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テモテへの第一の手紙 1章8~11節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<今、述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音を委ねられています。(11節)>

「エフェソの教会には、律法の教師を名乗って活動している人々がいました。彼らは、清い心と正しい良心と偽りのない信仰から出てくる愛を中心とした、信徒の交わりこそが福音にふさわしいものであることを、理解していませんでした。」と名嘉牧師は書き出される。

解説書は「律法は、神の意志にかなって用いられるなら、本当に良いものである。しかし、それが正しくない用い方をすると、それは人を縛りかつ神の御心に適うことはできない。「良いもの」と訳されたギリシャ語は「目的に適って美しい」という意味を持つ。モーセの十戒は、旧約時代の「幸福論」とも言われている。」と説いている。

エフェソの町の偽教師たちは、律法の教師としての名声を望み、その目的を理解しようとはしなかった。律法そのものは、人を救うことも、生まれ変わらせることもできないのに、彼らは人々に、律法を守ることによって、人は救われ変えられると教えていた。

それは間違いで、律法は何が正しく、何が間違っているのかを判断し、それによって人が救われ、矯正される方向を示すものとして用いられる時に、良いものとなる。律法は正しい者たちのために与えられているのではなく、むしろ正しくない者たちのためにある。

律法学者が主イエスに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねた。主イエスはお答えになった。「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』…(マルコ書12章)」

律法を守るのは、義務感や、罰を恐れるからではない。キリストの愛である福音は、聖く、義であり、正しく裁かれる神がどのようにして恵みの神、憐れみの神、愛の神であるかを示している。自分の力では出来ないことが、主の十字架の犠牲を覚え続けることによってはじめて可能になる。

偽教師たちは、律法を教えながらその生活では、それを否定するような生活をしていると、彼らの罪のリストが上げられる。このリストはモーセの十戒に照らして展開される。十戒の前半は神との関係に関することであり、後半は人との関係に関することである。その順序に沿って、神との関係における罪、人との関係における罪が指摘される。

私たちの教会では今年十戒を学んでいる。そこで、戦時中、すべての教会教派が一つにさせられ、組織された日本キリスト教団が、礼拝の初めに宮城遥拝を行った事、韓国の人たちに神社参拝を強要したことを改めて知る。日本キリスト教会の犯した罪であると同時に、各個教会の、さらに言えば教会員一人一人が犯した罪である。

キリスト教徒として、罪を犯すと、それは神の律法を破ることだけではなく、愛の神の心を破り、悲しませることであることを常に心に止めなければならない。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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テモテへの第一の手紙 1章1~7節 [新約聖書 テモテへの第一の手紙 ]

<わたしたちの救い主なる神と、わたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして、平和があるように。(1.2節)>

「使徒パウロは第二伝道旅行の時、ルステラの教会でテモテに出会いました。祖母から母へと受け継がれた信仰を受け継ぎ、教会で評判の良い若者でした。このテモテをパウロは伝道旅行の同伴者として仲間に加えることにしました。」と8月家庭礼拝担当、熊野伝道所・宇久井伝道所を兼牧される名嘉早苗牧師は書き出される。

この手紙は、パウロが書いたものではなく、むしろ、この手紙にある教会の組織構造や教えから、パウロの死後、一世代もしくは二世代を経てから書かれたと思われる。弟子が師の名で書き、師を称えるのは、古代世界では普通の事であった。と解説書にあった。

「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は私の愛する子で、主において忠実な者であり、至る所のすべての教会で私が教えている通りに、キリスト・イエスに結ばれた私の生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。(コリント書Ⅰ4章)」

ユダヤ人キリスト者の母と、異邦人の父を持つテモテは、まだ20代であったがその信仰は堅く、パウロの同労者として最後までパウロの宣べ伝えた福音に忠実であった。彼はパウロの殉教の時まで、パウロに寄り添い、慰めをもたらす同労者であった。

「このようなテモテに、パウロは重要な任務を与えます。それはエフェソ地域の教会を指導し、様々な誤った教えから教会を守ること、教会の奉仕の務めを確立し、教会の秩序を整え、教会を堅固にすることです。」と、名嘉牧師は説かれる。

初代教会は1世紀を過ぎるころから変化してきた。教会の指導者たちはローマ帝国によって投獄されるか、あるいは処罰される危険が出て来た。教会内には、十字架上での主イエスの死と復活の福音という初めの教えにそぐわない教えが持ち込まれてきた。神を信じていると主張する人々の中にはすでに悪魔に陥れられている者もいた。

人権や自由などの考え方がなく、権力者の独裁によって全て治められていた時代、どんなに名君と呼ばれる善意の権力者であっても、彼の意に背くものは弾圧され、追放され、死の裁きを受ける。それでもなお「福音」を宣べ伝えていった人々の信仰に感嘆する。

先日のC牧師の講演で「福音を恥としていませんか」と問いかけられ、周りの者から十字架の死と復活を「荒唐無稽、一神教の怖さだ」と一笑されて、いい加減に誤魔化してしまう自分に気づかされた。

自由や人権が憲法において保証されている今の時代でもそうである。自分の死と引き換えにしてでも福音を宣べ伝える力ある信仰が、自分に与えられる日が来るのだろうか。

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マタイによる福音書 9章18~26節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」その時、彼女は治った。(22節)>

「ここには、主イエスに必死に助けを求める二人の人が出てきます。一人は指導者で、並行個所には『会堂長ヤイロ』と職業と名が記されています。彼の娘が病気でした。いや、たった今死んだところです。絶望のただ中で、彼は主イエスを思い出し、その日、本当に主イエスと出会ったのです。」と渡部牧師は書き出される。

会堂長は、会堂を管理し、礼拝の準備を整えるものである。ユダヤ社会において指導者として人々に尊ばれる彼が、人生の悲しみに、自分より若い主イエスを拝して願ったことは「娘を生き返らせて頂きたい」という願いであった。

18節以前を読むと、会堂司が主イエスのまえに突然現れ、ひれ伏したのは、罪びとたちが主イエスと出会い、言葉をかけられ、悔い改めて自分に従う者になった喜びの溢れる宴会が行われている最中だった。「おいでになって手を置いて下さい。・・・。」

娘の死を目の当たりにして深い絶望と死の圧倒的な力に彼は、信仰というよりも主イエスの噂だけで「藁をもすがる」思いで来たのかもしれない。けれども、主イエスは彼の必死さを憐れまれ立ち上がり、彼について行かれる。

一刻もと急がれる途上で、12年間出血が止まらない女性が「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と願い、近寄って来て、後ろから主イエスの服の房に触れた。彼女はその病のため汚れた者として共同体から締め出され、喜びとは無縁のものだとされていた。

「女がイエスの服に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは『私に触れたのは誰か』と言われた。…『先生、群衆があなたを取り巻いて押し合っているのです』と言った。しかし、イエスは『誰かが私に触れた。私から力が出て行ったのを感じた』と言われた。…イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』(ルカ書8章)」

ルカ書と違ってマタイは、彼女が服の房に触れたことによって治ったのではなく、「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』その時、彼女は治った。(22節)」と、御言葉によってであることを強調する。

会堂司の家に着くと、娘の死を笛吹きたちが告げていた。彼らを退けられ「イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。…(25節)」

半信半疑の彼らの信仰、ご利益を求めるだけの者、教会にも自分自身の中にもある。その上、自分は収税人よりも悪い者ではないし、伝染性の病気を持ってはいないと、他者と自分を比べて優越感を持とうとしている。

蟻の行列がすぐにできるこの頃、彼らの誰が逞しい蟻か、働き者の蟻かは区別がつかない。神が人間をご覧になる時も、そんなものかもしれない。

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マタイによる福音書 9章1~8節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。(2節)>

「主イエスはガダラ人の地方から、ご自分の町カフェルナウムにかえってこられました。そこに、中風の人が連れてこられます。ここでは単に病気の癒しだけではなく、罪の赦しの宣言もなされています。」と渡部牧師は書き出される。

帰ってこられた主イエスを見て「人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところに連れて来た。(2節)」自分で起き上がることもできない人の床を友人たちが担いで、主イエスのところに連れてきた。

病人も、友人の声もこの個所にはない。病人が友人たちに頼んだのか、それとも友人たちが、絶望して生きる意欲を失くしている彼を見てどうしてもそのままにしておけず、治してもらいたいと思って、床を担いできたのかここに記載はない。

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。(2節)」主イエスはこの病気の人の信仰ではなく、彼を連れて来た人々の信仰を見られた。主イエスを信じ、彼を治してほしいという一心で、連れて来た人々の信仰を重んじられた。

病気の彼に「子よ」と呼びかけられ「あなたの罪は…」と言われる。この「罪」の原語は複数形なので、いわゆる「原罪」ではなくて、日常において犯してしまった個々の罪、多くの積み重なった罪である。「元気を出しなさい。」大丈夫安心しなさいと言われた。

主イエスと彼らのやり取りを横で聞いていた律法学者の中に「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。聖書をよく読んでいる彼らは、罪を赦す権威は、神のみにあることを知っていたので、心の中で不思議に思った。

主イエスは、彼らの考えを見抜かれた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』というのと『起きて歩け』というのとどちらが易しいか。(4.5節)」いずれも容易くはない。主イエスはこの二つは関連した事であると考えられた。そこで、主イエスが地上で罪を赦す権威を持っていることを示すため、病人向かって言われた。

「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美した。(6~8「節)

「体の癒しは、なおひとときのものであるにすぎない。たとえ、み旨により病が癒されなくても、罪の赦しの恵みに与ることは素晴らしいことである。罪の赦しは、すべてに勝つことのできる永遠の平安を与えてくれる。」と解説書は結んでいる。

床を担いで、主イエスに癒しを願った人々の姿は、隣人のために祈ること、行動を起こすことを喚起させる。

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マタイによる福音書 8章28~34節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。 (34節)>

舟は向こう岸のガラダ人の住む地方に着いた。ガラダは異教の文化、習慣を持つ地域であった。主イエスが到着されると、「悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に凶暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。(28節)」

マルコ書5章に読むと、彼らは墓場を住まいとし、凶暴性を帯びた精神病患者として、人々に見捨てられ、鎖を課せられていた。「突然、彼らは叫んだ。『神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。(29節)』」

現代の頭で考えると難しいが、当時は精神の病は悪霊が取りついてその人を支配すると思われていた。だから、この叫びも彼らに取りついた悪霊の叫びである。悪霊は主イエスを「神の子」と見抜き、しかも自分を苦しめる存在であることを知っていた。その上「その時ではない」と、自分たちが完全に打ち負かされる「終わりの時」ではないのにと思った。

彼らは、主イエスを「神の子」と正確に理解した。けれども、終わりの時までは、悪に対して何もなさらないお方だと思っていた。悪霊の理解は残念ながら自分たちもそうかもしれない。悲惨な事故や災害、重病、政治の無力、悪の力が猛威を振るっているというのに、神は何もされない。終わりの日にすべてをお示しになるのだと、思っていないだろうか。

そうではない。悪霊が「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ(31節)」と願うと、それを聞き入れられ「行け」と言われた。彼らは、次は豚の中に住み着いて何とか生き延び、また機会があれば人のところに戻ってくればいいと考えていた。

「行けと言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。(32節)」主イエスは悪霊の願いを聞き入れられ、彼らに使われることを選ばれたけれど、結局、悪霊は主イエスに敗北してしまう。

豚飼いたちは驚いて町に行って事の次第を知らせた。すると、町中の者がやって来て、イエスに、この地方から出て行ってもらいたいと言った。二人の病人は治ったけれど、こんな調子で、自分たちの財産を全滅させられてはたまらないと思ったのかもしれない。

けれども、もう一つ危惧したのは、悪霊を追い出すことのできるのは悪霊の親玉だからに違いないと思ったのではないだろうかとA牧師は説かれた。彼らは異教の人々で真の神を知らないから、この悪霊の親玉が、この土地に長居することは看過できないことだった。

A牧師は、精神病患者と言われる人々は現在の医療によってできるだけの看護が与えられているが、今は別の形で例えば家庭内暴力、虐待とか、周りの人と交わりができず自分の殻にこもり、家族さえどうしていいかわからない状況の人々。本人ではなく悪霊の仕業ではないでしょうかと言われた。

主イエスはガラダの人々の懇願に、二人の人を癒して「枕する所もなく」帰って行かれた。

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