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マタイによる福音書 11章25~30節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」 (24節)>

「『だれでもわたしのもとに来なさい』。主イエスはすべての人をご自身のもとへと招いておられます。これは『大いなる招きの言葉』と言われています。主イエスはわたしたちを神との完全な交わりの中にある永遠の平安へと招き入れて下さるただ一人のお方です。」と山下牧師は書き出される。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。(25節)」。主イエスは神を父と呼ばれる。主イエスは私たちと同じ人間であるに関わらず、神と同じであり、神の独り子である。

「天地の主」の「天」とは物理的な空のことではなく、神が造られた世界のうち、人間の目に見えない領域のことであり、「地」は陸のことではなく、見える領域のことである。主イエスは、世界が神の御支配のもとにあることを明らかにされた。

神が救いのご計画に従ってパプテスマのヨハネを遣わされ、また主イエスを遣わされて、最後の決定的な救いを行われたことは、知恵のある者には見えなかった。神の救いが罪人の救いであり、十字架の死にあるというのは、人間的な知恵では受け入れ難いことだった。

他方、律法を知らず、また知っていても守れない者には、主イエスの十字架が神の憐みであり一方的な恵みであることを示され、彼らはそれを信じることが出来た。それは偶然のことではなく「御心に適うことでした。(26節)」と祈られた。

次に主イエスの祈りは、父なる神とご自身が聖なる親子関係に立ち「全てのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知るものはいません。(27節)」と続けられる。

その絶対的な聖なる親子関係の中に「疲れた者は誰でも…休ませてあげよう」と、罪にまみれた人間が無条件で招き入れられる。

「ユダヤ人を律法の重荷から、すべての人間を罪の重荷から解放して下さるのです。主イエスは私たち人間の重荷の全てをご自身が代わって担って下さる救い主として、私たちと共に歩んで下さいます。」と山下牧師は結ばれる。

T牧師は「主イエスの下での安息は重荷がなくなるということではありません。『わたしの軛を負え』とは、主イエスの柔和、謙遜から、御言葉に耳を傾け、神に従う心を学ぶことです。主が私たちの重荷を負うて、共に歩んで下さるのですから。」と説かれた。

今日の祈祷会は「律法は、キリストによって救われた者が、新しく生きるための規範としてある。また、救われた者がどのように神に感謝すべきか、その良き業が律法を守ること。」だと教えられた、ものの、深い意味を持ち簡単に理解したとは言えない。

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マタイによる福音書 11章20~24節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<「しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりもまだ軽い罰で済むのである。」(24節)>

「主イエスは、町々村々を巡り神の国の福音を宣べ伝えられました。そして同時に人間が神の国に生かされていることを具体的に示すため、奇跡の働き、体の癒しをされました。それらの目に見える業によって、神の国に生かされている幸いを明らかにされたのです。いわば、奇跡は主イエスによるストリート・パフォーマンスのようなものです。」とT牧師は話された。

神はイスラエルの民を救うため、またさらに彼らを通してすべての民に救いが及ぶために、次々と預言者を遣わされた。しかし、イスラエルの民は悔い改めなかった。それでも、神は大きな忍耐をもって最後の預言者としてパプテスマのヨハネを遣わされた。

「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。(マラキ書3章)」

主イエスは神の救いのご計画の最後の方として現れ、決定的な救いの御業を行われた。「ガリラヤの町々で主イエスがなされた奇跡は、神の愛によるご支配と記された巨大な掲示板のようなものです。しかしそれでも、『町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。(20節)』というのです。」とT牧師は続けられた。

「町々が悔い改め…」と町が擬人化されて、奇妙な感じがする。普通に考えると、個々の人が主イエスに出会い、癒されていくのだから、個人が悔い改めをしたかどうかが問題だと思うのだけれど、ここでは民の共同体に悔い改めがなかったと叱られることになる。

T牧師は「主イエスの救いは個人的なことに留まらず、その人が属する共同体の救いへと展開してゆくのです。また『悔い改め』は、個人が後悔の念に浸ることではなく、主の招きに応じて生活全体を主イエスへと方向転換することです。だから悔い改めは、自分が罪人であることを認めて、そのような己を主に差し出すことなのです。」と説いて下さった。

主イエスが名指しして叱られるコラジン、ベトサダ、カファルナウムは、ガリラヤ湖周辺の町であった。「お前は不幸だ」と主イエスは嘆かれる。それは、誰かの前で愚痴を零すようなものではなく、神の御前で嘆かれ、町々の運命を神の裁きの下でご覧になっているということである。

「カファルナウム、お前は、天にまで上げられると思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。…(23節)」繁栄する町カファルナウムが、主イエスの目には慢心の町、裁きを待つ町でしかなかった。

「陰府」と聞くと、地獄の釜や針の山なんかを想像するが、そうではなく「神との交わりが完全に断たれてしまうこと」である。旧約に登場するソドムは、神に滅ぼされた町として蔑みの対象であった。しかし、今、そのソドムさえ三つの町よりも「まだ軽い罰で済む」と嘆かれる。それほどに町は主イエスの前に傲慢でであった。

ところで、私たちの国はこの三つの町と似ていないだろうか。

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マタイによる福音書 10章26~31節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。 (30.31節)>

「主イエスは弟子たちに三度(26.28.31節)『恐れるな』と命じられます。神の国の福音を宣べ伝えるためにこの世に派遣されていく弟子たちには、確かに恐れなければならないような事態が待ち構えています。彼らは平穏無事な道だけを選んで進むのではありません。むしろ、罪と暗黒に支配されているこの世へと出て行くのです。」と山下牧師は書き出される。

まず、恐れてはならないのは「人々」。それは、ユダヤの指導者やローマ帝国はもちろん、家族を始めすべての人々だと。そしてその理由は「覆われているものは現わされ、隠されているものは知られる」からだと言われた。今は覆われ隠されているが、やがては現れ、知られることになるからだと。

人々は主イエスの弟子たちを、ガリラヤの漁師「無学な普通の人(使徒書4章)」としてしか見ていなかった。また、主イエスのこともガリラヤ出身のラビ「ヨセフの子(ルカ書4章)」としてしか認識していなかった。このお方が神ご自身であるということは、覆われ、隠されたままであった。そのことが現わされ、知られるのは十字架の死と復活である。

また、暗闇で主イエスがいわれたことを、明るみで言うように、耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めるようにと言われる。これも、わけのよくわからない言葉だ。

T牧師は「暗と明の対比は、主イエスの苦難と死、そして弟子たちにおける復活証言を指しているのではないでしょうか。神の裁きは十字架において主が引き受けられ罪の赦しをもたらすから、弟子たちは、罪の赦しによる神の支配を語るように命じられているのではないでしょうか。」と説かれた。

そして次の「恐れるな」は、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」である。迫害する者たちの力の限界を告げられ、神の無限の力を明らかにされる。

その神の力は、食用として売られている雀一羽さえ、父のお許しがなければ地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも、一本残らず数えられている。だから「恐れるな」と言われた。雀のことさえ憐れまれるお方が、それに優るあなた方を御心におかれているのは間違いのないことだと。そのお方がいつも、あなたがたと共におられるのだと。

T牧師は「誤解を恐れずに言えば、いわばキリストの命の値段とわたしの命の値段は、等しいとまで言って下さっているのです。人々を恐れず、神を恐れるというのは、実は、主イエスにおける神の愛を受け止め続けることに他なりません。」と言われた。

暑中見舞い状は、期間が長いので手書している。知人はノンクリスチャンがほとんどなので、最後に「…お祈りしています」と結びの言葉を入れる時、この言葉に先方は「拝む」という風に受け取るんだろうと思ってしまい躊躇してしまう。

「恐れるな」と教えられながらこんな些細なことでさえ、人を恐れてしまっている。

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マタイによる福音書 10章16~25節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(16節)>

「弟子たちは神の国の福音以外のものを何一つ持つ必要はありません。福音が彼らの宣教活動を支え、導き、すべての必要を満たすからです。福音がすべての家と地域と国に、真実の平和をもたらすのです。彼らは福音だけを携えてこの世へと派遣されます。」と昨日の個所を山下牧師は結ばれた。

そして今日の個所は「迫害を予告する」とタイトルが付けられている。マタイ書は80年代に成立したことから推すと、主イエスが、これから彼らが直面する迫害にどう対処するかを語っているだけではなく、今、迫害のただ中を歩む弟子たちに語られる御言葉でもある。

主イエスは迫害を狼の群れと羊に例えられる。迫害は偶然に起こるものでも、また不信仰に対する罰のようなものでもなく、迫害もまた神の御計画の中のことである。最終的には神がその責任を負われることである。

「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子がそれを導く。(イザヤ書11章)」天の国の姿、救いを完成する時を展望して歌われる。

しかし、弟子たちが派遣されるこの世、そして、今まさに我々が生きているこの世は、弱肉強食、経済優先による貧困問題、イザヤが歌う天の国の姿はどこにもない。だから、神によって造られた生き物のうちで、最も賢いと創世記に記されている蛇のように賢くと命じられる。

また、「鳩のように素直に」と鳩はノアの箱舟に、何より主イエスが洗礼を受けられたとき「聖霊が鳩のように下った」として登場する。「素直」と訳されている原語は「混じりけのない、純真な」を意味する。自分の弱さや醜さも含めて自分を差し出してゆく姿勢を「素直」というのだろう。

その上で「人々を警戒しなさい。(17節)」と言われる。隣人を愛するようにと勧められながら、何とも寒々とした言葉だと思うが、目を見開き、耳を澄まして、良く見聞きし、さらにこれから遭遇する迫害の成り行きを注視することを求められた。

それでも彼らは、ユダヤ当局に引き渡され、鞭打たれ、「また、わたしのために、総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しすることになる。(18節)」と告げられる。自分がこの場にいたら…、いや、この場からとっくに逃げてしまっていただろう。

T牧師は「つまり、迫害はその成り行きを見ていると、主イエスを証しする機会となっていくのです。だから、迫害に直面したら一巻の終わりではなく、むしろ証しするチャンスなのです。ここに『引き渡し』は実際の迫害であると共に、証への引き渡しなのです。」と説かれる。

高齢者たちが集まると、自分も含め「いつ死んでもいい」という人が多い。そう思うと、「引き渡され、鞭打たれ、証して死ぬ。」のは絶好の花道で「悪くないな」と思った。

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マタイによる福音書 10章5~15節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい。」 (5.6節)>

「十二弟子の招集に派遣が続きます。新しいイスラエルである教会の民も、招集と派遣を繰り返して神の国の福音に仕えます。主の日ごとに、わたしたちは教会の頭であられる主イエスによって、遣わされているそれぞれの場から呼び集められ、礼拝の民として結集させられ、福音を携えてこの世へと派遣されます。」と山下牧師は書き出される。

主イエスは弟子たちに力を授けられた後、彼らを伝道へと派遣される。それは弟子たちから見ると、自分たちの意思で始めるものではなかった。伝道は人間の意志によって開始するものではなく、主イエスが始められ継続されてゆく神の事業なのだと気づかされる。

弟子たちはこの世に向かって罪の赦しを告げるようにと、主イエスに派遣された者たちであり、この世に開かれた群れである。彼らが告げる福音によって、この世の交わりが大きく変革し、新しい方向性と意味が与えられ、新しい交わりが生み出されてゆく。

主イエスは彼らに、異邦人の道に入ることと、サマリア人の町に入ることを禁じられ、「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。(6節)」と命じられる。

御言葉は「地の果てまで…」と度々聞いているので、どうしてこの時、異邦人を避けるように命じられたのか意外に思うが、S牧師は「伝道は神の事業なのです。そこには神の救いのご計画に基づいた順序があるのです。アブラハムを選び、イスラエルを形成し、そしてこの民を用いて神の祝福の伝播があるのです。」と言われた。

その基となるイスラエルの民は神の御心から逸れ「迷える羊」であった。指導者たちは、人が律法を全うすることによってしか神の義を受けることは出来ないと教えていた。律法が神の恵みを示すものでなく、人が救いを得るための方便として取り扱われていた。

そこで主イエスは、彼らが語るべきことまた行うべきことを命じられる。まず「天の国は近づいた」と宣べ伝えるようにと言われる。「天の国」とは、神の御支配のことであり、イエス・キリストご自身のことだと、牧師から教わったが、言葉はやさしいが、難解だ。

「神が御支配されるのだから、この世の罪は裁かれるのです。そしてそれは人間の知恵による体制批判や悪の告発よりも徹底しています。それは神の裁きだからです。神の裁きは「私」に対してではなく、御子イエスの上に下されたのです。」とS牧師は解説される。

「全ての人間が神の民に加えられ、神との交わりに生きるため主イエスは十字架にかかられた。ここに主イエスが父なる神と一致して、人間を愛して下さることが明らかです。神の御支配とは、その意味で贖罪愛による支配なのです。と続けられた。

まず「天の国は近づいた」と宣べ伝える。それが自分にできるだろうか。周りの反応をすぐに意識することから、自分を解放しなければ・・・。

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