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マタイによる福音書 10章1~4節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すためであった。 (1節)>

群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた主は、弟子たちに「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。(9章)」と言われた。

「神なき群衆の困窮と悲惨の時は、同時に神の収穫の時でもあると主イエスは言われます。人間の罪が満ちる時に、神の救いの恵みもまた満ちあふれるのです。だから、今こそ、収穫のための働き人を神に願い求めるべきです。」と山下牧師は9章を結ばれた。

10章ではその働き人として、主イエスは12人を使徒に選び、世に送り出される。それまでの弟子たちは主イエスに付き従い、その教えを聞き、その業を目前にしていたものの、傍観者に近い者たちだった。その彼らを主イエスは宣教の協力者、働き人へと変えられる。

マタイ書はこれまで5人の弟子の召命について記されている。ぺトロとその兄弟のアンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネ(4章)、そして徴税人マタイ(9章)。ここでさらに7人が加えられ、12人で一つの群れを形成する。

「彼らは、イスラエル十二部族を象徴しています。神が最初にお選びになったイスラエルの民と結ばれた契約が、主イエスによって選ばれた12弟子を通して、新しい契約の民、教会へと受け継がれていくことの象徴です。」と山下牧師は説かれている。

解説書は「『弟子』は師に学び、従う者。『使徒』は師の行動や言葉を他者に伝える者を言う。使徒パウロは例外として、主イエスの弟子たちは後に『使徒』と呼ばれる。」と説く。

選ばれた12人は、最初から有能な働き人ではなかった。福音書は彼らの長所よりもむしろ短所を多く記している。その彼らが主イエスの復活と共に生まれ変わり、その力強い働きにより、福音は継承され、キリスト教は全世界に広まっていった。

弟子たちを呼び寄せられ、彼らに主イエスが持っておられたのと同じ「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気を癒す」ための権能を授けられた。

「それによって、彼らは主イエスの到来とともに始まった神の救いと恵みの御支配を証しし、神の国のために救われた魂を収穫する働き人となるのです。」と山下牧師は結ばれる。

人々が「飼い主のいない羊のように…」と主イエスは嘆かれる。その言葉に今の世界や日本の情勢が重なる。今は、民も為政者も神によって平安が与えられるということを知らない不幸な状況なのではないだろうか。その責はクリスチャンの宣教の弱さにあると思う。

民の一人一人を憐れんで下さい。あなたの知恵が与えられ、あなたの義がなりますように。世界のすべての国々に豊かな聖霊の注ぎを頂きますように。祈らなければならない。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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マタイによる福音書 9章27~34節 [新約聖書 マタイによる福音書]

<イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は「はい、主よ」と言った。 (28節)>

「主イエスは道の途中で二人の盲人に出会われました。彼らは目が見えなかったために、多くの点で社会的な不自由を強いられてきたに違いありません。けれども、主イエスに出会うという機会は、彼らから奪われてはいませんでした。彼らは『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんで下さい』と主イエスに叫び求めました。」と10月の家庭礼拝歴執筆者、つくばひたち野伝道所、山下廣牧師は書き出される。

主イエスを「ダビデの子」と彼らが呼んだのは、当時の人々が主イエスを「ダビデの子、救い主」と信じていたからであった。イスラエルの人々は約束の救い主はダビデ王(BC1000~961年在位)の血統から現れると信じ待望していた。そしてその救い主がユダヤの指導者になり、征服者を追い出し、ユダヤの栄誉を回復し、人々に自由を与えると信じていた。

彼らは、救い主としての主イエスの本質と使命には全く気付いていなかった。彼らが求めているのはただ「癒してほしい」ということだけだった。主イエスは彼らに「わたしにできると信じるのか」と問われた。彼らは「はい、主よ」と言った。

目が見えなくなった彼らはこれまで、見えると言われる薬草やまじないをすべて施してきた。しかし、それらのすべては無駄だった。今、村々町々を巡り、人々に癒しを与えておられるという主イエスの噂を聞き、ここに連れてきてもらった。「はい、主よ」と言ったのは、万策尽きた彼らにはそういう他なかったとも考えられる。

主イエスはそのすべてをご存知の上で二人の目に触れ「あなたがたの信じている通りになるように(29節)」と言われた。この一言で彼らの目は開かれた。有頂天になる彼らに「このことは、誰にも知らせてはいけない。(30節)」と厳しくお命じになった。人々が、主イエスを癒しだけ行う救い主だと誤解させないためであった。

彼らが出て行くと、悪霊に取りつかれて口のきけない人が主イエスのところに連れられてきた。悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言い始めたので、群衆は「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない。(33節)」と驚いた。しかし、ファリサイ派の人々は「あの男は悪霊の頭(カシラ)の力で悪霊を追い出している。(34節)」と言った。

「イエスは彼らの考えを見抜いて言われた。『どんな国でも内輪で争えば荒れ果ててしまい、どんな街でも家でも内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せばそれは内輪もめだ。そんな風ではどうしてその国が成り立ってゆくだろうか…』(12章)」

群衆は目の前で起こったことに素直に驚くことが出来たが、ファリサイ派の人々は主イエスの力を目にしても、自分の地位を危うくすることだとしか思えず、現実を受け入れることが出来なかった。

目があっても、見ることが出来ず、耳があっても耳に入らない、自分の考えや利益を優先するからだろうか、自分にもよく起こることだ。

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コヘレトの言葉 5章12~19節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<人は、裸で母の胎をでたように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何一つ持ってゆくわけではない。(14節)>

「14節は、ヨブ記にも記されている言葉で、私たちの命の初めと終わりの様子を的確に表現しています。私たちは生まれた時何一つ携えていません。死ぬ時も同じです。この世に生きている間、どれだけのものを集め、身に着けたとしても、すべて手放していかざるを得ません。」と藤田牧師は書き出される。

今日はこの文書の最後のブログなので、藤田牧師の原稿をそのまま転載させていただく。

「でも、死の時、裸でどこに帰るのでしょう。帰るとしたら、それは神のもと以外にありません。そこに裸でいかざるを得ないということは、神の前に恥じることなく立つためには、私たちが地上で集めたどんなものも役に立たないということでしょう。

神はそのようなものをご覧になるのではありません。そして、神がどう見て下さるかということに、私たちの生涯に意味があったかどうかにかかっています。そのことを忘れ、ひたすら地上のものだけを追い求めることは空しいことではないかと、コヘレトは問いかけているように思います。」

<神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。(17節)>

「私たちに与えられている人生は短いとコヘレトは言います。その間、労苦は絶えず、その労苦の結果も永遠に続くようなものではありません。ならば、与えられたものに満足し、それを楽しみながら生きるのが良いとコヘレトは勧めます。

人それぞれにその人の分というものがあります。それは、神がそれぞれに与えて下さるものです。神はひとりひとりに異なる賜物を与え、それを用いて生きるよう、それぞれに召しを与えておられます。

その召しに相応しく生きることができればそれで十分です。人と見比べて、与えられたものの量が多いとか少ないということに煩わされ、自分に与えられたものを喜べないとしたら、自分で自分を空しくしてしまうことになります。

神が託して下さったものが何かを確かめながら、神と共に、御心に従って生きる一日を送りたいものです。そこに満足があり、幸福があるのではないでしょうか。」と結ばれた。

人に秀でるものは何も持たず、「自分に託されたもの、与えられているもの」それが何か、いよいよ人生の終盤に差し掛かっているのにいまだに分かっていない。けれども、分かっていないから、面白いのかもしれないとも思っている。

この頃は、山頂近くとわかっていても足元ばかり見ながら、必死で前の人について行っている。「着いたよ」という誰かの声にやっと顔を上げ、歓声をあげる。そんなことなんだろうか。

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コヘレトの言葉 5章11節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<働く者の眠りは快い。満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。(11節)>

「一日一日を満足して終えることができるとしたら、それはどんなに幸いなことでしょうか。現代は忙しい時代で、わたしたちはいつも何かに追いかけられているような暮らし方をしているような気がします。」と藤田牧師は書き出される。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ書6章)」

その御言葉どおり、精一杯身体を使って働き、一日の終わりを満たされた思いの中で眠りに就くことができたらどれほどいいだろうかと、孫たちの眠りを見ていて思う。歳を重ねると、眠ることにも苦が伴う時がある。

コヘレトは「働く者の眠りは快い」という。自分のなすべき務めが何であるかを知り、その務めを果たすことを喜びとしている者は、与えられたその日を満ち足りて終えることができるというが、そうだろうか、足りなかったことを思い返しては眠れない時が多い。

T牧師は、コヘレトの言葉は、聖書全体の中でも異彩を放つ文書だと言われた。「知恵文学」と分類されているが、同じ知恵文学の「ヨブ記」では、どんなに苦しい試練があっても、神の深い意図が隠されているのだから、神を信頼して生きよう、神は幸福を与えて下さるのだから、不幸をも頂こうではないかと教えています。

コヘレトの言葉はそれとは真逆の印象を与えます。そして、冒頭から「すべてが空しい」という言葉が繰り返され、その言葉によって、聖書によって満たされたい、聖書を読んで希望を見つけたいと思っている人を拒絶するような印象を与えている。

けれども、この文書を読む時、私たちは人生における様々な出来事に一喜一憂するのではなく、すべては神が与えた時の中にあって移り変わって行くものだと、冷静な平常心を保つことができる。「落ち込むことがあっても、またそこから這い上がる時を神が与えて下さるのだと、大きく構えることができそうな気がしませんか。」と問いかけられた。

そして、いつ、どんな時でも信仰さえあれば幸せに生きられるというわけではなく、辛い時も、苦しい時もあるし、理不尽だと思う事に出くわす時もある。しかし、「現実というのはそういうものだ」と、共に嘆き、共感してくれるのがこの文書なのだと言われた。

今朝は草むしりに励んだ。頑張っていると雨が降って来たので中止せざるを得なかった。中途半端で心残りであったけれど、本心は雨が降ってそれを理由に中止出来てほっとした。腰が痛くなっていたからだ。体力を尽くして働かないので今夜の眠りも浅いだろう。

草は、抜いても抜いてもまた生える。草抜き自体が「空しい」とコヘレトは言うだろう。

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コヘレトの言葉 5章9~10節 [旧約聖書 コヘレトの言葉 ]

<銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。(9節)>

富を愛する人は、さらに富を増し加えようとするが、けれども「それが『愛する』ということでしょうか。それは本当に愛しているのではなく、単に自分の所有欲を満たそうとして、際限なく集めているだけのような気もします。」と藤田牧師は説かれる。

「財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。(10節)」。米国大統領はビルや、ゴルフ場を所有しながら、そこで寛ぐ時間も持てず、その警備に追われ、どこからくるかもわからない攻撃に、日々怯えて暮らしているだろう。

お金は人生に必要なことは論を待たないけれど、しかしお金は魔性を持つ。さらなる富を求め、満足することはない。富は人間を幸せにしないとコヘレトは語る。

「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害な様々の欲望に陥ります。その欲望が人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、様々なひどい苦しみで突き刺された者もいます。(Ⅰテモテ6章)」

パウロは、自分の財産保持に汲々するだけでなく「金持ちになろうとする」こと自体が大きな過ちを犯すと説いた。「信心は、満ち足りることを知る者には大きな利得の道なのです。なぜなら、私たちは何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持ってゆくことができないからです。(Ⅰテモテ6章)」と説いている。

富を愛する愛は、主イエスの説かれる「愛」ではない。藤田牧師は「愛は、一方的なものではなく、愛する事が愛を呼び起こし、自分も同じように愛される事を願うものです。語り掛け、答え合う。そんな関係の中にこそ愛は宿るのではないでしょうか。富にそんな関係を求めても答えは返って来ません。その愛は空しく終わるのです。」と説かれている。

「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。…愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。片手を満たして憩いを得るのは、両手を満たして、なお労苦するよりも良い…(4章)」コヘレトは空しいと嘆く。

愚か者は怠惰によって身を持ち崩し、金持ちは富に支配されることを通して人生を浪費している。共に満たされることのない人生だと。

動物の中で人間だけが、明日のことがだいたい見えるから厄介なのに違いない。今晩の献立、明日の買い物、予定など考えると、それだけの資金が必要だと気づくので、蓄えがなくては・・・。となって行くのだろうか。

競争心、向上心、探求心すべて、悪いものではない。用い方に問題があるらしい。

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