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ヨハネの手紙Ⅲ 1章11~12節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅲ ]

<愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣って下さい。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。(11節)>

「『悪い事ではなく、善い事を・・・』とは、多くの人にその通りだと受け止められる勧めでしょう。ただ、ここでは一般的な『善悪』が考えられているのではありません。ディオトレフェスが教会の中において、神様の愛が伝えられ、また実現することを妨げていたのです。そのことで『悪を行う者』とみなされているのです。」と森下牧師は説かれる。

教会の中においても、善悪を判断するのは難しい。聖書を歪んで伝える教師がいたとしても、彼以上に聖書に精通していないと反論できないのではないかと思ってしまう。また聞く者を心地よくさせる教えもあるが、たいがいそれは、聞く者の考えを肯定するものだったりする。

他の教師からも聞いたことのない異質の解き明かしであったり、聞く者に何らかの犠牲を強要するものだと心のどこかがそれを拒んでいたりする。その反対に、説教によって思いがけず、全く今までの自分の考えが逆転し、神の真実を垣間見たような気になり感動する時もある。

先日引越ししたKさんは、持っていけなくなった本棚と、オルガンを献品された。皆でそのことを喜んだものの、本棚はだいぶ時を経たもので、オルガンは調律しなければならない状態だった。「不要になったものを献品するのは・・・」と思わず非難も出た。善意の行動だけれども、そんな小さなことでも難しい。

ディオトレフェスという人が見た目からして悪を行うような人であったら、誰もが従うことはないだろう。けれども、人望もあり、育ちもよく、話上手で、社会的地位もあり、立派な学問を受けていた人であったら、彼に心酔する人もいるだろう。教会の中でもあることだ。

先日は「牧師不在の時の長老がする説教」について学びの時を持った。説教原稿はあらかじめ牧師が目を通されるということだったが、ある教会は牧師が書かれた原稿を長老たちがあらかじめしっかりと自分たちのものとして学ぶと言われた。牧師の説教であっても、長老の説教であっても、長老たちは、説教についての責任があると教えられた。

議論や討論はよほどしっかり勉強していないと加われない。牧師の説教に異議を唱えるなど考えられない。すべてあなた任せである。そのことを厳しくたしなめられた。

教会でいくら自分が神のために仕えたつもりでも、それが主イエスにおいて「私たちのために与えて下さった神さまの愛と救いを拒否し、あるいは人を躓かせるようなら、その人は『神を見たことのない人』だと厳しく言われるのです。」と森下牧師は説かれる。

そして「逆に、その神さまの愛と救いを心から信じ、それが兄弟姉妹の間で実現するために祈り、小さな働きをなす人は『神に属する人』と呼ばれるのです。」と結ばれる。

自分は「善だ」と思った瞬間「悪」になってしまうのだろう、気をつけねば・・・。

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ヨハネの手紙Ⅲ 1章9~10節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅲ ]

<わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。 (9.10節)>

「ディオトレフェスという人が、教会の中でどのような立場にあった人なのかははっきりしませんが、彼は指導者になりたいばかりに、教会の中で指導者的立場にある人達を謗り、信仰の兄弟たちとの交わりを壊してしまう人でした。」と森下牧師は書き出される。

全ての教会がまた信仰者がガイオの教会のように、巡回伝道者を受け入れたわけではなかった。別の教会では、自分たちは自分たちでやっていくとして、ヨハネ教会からの伝道者を拒んでいた。

信仰は個人ではなく教会共同体の中で育まれる。主イエスはたびたび「あなたがたは互いに愛し合いなさい。愛し合うことによってわたしの弟子であることを証ししなさい。」と勧められた。主イエスが頭となられている教会を離れた信仰はない。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしに繋がっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・わたしに繋がっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ書15章)」

ディオトレフェスの過った言動を「指摘しようと思います。(10節)」と厳しい言葉が記される。けれども、ヨハネの手紙で繰り返し勧められてきたことは「互いに愛し合い、許し合う」ということであった。ディオトレフェスの言動が「悪意」であると考えていいのだろうか。

牧師不在の時、代わって講壇に立たれた長老の説教が、聖書から離れていたように思ったので、Aさんはその事を長老に言われた。すると、不愉快そうな顔をされた。自分としては、その個所について彼と話したかったのに、ぎくしゃくしてしまった。と話された。

「悪意」や「欲」からではなくても、誰でも聖書を自分の独善で理解し解釈することはあるかもしれない。しかし、教える立場の人は、孤立するのではなく教会という群れの交わりの中で、閉鎖的になることなく、自らを鍛えなければならない。愛し合い許し合うということは、過ちがあっても見逃し合うということではない。

「教会ではどなたが頭であるべきなのか、ということを見失い、主に在る兄弟姉妹たちの交わりを壊すような態度や行為がある時には、信仰者間であっても、厳しく指摘されることが必要です。」と森下牧師は説かれる。

長崎伝道所の牧師は韓国のC先生である。C牧師との交わりを通して知る韓国は愛のエネルギーに溢れ、私たちの教会は大いに刺激を受けている。来年は、もう一つの教会が韓国の牧師をお迎えする。楽しみにしている。

閉鎖的であってはならない。国も教会も。

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ヨハネの手紙Ⅲ 1章5~8節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅲ ]

<この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。(7.8節)>

この手紙の著者はガイオをキリストの信仰に導いた人なのだろう。1節では「愛する者よ」と呼びかけ、最初に「魂が恵まれているように」と祈られる。次に「すべての面で恵まれ、健康であるようにと」と続けられる。魂の貧しさが体の不調を呼ぶことも少なくない。その両方が恵まれるようにと祈られる。

「このヨハネの手紙Ⅲは、『愛するガイオ(1節)』と呼ばれている人が属する教会に向けて書かれたものと考えられています。『御名のために旅に出た人』とは、キリストの恵みを伝え、信徒たちを教え励ますために、各地を巡回しながらやって来た伝道者たちのことで、このような人たちがガイオの教会を訪れたようです。」と森下牧師は書き出される。

エフェソにあったヨハネの教会では、小アジアの諸教会に巡回伝道者を送り出していた。その巡回伝道者がエフェソに帰り、ガイオの教会が「よそから来た人たちのために誠意をもって尽くして(5節)」くれたと報告した。そのお礼を兼ねてこの手紙は届けられた。

彼らは主イエスに「神の国を宣べ伝え、病人を癒すために遣わすにあたり…『旅には何も持って行ってはならない。杖もパンも金も持って行ってはならない…』(ルカ書9章)」と教えられていた。その彼らをあらゆる面で支援し、彼らが伝道のために次の土地に向かうことが出来るようにした。

「わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。(8節)」と、それが信徒も宣教の業に加わる行為だとヨハネは言った。牧師が宣教し、信徒が仕える教会の原型である。

「ガイオの教会でなされた小さな奉仕だったことでしょう。けれども、著者はこのような奉仕を通して、あなたたちは『真理のために共に働く者となる』と言いました。真理のために働くのは、真理を直接語り伝える伝道者だけではないのです。」と森下牧師は説かれる。

近くの駅前には時々、お坊さんが立っている。寒そうな衣を着て笠を冠り、手甲脚絆に草履姿。片手で鈴を振り片手でお椀のようなものを持っている。本当にこれで一日が賄えるのだろうか、宿はあるのだろうかと思ってしまう。彼の覚悟は立派だが、主イエスが命じられた伝道者の姿はこれとは違うようにも思った。

教会の牧師は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ書10章)」と主イエスに命じられている。信徒たちはその働きに対して謝儀(報酬)を差し出すことが命じられている。主は信徒の献金を通して牧者を養われ、牧者は信徒の魂を養う。それが教会である。

献金も奉仕の中の小さな一つである。それは真理のための働きになると著者は喜んでいる。

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ヨハネの手紙Ⅱ 1章4~11節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅱ ]

<愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。 (6節)>

「3節では『神と御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和』が祈られています。この三つが並ぶ祝福の祈りは、テモテ書にも見られますが、それは彼に向けられた祝福であるのに対して、ここでは『わたしたちと共にあります』と祈られていることが目を引きます。」と森下牧師は説かれる。

ヨハネの教会では「主イエスは、人間の肉体を持たない霊の人だ」と主張する人々が生まれた。それは物質の世界が悪であるとするグノーシス派の考えであった。人間は物質世界の一部であるので、もし主イエスが神なら、人間ではないと論じ、教会を出て行った。

ヨハネは彼らを「誰も私たちの仲間ではないことが明らかになりました」と動揺する人々に語った。「彼らは、イエス・キリストが肉となってこられたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。(7節)」と励ました。

私たちの教会は近くの教会から別れて戦後新しく立てられた。前の教会は「日本キリスト教会」所属であったが、戦中の政府からの命によって教派を越えて一つの教会「日本基督教団」に合同させられた。F牧師は敗戦後、もとの「日本キリスト教会」に戻ることを決意されたが、教会員の反対に会い、その教会を出られた。何人かの賛同者が従った。

元の教会は無牧となり、F牧師は賛同者の二階家で礼拝を持たれた。教会の分裂は辛いが「我らが主と崇(アガ)むる神の独り子イエス・キリストは、真の神にして真の人…」と始まる「信仰告白」を唱えることが出来ない人々と礼拝を持つことは出来なかった。

地上の教会は神の国ではない。無罪を宣告されているが、その本質は罪びとのままだ。人の集まりである限り、人間的な倫理や配慮が教会を壊すこともある。その場合腐敗が広がらないように、その根を見極め分離することもやむを得ない。

「気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。誰であろうと、キリストの教えを越えて、これに止まらない者は、神に結ばれていません。その教えに止まっている人にこそ、御父も御子もおられます。(8.9節)」

神の掟が愛を命じていることは前の書で述べられているが、この書ではさらに「その愛に歩む」ことが強調される。愛は言葉でも表すことが出来るが、けれども逆に言葉や口先だけの愛であってはならない。

「愛に歩む」とは、私たちの全ての思いや行い、毎日の生活が愛から出てくるものであるのかもしれない。それは、教会の兄弟姉妹だけでなく、主イエス・キリストを知らない人々のためにも「福音を届けることが出来るよう」祈る生活かもしれない。

要するに、それは肩ひじ張らなくても人柄としてにじみ出るものだろう。自分には程遠いが。

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ヨハネの手紙Ⅰ 5章18~21節 [新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ]

<わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実な神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。((20.21節)>

「私たちは悪の力に直面した時に、自分から偶像に近づいてゆきます。その偶像は私たち自身です。苦しみや恐れに直面した時、自らの手で造った偶像に頼ろうとします。真の神がどなたであるかを忘れ、偽りの神を拝み始めます。偶像は人を生かしません、むしろ偶像は真の神から私たちを引き離し、滅びるものとするのです。」とT牧師は説かれる。

主イエスの守りの内にいながら、苦難に直面すると、その守りの内側で、自らの偶像を造り、それに頼み、拝し、主の守りの内側から出て行こうとするのだとヨハネは説いた。

この時代、ギリシャ人やローマ人は様々な神々、神ならぬ神を礼拝し、その中にはローマ皇帝も神として崇めることが求められていた。戦いに勝利した武将が神々の名をもって称えられ石に刻まれ神殿におかれていた。人々はそれらの像を礼拝した。

しかしこれらは、今でも日本では当たり前のことだ。公園や駅前にはその地の功労者の像が、仰ぎ見なければ見えないような高さに立っている。神社には狐や蛇が「ご本尊様」として祀られていたりする。コンビニより神社の数が多いとクイズ番組は回答していた。

神の子とされ、信仰者、キリスト者として生きる喜びが与えられているにも関わらず、境内をくぐるだけで清新な気持ちになってしまう者は「偶像を避けなさい」と警告される。この手紙の最後は励ましの言葉ではなく、注意を促す勧告の言葉が記される。

ヨハネはこの手紙で光の子、神の子どもと呼ばれ、そのようにされている主イエスを信じるものである信仰者は、主イエスはすべての悪に勝利されているので、主イエスを信じるあなた方もすでにその勝利に与っていると断言している。そして、その愛に応え、兄弟を愛し、隣人を愛し、敵でさえ赦されて歩まれた主に従う者になっていると説いていた。

自分の力では出来ないことも、聖霊の助けによって道が与えられると繰り返した。しかし、最後に偶像への警戒が厳しく命じられる。「偶像というのは滅ぼしても滅ぼしても生まれるものです。それは、人間が造りだしているものだからです。人間がいる限り偶像は滅びないのです。」とT牧師は嘆かれた。

「この国は銀と金に満たされ、財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない。この国は偶像に満たされ、手の業、指の造ったものにひれ伏す。(イザヤ書2章)」

目の前のことを見ることが出来なくなり、そこからの逃避を求め、絵画や音楽また富や社会的名誉に夢中になる。そのようなことも偶像礼拝といえる。職に就けない若者や、受験生たちが、アイドル(偶像)グループやゲームに夢中になることも偶像礼拝だろう。

先日反ナチとして地下活動をした人々の記録を読んだ。民衆にとってヒットラーは完全なアイドルになり、彼は選挙によって選ばれてしまった。

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