壮年たちは企業の戦場で、若者はその予備軍として学校で日夜戦っている。経済は繁栄しているようですが、こころの貧しい状況です。でも、ここからです、ここから主は新しい命を起こされるのです。教会はその希望が与えられているのです。」とT牧師は説かれた。

私たちの国は敗戦を経験したものの、国民一人一人の悔い改めがあったのだろうか。敗戦処理には大きな間違いがあった。教会も時の政府に加担し、人々に何も訴えることはしなかった。神に背いた罪は大きい。今度そういうことがあったら…と息巻く人がいるがどうか怪しいものだ。

人と異なる道を選ぶのは勇気がいる。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


共通テーマ:

イザヤ書 1章1~10節 [旧約聖書 イザヤ書 ]

<もし、万軍の主がわたしたちのために、わずかでも生存者を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたでしょう。(7.8節)>

「このイザヤ書は紀元前8世紀後半、エルサレムに生きた偉大な預言者にちなんで名づけられています。当時、南ユダは強大国アッシリアの脅威の下にありました。」と今月の家庭礼拝担当、折尾伝道所北村千尋牧師は書き出される。以下、転載させて頂く。

「しかし、イザヤにとって国の脅威は強国の力ではなく、民自身の神への不信仰、不従順でありました。1章は39章までの部分の序論であり、預言者イザヤの詞華集です。アッシリア軍によるユダ及びエルサレムの荒廃の意味するものは何であるかを彼は問い直します。

父なる神は我が子らを手塩にかけて育てたにも関わらず、子らは父に対して愚かにも背いたのです。牛やロバなら自分の主人を知り信頼して従うのですが、神の民イスラエルは神を神とも思わないで放蕩息子のように父に離反したのです。

その結果、窮地に陥りました。慈しみ深い万軍の主は、民の中からたとえ少数であっても「残りの者」を残し、民の命脈を保ちました。」と説かれている。

ユダの預言者イザヤは、ウジヤ王の死んだ年(紀元前740年)に召命を受け、エジプトとアッシリアの勢力争いに巻き込まれ動揺するユダの国の人々に、外国の力に頼ることなく聖なる神の力にのみ頼るべきことを説き、約40年間預言者として主に仕えた。

ウジヤ王は41年、次のヨタム王は4年、アハズヤ王は20年、ヒゼキヤ王は29年間の治世であったことから計算すると、イザヤはこの4人の王の治世の中で生涯を送ったことがわかる。紀元前722年、北イスラエルの首都サマリアが陥落したのも彼の時代であった。

治世が長かったウジヤ王の時代、南ユダは平和を保たれ、繁栄が続いた。しかし、その与えられた豊かさによって神の民イスラエルは「災いだ、罪を犯す国、咎の重い民、悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。(4節)」となったと主は語られる。

イスラエルの民が律法に従って祭りを行い、肥えた獣の脂肪の献げ物を献げても「わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない(11節)」と主は、礼拝とその献げ物、さらには祈りまで拒まれる。それは、彼らの手は血にまみれ、悪い行いに満ちているからであった。礼拝、献げ物、祈りは正義の実現と深く結びついていなければならなかった。

恥ずかしげもなく経済発展を高らかに宣言し、周辺諸国を威嚇する軍を整えようとする為政者。まことの平安はこのようなものではないと、一人一人はどこかでそう思いながら、自分の明日の生活のために、安易に彼を選んでしまっている国民。

この国にもイザヤのような人が出現しないかしらと待っている時ではない。「あなたがイザヤになるのだ」と主は命じられる。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


共通テーマ:

ヨハネの手紙Ⅲ 1章13~15節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅲ ]

<あなたに平和があるように。 (15節)>

「ガイオとその教会は、善い歩みをし、著者にとって喜びであった教会だったようです。けれど、順調な面ばかりとは言えず、一方で、教会内には、教会の秩序を乱し、兄弟姉妹の交わりを壊すような人がいました。」と森下牧師は書き出される。

聖書における「平和」は、「シャローム(良い幸いな暮らし)」という意味を持ち、パレスチナでは挨拶に使われている。神の創造時の人間への思い、罪びとの救われた状態、ノアの契約で神は堕落した人類に滅亡ではなく「シャローム」を再び目指す、世をリセットする御心を啓示された。

「良い幸い」は「敵意のないこと、戦いのないこと」。特に新約では「人と人」さらに「神と人」との間に敵意や戦いのない関係。とくに終末的完成を表す意味になった。

だから「あなたに平和があるように」という祈りは、ガイオに示された主に救われた人生の満ち溢れる祝福と、また、既に主にあって教会とその民に実現しつつあり、終末に完全な主の勝利によって完成し、救われることを信じて願う祈りである。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ書5章)」神の契約の実りは「平和」であり、キリストは「平和」をもたらす主であられ、私たちは「平和」の王国のため、「平和」を生むべく救われたものです。と8.15集会でT牧師は説かれた。

「この言葉は、復活なさった主イエスが、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に現れ『あなたがたに平和があるように(ヨハネ書20章)』と言われた言葉と重なります。恐れや困惑、混乱や厳しい状況の中で、それらが取り去られることや、解決することを『平和』と呼んでいるのではありません。」と森下牧師は説かれる。

T牧師は「平和とは、キリストに生きる人生の豊かな賜物と聖い証の建設です。この平和は、私たち自身の心の状態から、家庭、教会、社会、国家の状態まで広がります。この世界はすべて神の世界であり、罪は個人だけでなく、世界全体の神への反逆です。世界に平和が戻らねばならないからです。」と止むことのない、戦火にキリスト者の責任を糺された。

聖書の「平和」は単なる政治的平和を表すのではなく「祝福」を表す宗教的意味を持つことを教えられた。しかし、それと同時に「平和」は単なる個人的、精神的な平和だけでなく政治をも含む広い概念であることも認めなければならない。

シリアの戦火、ロヒンギャの人々、危なげな隣国、この世で御言葉を宣べ伝える「平和」を表す形としての教会を形成し、真の平和の主イエス・キリストに従う私たちの任務が告げられる。

辺野古の米軍基地建設反対の座り込みは今日も続けられている。「軍事基地」なんてどこにもいらない。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


共通テーマ: