So-net無料ブログ作成

テサロニケの信徒への手紙 1 3章6~10節 [新約聖書 テサロニケの信徒への手紙1]

<あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。(8節)>

テサロニケ教会についてパウロが抱いた心配は大きかった。テサロニケでの彼の伝道は、信徒たちに十分な教えを与える間もないまま、まだこれからという時に妨害され中断を余儀なくされた。パウロを迫害する人々はテサロニケ教会にもその手を伸ばした。

「また、わたしの名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(マタイ書10章)」と主イエスは弟子たちに話された。

パウロは、キリスト信仰者は「患難に会うように定められている」とみ言葉を教えたものの、彼自身テサロニケに戻る可能性のないまま、教会が今でも生きているのか、迫害の中壊滅してしまったのか、早急に知りたいと思った。そのためにテモテを派遣した。

「居ても立ってもいられない、という思いを抱いていたパウロのもとに、テモテは『吉報』をもたらしてくれました。主にある兄弟姉妹たちが、患難の中でしっかりとした信仰の姿勢を保っているという知らせは、共に主の信仰に立つ者に福音となります。」と鈴木牧師は説かれる。

テサロニケ教会には信仰を保っており、教会ではキリストの愛が働いていた。教会はパウロを捨てることなく、彼を使徒として尊敬し、彼との再会を待ち望んでいた。テモテから伝えられた教会の挨拶を聞いて、パウロは自分が抱いていた恐れが根拠のないものだと知った。心配が一挙に吹き飛ばされ、彼は新たに生きる力を得ることが出来た。

「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。(8、9節)」

この挨拶を受け取ったパウロは前よりも一層テサロニケ教会を慕うようになり、彼らに会いたいと切に祈り続ける。しかし「あなたがたの信仰に必要なものを補いたい(10節)」とはどういう意味だろうか。よくわからない。

K牧師は「キリスト教信仰とは、すべてあるか、全く何もないのかのどちらかです。私たちが主イエスを信じるとき、私たちが神の前で必要とする一切のものを私たちはすでに所有しているのです。でも、このことは、各々のキリスト信仰者が必要としている教え、信仰を支えていくための教えが不要になるという意味ではありません。」と説かれた。

「信仰の言葉が反故となり、言葉が失われていくような時代の中で『主にあって』命のみ言葉を聞きとり、固くそこに立って語りだしていく兄弟姉妹によって「わたしたちは今生きる」ことになります。信仰の言葉を分かち合うのは幸いです。」と鈴木牧師は結ばれる。

教会の中でもいろんな事件が起こる。そのたび、兄弟姉妹と神のみ旨を確かめ合う。一人では出来ないことである。

日曜日はお近くの教会で礼拝をhttp://komatsu.church/index2.html どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


共通テーマ:

テサロニケの信徒への手紙 1 3章1~5節 [新約聖書 テサロニケの信徒への手紙1]

<このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身が良く知っています。(3節)>

1節は「そこで」という言葉から始まる。2章で「あなた方の顔を見たいと切に願っていた」パウロは、もはやがまんできなくなり、彼だけがアテネにとどまり、彼の同労者テモテをテサロニケに派遣した。そして、苦難に遭っている彼らを励ました。

テサロニケの教会ではユダヤ人たちによる激しい迫害があった。パウロは「誘惑する者があなたがたを惑わし、私たちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るためにテモテを派遣した(5節)」と語っている。

彼らがそうした事態に直面してどんなに気弱になるかを、またその弱さに付け込んで誘惑者であるサタンがどんなに巧妙に働きかけるかをパウロは知っていた。彼らは全能の神を信じる者として、神が共にいて助けて下さることを信じていた。しかし、同時に困難に遭遇するとすぐに躓いてしまう弱さを持っていることも知っていた。

先日の名護市の市長選を思い起こす。多くの人が米軍基地の一日も早い撤退を望みながら、抗議の声を上げることに疲れ、経済的援助が絶たれたことにも疲れ、その状態からの脱出を望んだ。巧妙なサタンがその状況を見逃すことなく勝利した。上空からの落下物に怯え訓練する小学生たち、そのことに対する大人たちの答えだとしたらあまりにも情けない。

沖縄の多くの教会は基地撤退を願い祈っている。でも、その結果に「神は何もしてくれない」と教会を去る人もいるだろう。しかし、すべてが神の御心であるならば正しい答えが与えられる日が来ると信じている。沖縄の教会のために、動揺することがないよう、信仰に固く立ち続けることが出来るよう、今日の祈祷会で祈りを合わせた。

パウロの時代、アテネとテサロニケの交通手段は何だったのだろうか。パウロはテモテを派遣し、彼がテサロニケの信徒たちと顔を合わせて励ますことを望んだ。彼らにとって励ましは、「祈っています」といった手紙だけの交わりではなく、実際に会って顔と顔を合わせ、手を握り合い、声を掛け合う交わりであった。

「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。わたしたちの喜びが全きものとなるためです。(Ⅱヨハネ書12章)」と使徒ヨハネも語っている。

パウロは「わたしたちが苦難を受けるように定められている(3節)」事を伝えて信仰に堅く立つように励ました。「患難と危機においてこそ、福音の真理と命が、新しい救いとしてまた御言葉として、私たちに明らかにされるからです。」と鈴木牧師は結ばれる。

顔と顔の交わりは楽しいが失敗も多い。失敗に捉われすぎるとついつい簡便なメールになってしまう。交わりは難しい。

日曜日はお近くの教会で礼拝をhttp://komatsu.church/index2.html どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


共通テーマ:

テサロニケの信徒への手紙 1 2章17~20節 [新約聖書 テサロニケの信徒への手紙1]

<わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。(19.20節)>

「使徒言行録17章に、パウロのテサロニケ伝道が記されています。しかし、ユダヤ人たちの妨害により、わずか3週間でそこを逃れなければなりませんでした。」と鈴木牧師は書き出される。

パウロはテサロニケに戻って来て彼らに会いたいと願っていたが「サタンによって妨げられました。(18節)」と記している。それはユダヤ人の妨害に重ねて、パウロ自身の体調や異邦人伝道によって生じる様々な問題への対応に時間を取られたのだという説もある。いずれにしても、それらは神の働きを妨害するサタンの仕業であるとパウロは考えていた。

K牧師は「それは、私たちもよく経験します。礼拝に行こうとしたら急に来客があったとか、聖書を読もうとしたら電話があったとか、体がだるくて祈ることが出来なかったとか。そういうことはよくあることです。ですから、私たちの背後にはサタンの巧妙な妨げがあると言う事を見て、戦っていかなければならないのです。」と話された。

様々な困難があり、テサロニケの信徒たちと会うことが出来ない状況であったが、パウロは落胆しなかった。「兄弟たち、私たちはあなた方からしばらく引き離されていたので…顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが…(17節)」と語っている。

キリスト者には「祈りによる交わり」という賜物がある。Sさんの母上(お目にかかったことはないが)重篤だと聞いて、礼拝の後みんなで祈った。東日本大震災など世界で起こる自然災害や、難民問題、子供たちの問題など、世界中のクリスチャンの祈りが支援となる。

テサロニケの信徒たちに今は会うことが出来ないが「主イエスが来られるとき(19節)」必ず再会する。それは、ただ目に見えないだけで、神の国での永遠の再会に比べれば、会えない時はほんのしばらくのことであった。やがて主が再臨される時、文字通り顔と顔を合わせることが出来る、その希望で主の再臨を待ち望むことが出来るのだとパウロは語った。

「ですからパウロは、もう一度テサロニケの信徒たちと、信仰の喜びと希望である福音の、死を超えるいのちの約束を分かち合いたいと願い『わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びの誇りの冠となる(口語訳聖書)』と語ります。彼らの信仰が、やがて来て下さるキリストの時にも確かなものであることを喜びとして語り、伝えています。」と鈴木牧師は結ばれる。

今日はほんとに寒くて外に出るのが億劫だったが、教会の姉妹に頼まれていたので出かけなければならなかった。こういう時「自分は神に試されているのかもしれない。」と考えていたが、サタンから試されていたらしい。今日はサタンに勝つことが出来たが・・・。

K牧師は「望みと喜びの誇りの冠になりましょうね。」と励まして下さった。

日曜日はお近くの教会で礼拝をhttp://komatsu.church/index2.html どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


共通テーマ:

テサロニケの信徒への手紙 1 2章13~16節 [新約聖書 テサロニケの信徒への手紙1]

<このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いた時、あなたがたはそれを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また信じているあなたがたの中に働いているものなのです。(13節)>

「パウロの伝えた言葉を、テサロニケの信徒たちが『神の言葉』として受け止めたことを、パウロは神に感謝しています。宣教の言葉と言っても、欠けある人間の言葉なのですが、そこに神が働いて下さって、夫々の中に確かな神の生きた言、神の命の言葉をもたらしてくださいました。」と鈴木牧師は書き出される。

パウロは福音を委ねられたものとして、「迷いや不純な動機に基づくものでなく(3節)」また「人に喜ばれるためでなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。(4節)」語った。そのパウロの宣教の働きにテサロニケの人々は真実に応答した。

彼らはそれを「人の言葉としてではなく、神の言葉として…」というのは具体的にどういうことなのか。K牧師は「それは、ただ単に知的に認めるというレベルではなく、絶対的な真理として受け入れると言う事です。」と話された。

そして「こうではないかといった憶測や、こうあるべきと言った自分の考えを捨てて神の言葉の通り生きようとすることです。説教者の言葉にどんな感銘を受けたとしても、それが単に良い話とか感動的だったというレベルに留まっている限りでは、人の言葉なのです。神の言葉とは聞いて受け入れ、聞いた言葉の通りに生きることなのです。」と説かれた。

テサロニケの信徒たちはそのように受け入れ、神を喜ばせパウロたちに励ましを与えた。

「知っての通り、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。(2節)」彼らはパウロたちの激しい闘争を眼の前にしても、神を信じることができた。

彼らが人の言葉を神の言葉として受け入れた結果、「事実、それは神の言葉であり、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。(13節)」神の言葉がその人を動かし変化をもたらしていった。神の言葉がその人の内に働いて、彼の生活を一変させる。

「神の言は、わたしたちの思いを絶対的に超えた神の御心です。わたしたちの思いを絶対的に超えた神の御心のゆえに、頑ななわたしの救いがあります。この神の御愛に心が開かれる時、神の言のいのちがわたしたちの一切に満ちて下さいます。」と鈴木牧師は結ばれる。

昨日の礼拝は、牧師不在のためI長老が講壇を守られた。礼拝前の祈祷では説教を語る者にまた、耳を傾ける会衆一同にも豊かな聖霊の注ぎがありますようにと祈られた。聖霊の働きがなければ礼拝説教が「良い話を有難く聞いた」ということになってしまう。

聞いて従うことが出来ないのは、ほんとに聞いていないことなのかもしれない。

日曜日はお近くの教会で礼拝をhttp://komatsu.church/index2.html どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


共通テーマ:

テサロニケの信徒への手紙 1 1章6~10節 [新約聖書 テサロニケの信徒への手紙1]

<そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもってみ言葉を受け入れ、…更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救って下さるイエスです。(6.10節)>

「『多くの患難』は、これまでの自分の慣れ親しんだもの、自分の理解や思いを打ち砕きます。しかし、そのところで、聖霊なる神が豊かに働いて下さって、全く新しい御言葉の喜びを与えて下さるのです。」と鈴木牧師は説かれる。

福音は力と聖霊と強い確信とによってテサロニケの信徒たちにもたらされた。一体彼らは、周囲が偶像礼拝を続ける中、それをどのように受け入れたのだろうか。地域の神社ではお正月は勿論、1月は次々とお祭りがあり、それが楽しそうに報道される。そんな中、キリスト教伝道なんてとても無理だと思ってしまう。

主イエスは弟子たちに「あなたがたが平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。(ヨハネ書16章)」

K牧師は「けれど、そういう中にあってクリスチャンは喜ぶことが出来るのです。なぜでしょうか。それは聖霊が与えられて、聖霊によって喜ぶことが出来るからです。たとえ、外側から多くの苦難があっても、聖霊によって内側から喜びが溢れるのです。」と話された。

喜びは、健康な時、経済が潤っている時、友人知人に恵まれている時、その他思い通りに事が運んでいる時、自分の周りでは「贅沢言えば切りがないが、感謝せんとね」と言ったりする。でも、それらが全くなくなれば、感謝も喜びも吹っ飛び時には人を妬む。

聖霊によって与えられる喜びは、周りの状況によって奪い取られることがない。裏切られたり、見捨てられたりして萎んでしまうような喜びではない。「内側から溢れる喜び」だと、K牧師は話される。そのような喜びをテサロニケの信徒たちは持っていた。

「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州とアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至る所で伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。(8節)」パウロの喜びが読むものに伝わる。

「響き渡った」ラッパの響きが広がっていくのに似ているが、訳では過去形になっているが、「響き渡り続けた」と言語ではなっている。ずっと鳴り続け、広がり続け、家に閉じこもっている者にも、戸外で働き続けるものにも広がって、福音は届けられていった。

そんなことが私たちの教会で出来るのだろうか。教会の近くの神社で野球とサッカーのチームがそれぞれ「必勝祈願」のために参拝したと報道されていた。献げ物や畏まって拝んでいる選手たち、大勢の人々が映された。私たちの国ではこれが「信仰」だとされている。

「下手に動けば潰される」と、伝道に慎重だ。「それでいいはずがない」と促される。

日曜日はお近くの教会で礼拝をhttp://komatsu.church/index2.html どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


共通テーマ: