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テモテへの第一の手紙 3章14~16節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。(15節)>

「神の家、生ける神の教会における生活を示すにあたって、教会の本質が示されています。教会は、真理の柱、真理の基礎です。教会において、神は、キリスト・イエスにおける唯一の救いを現わし、唯一の真理を世に据えておられるのです。」と渡部牧師は書き出される。

パウロがこの手紙を記したのは、神の家である教会において、テモテと信者がどのように行動すべきかを知らせるためであった。彼はすぐにでも彼らのいるエフェソに行きたいと思っていたが叶わないので、どうしても伝えたいことを祈りつつ記してゆく。

パウロにとってテモテは愛弟子であると共に、同労者であった。また、エフェソの信徒たちが異教や異端から守られ、健全に成熟することを願った。そして、エフェソの教会が、この地方の宣教の中心になることを願わずにはおれなかった。

「神の家でどのように生活すべきか…(15節)」教会は神の家族であり、神を父と仰ぐキリスト者全体の家族である。だから、教会に初めて来た人は戸惑うかもしれないが、信者たちは互いに、主にある霊的な兄弟姉妹としての交わりを持つ。

教会は建物ではなく、神によって招かれ、キリストを信じている全ての人の集まりである。「生ける神の教会」とは、動かない偶像の神々との対比として記されていることと、主イエスを頭とする教会はたえず、救いを与え、命を与える生きた神ご自身であることを示す。

遺跡として有名なエフェソには、異教のアルミテミス神殿がある。自らを神とするローマ皇帝の権力と豊富な財力を示し、石でできた柱や土台、神殿や競技場などの遺跡は、その流れの中で生きなければならなかったキリスト者たちの困難を想像する。

しかし、そのような歪んだ繁栄のなかにこそ「信心の秘められた真理は確かに偉大です。(16節)」とキリストこそ、信心深く敬虔に生きるための秘訣であるとパウロはテモテを励ます。

解説書は「私たちは自分の力では、そのように生きることは困難です。キリストに頼らなければ、主なる神を喜ばせる歩みはできません。主イエスの復活によって救われていても、一人一人は罪あるものであり、教会は罪びとの集まりとも言えます。

マルチン・ルターは、『赦された罪びと』と表現しています。教会の真理は、キリストの真理であり、教会の聖さはキリストの聖さなのです。このお方により頼み続けてこそ、真理の証人とされます。」と説いている。

教会は異端や異教、信仰的脱線から戦い続けなければならない。そのためにも、一人一人が自分の内に持つ「ご利益信仰」から抜け出さなければならない。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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テモテへの第一の手紙 3章8~13節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。(9節)>

「執事職も厳しい審査が指示されています。執事の務めは、教会からの委託のもとに貧しい人々の援助や、病人の世話などの奉仕をする務めであります。神の恵みによる救いをしっかり心に抱き、信仰から出る真実の愛においてその務めが果たされなければなりません。」と渡部牧師は書き出される。

執事の起源は、使徒言行録6章に記される。使徒たちはヘブライ語を使う人々とギリシャ語を使う人々の間で、日々の食事の配給に苦情が出た時に、このことに専任して奉仕する人が必要となった。使徒たちに求められる務めは、主として祈りと御言葉の奉仕であった。

しかし、人々の肉体の必要に仕える働きも大切だと考え、これに使徒たちがあたると祈りと御言葉の務めが疎かになってしまうとして、両方を疎かにしないため、物質面の必要に専心する執事が7人選ばれた。その際に、信仰と聖霊に満たされ、その生活においても信頼されている人たちが選ばれた。

「この人々もまず審査を受けるべきです。その上で非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。(10節)」と、おもに7つの点が上げられる。

「品位のある人」人との関係において自制心があり、怒らず、思いやりをもって冷静に人との会話ができる人。「二枚舌を使わない人」相手によっていう内容を変えて都合よくふるまう人であってはならない。会員同士の調和に仕える時、二枚舌はどちらからも信頼が得られない。

「大酒を飲まない人」「恥ずべき利益をむさぼらない人」は、いうまでもない。「きよい良心の中に秘められた真理を持っている人」執事は一般のボランティア活動ではない。キリストの恵みによる信仰に応えて、キリストの愛によって奉仕する人である。

「人を中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人」婦人たちにも同じように言われているが、この婦人は執事のことか、執事の妻のことなのかはわからない。噂話を流さないようにと言うことなのか、それなら、男性についてもいえることだと思うけれど…。

「一人の妻の夫で、自分の家族をよく治める人」夫婦関係や親子関係が良好であること。自分の家庭をよく治めない者には、教会の霊の家族を治めることができないとされた。

私たちの教会で長老・執事選挙の時、この7つの条件を吟味しない。選挙で選ばれても、家の事情や、自分の体力・知力、仕事等々の理由で辞退する人がいるのだから。

K牧師は「これらの条件をすべて備えている人はいるでしょうか。完全な人は誰もいません。しかし、それでもなお奉仕者の資格が記されているのは、そこに向かうことが主にあって求められているからです。ですから、奉仕者は祈って、たえず上からの恵みと知恵を求める人なのです。」と話された。

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テモテへの第一の手紙 3章1~7節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。(1節)>

「教会の役職についての指示が行われています。まず、監督の職についてであります。教会の指導者である監督の職は、神の教会をあずかる大変良い仕事であります。その良い仕事が、人々の非難を受けることのないよう、その職を望む人は十分注意して選ばれるべきとされます。」と名嘉牧師は書き出される。

「監督」と訳されている「エピスコポス」という言葉は、ローマ・カトリック教会では、司教と訳している。プロテスタント教会では、牧師・長老・役員と訳し、その地に置かれている教会の指導者、宣教長老としての牧師と教会を牧師と共に治める治会長老をさす。

「監督の職を望む者」は、支配するというより、いわば神と人とに仕える生き方を望む者であり、それはもちろん良い仕事であり、神の民として望まれる生き方である。けれども、仕えることには必ず自己犠牲が伴うのである。

解説書は「人は身分として指導者を求めるが、神と人とに仕えること、いわば愛と自己犠牲を進んで求める人は少ないかもしれない。身分だけを求めることは広い門であり、仕えることを求めるのは狭い門である。」と説く。

私たちの教会では、定期総会において長老、執事が選挙によって選ばれる。長老は現住会員の2/3、執事は1/2の推薦数が満たされなければならない。

選ばれた者には、指導者としての資質が求められる。一つは家庭をよく治めている人、二つ目は、信仰に入って間もない人でないこと、三つ目は教会以外の人々から良い評判を得ている人だとパウロは列挙する。

「自分の家庭をよく治め、常に品位を保って、子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。(4.5節)」

今の世に、このように要求されて、簡単に長老が選出できるのだろうか。私たちの教会でも、夫妻揃って礼拝される人は少ないし、自分も含めて子供への信仰継承ができている人は少数だし、離婚経験者も少なくない。社会的に評価されている人はかえってそちらが忙しく、教会奉仕にまで手が回らないのでと、長老職を辞退される。

だから、私たちの教会で選ばれた人々が必ずしも優秀で、教会員に尊敬されているといえないかもしれない。けれどその姿は、12人の弟子の姿だと思っている。

解説書は「弟子たちはその宣教に関しては絶え間なく攻撃されていたが、彼らの品性に関しては攻撃されなかった。それは彼らの生活が非の打ちどころのないものだったからではないか」と説いている。

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テモテへの第一の手紙 1章18~20節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とをもって。(18.19節)>

解説書は「誰でも神に従って生きるなら、必ず悪魔と、この世に対して霊的な戦いがあります。むしろ、信仰の戦いがないなら、それは世に属する歩みをしていないかと、自分自身を疑わなければならないことです。信仰の戦いをしていないなら、悪魔の方が、あなたを無視するくらいに、信仰の歩みをしていないことになります。」と書き出している。

「・・・信じる人々の模範となりなさい。わたしが行く時まで、聖書の朗読と勤めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。長老たちがあなたに手を置いた時、預言によって与えられたのです。(テモテ4章13.14節)」

旧約の時代から、主なる神は預言者を通して、神の民がどのようにこの世において歩めばいいのかを語り掛けられていた。その御言葉を受け預言者たちは、人はどのようにして、神の望むように生きるべきかを教え導いてきた。

テモテへの異邦人地域のエフェソの教会の責任者としての派遣は、預言者たちの御言葉の導きがともなっていた。それは、彼にとって神に対してその勤めを忠実に果たしていくうえでの大きな力であり喜びであった。

しかし、神の民が神の望むように生きることを妨げてきたのが、悪魔であった。その例としてヒメナイとアレクサンドロがいたとパウロは名を上げる。彼らは、正しい信仰と正しい良心を捨て、その信仰が挫折してしまった。

ヒメナイについては「彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。(テモテⅡ2章18節)」アレクサンドロについては「銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主はその仕業に応じて彼にお報いになります。(テモテⅡ4章14節)」と記している。

2人はかつては「正しい信仰と正しい良心を」持っていたが、悪魔によってその信仰が挫折してしまった。「挫折」の原語は、船が難破し港に着くことができない状況の意味がある。

パウロは、テモテには福音宣教において預言を受けた事実と、またパウロ同様、神によって召されていることの召命感を持ち続けるようにと励ました。更には偽預言者たちと戦い、健全な教えを保つことを勧めた。

信仰の良き戦いをするためには、神の御心に従う信仰がなければ対抗できない。K牧師が「信仰と正しい良心を養い続けるためには、どうしても定期的に神の御前に静まる時が必要です。牧師には特にそれは重要です」と話されたことがある。

マザー・テレサは「神は成功させるために、わたしを召されたのではなく、従わせるために召されたのです。」と言われている。

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テモテへの第一の手紙 1章12~17節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(16節)>

パウロは、「わたしは、その罪人の最たるものです。(15節)」と現在形で、テモテに伝えることに躊躇しなかった。エフェソ教会の現状を伝え、その牧会に向かうテモテのことを思い、気落ちすることなく勇気をもっていくようにと励ました。

パウロはかつて、神の教会を迫害し、次々とキリスト者を投獄した。神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者であった。そのパウロが、神の憐れみと力によってその罪が赦されただけでなく、キリストを宣べ伝える者として変えられた。その神の力は、テモテに対しても同じように与えられるのだと、テモテを励ました。

パウロは自分自身のことを「わたしは、その罪人の最たるものです。(15節)」という度に、自分の救われる前の姿を思い出し、自分の罪の深さを思った。そして、自分の醜さに対してのキリストの憐み深さへの感謝。自分の救いと召命の体験を語ることは、神の栄光であった。

今日の個所は、感謝に始まり、「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン(17節)」自分は罪びとの頭であるという度に、パウロはこの感謝と頌栄に導かれていく。

解説書はパウロがいう「罪びとの頭」について、「たとえどんな邪悪なものであったとしても、誰にも絶望する必要がないのです。パウロがこの言葉を言う時に、どんなものに対しても、諦めや絶望は不要なのだと私たちを勇気づけます。自分の失敗を語ることは、他の人が希望を持つことを可能にすることを彼は知っていました。」と説いている。

また、この言葉についてK牧師は、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、却って自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ書2章)」を説かれている。

「罪人の頭と自分を覚えるなら、その罪を赦すためには、栄光の神キリストが滅びる者のために、見える形を取り、限りなく身を低くされたことを覚えさせます。」と。

自分の弱さや貧しさ、特に醜さは自分自身良く知っているつもりなので、何かの折に周囲の者から指摘されると「あなただって…」と反論してしまう。けれども、そういう弱点を神は憐れんで下さり、人をその使命に相応しい者へと変えて下さるらしい。

讃美歌の「amazing・grace」は奴隷船の船長であった人が作った曲だと聞いている。

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