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イザヤ書 59章15~20節 [旧約聖書 イザヤ書]

<主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとにくると、主は言われる。(20節)>

「59章には救いを妨げているものが、主なる神の無力さではなく、イスラエルの罪(神への不従順、社会的不正)にあることが厳しく告げられています。」と枝松牧師は書き出される。

K牧師は「最初の人アダムが罪を犯したので、すべての人が罪の下に置かれるようになってしまいました。それはユダヤ人も異邦人も私たちも例外なく、すべての人が罪の下にあるのです。すべての人が迷い出て、だれもが無益な者になってしまっているのです。

私たちはそんなひどい人間ではないと思っているかもしれませんが、しかしそれはコップの下に沈んでいる泥のようなものであり、その水をかき混ぜると水全体が濁るように、いつでも罪が頭をもたげるのです。それが私たちなのです。」と説かれた。

パウロは罪を断ち切れない自分の惨めさを告白する。「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか。(ローマ書7章)」

取り除こうとしてもまといつく罪、そこからの救いはどこにあるのだろうか。「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。(15節)」主に救いを求める者たちの罪の告白を主は心に止めて下さった。

イスラエルがエジプトを出て荒野に導かれた時、金の子牛を造ってそれを拝した。そのため神の怒りを招いて滅ぼされそうになった時、モーセは神と民の間に立って執り成しの祈りを捧げた。

「今、もしもあなたが彼らの罪をお許し下さるのであれば・・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去って下さい。(出エジプト32章)」モーセは神と民との間に立って祈った。しかし、今はそのように執り成す人はいない。人間の側には、この罪から救うことの出来る人は誰もいないのだと主は驚かれた。

驚かれた主は、ご自身の御腕によって救いをもたらして下さる。主なる神は2千年前、御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、その救いの御業を成し遂げられた。主イエスがこの世に来られ、神と人との間に立つかのようにして十字架に架かられることによって。

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ書23章)」

自分の力で罪人から脱皮しようとしても不可能なのだ。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマ書3章)」と、パウロは語っている。

受難週の木曜日は最後の晩餐の日なので私たちの教会では夕礼拝のなかで聖餐式が執り行われた。今日の月もきれいだったが、十字架に架かられる明日は満月。

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イザヤ書 58章6~14節 [旧約聖書 イザヤ書]

<わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けをおしまないこと。(6.7節)>

「断食とは食を断って、祈りに集中する大事な徳目ですが、その断食について6.7節で語られ、それが主なる神が選ぶ断食だと言われるのです。とりわけ、貧しい人々(生活困窮者)への支援には、社会的不正義・悪の問題との取り組みが不可欠だと告げられます。」と枝松牧師は書き出される。

特定の日を決めて断食を守る習慣は紀元前586年のエルサレム陥落後に起こったと言われている。都エルサレムが包囲された日、占領された日、神殿が消失した日などが断食日とされていた。人々は確かにその断食日を守っていたが、神に訴えずにはおれなかった。

「なぜあなたは私たちの断食を顧みず、苦行しても認めては下されなかったのか。(3節)」と。主は「見よ、お前たちは断食しながら争いと諍いを起こし、神に逆らって拳を振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない(4節)」と言われた。

「葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまき(5節)」悔い改めと神への願いを祈った。しかし、そのような外面的行為をもって良しとする姿勢が問われている。断食の特質は自己制限と自己放棄にある。ここでは、人を助ける行為において、自ら被った拘束とそれに続く解放とがバビロン捕囚を覚えて語られる。

捕囚からの解放は、虐げられた生活からの自由をもたらしたが、飢えや渇き、貧しさから解放されたわけではない。帰還を果たした大部分の人は貧困や病気の軛から解放されていなかった。その悲惨の中で一部の特権階級が、形式的に礼拝を守り断食日を守り、貧しい人からの借金を取り立てていた。それは神が喜ばれることだろうかと問われている。

自分自身の形式的な礼拝生活を指摘されているようで辛い。「善きサマリア人」の話は何度聞いても考え込んでしまう。礼拝の帰り道、繁華街でビニールの袋をいくつも足元に置き、道に座り込んでいる人を見かけた。多くの人が彼を除けるように歩いていた。自分もそのように遠見して歩いた。余計なことをして何かあったらいけないと思って。

聖書を読み、礼拝、祈祷会を守っていても行為に繋がらなければ何の意味もない。何も知らないで通り過ぎた人々よりも自分の罪は重い。善きサマリア人は異教の神々を信じる人々であり、通り過ぎた祭司たちは、主なる神を日ごと人々に教える人々である。

苦しむ弱者に心を配り、助ける行為が神の喜ばれる断食として語られる。K牧師は「ここで呼びかけられるのは、教会ではなく一信徒としての『あなた』です。私たちの人生が輝き、希望に満ち、祝福されたものとなるのは、主の正義を『あなたの正義』として呼びかけられるあなたが生き抜くことにあるのです。」と説かれた。

「正義」という言葉は古めかしいようだが、自分の命を差し出して、罪深い私たちを赦し、救いの道へと歩ませて下さった主イエスは「正義」を貫きとおされた。

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イザヤ書 57章15~19節 [旧約聖書 イザヤ書]

<わたしは、高く、聖なるところに住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。(15節)>

「今日の聖書は、15節にあるように恵みの逆説を謳った第三イザヤの感銘深い預言の個所です。ここに示されていることは『天を超え、高きにいます栄光の神は、低きに下り給うお方でもある』と言う事です。」と枝松牧師は書き出される。

神は私たちとは全く次元の違うところに居られる。「聖」というのは全く区別されたところに住まれるこの世界を超越したお方であることを示す。神は被造物とは全くかけ離れた存在であり、近づくことも、比べることも全く出来ないお方である。

そのような聖なるお方が、心砕かれて遜った人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かして下さる。「心砕かれ」というヘブル語の言葉は「塵」という言葉で、粉々にされた状態をいう。「遜る」は単なる謙遜ではなく、現在の災い、苦悩を受け入れ低くされる状態をいう。

神は近づくことの出来ない聖なる地位におられるが、心が切り裂かれ、自分の主張など粉々にされるほど打ちのめされ、すべてを失ってみじめになった自分を自覚できる者と共に住んで下さり、彼の霊を生かし、彼の心を生かして下さるのだと告げられる。

イザヤは預言者として召命された時、聖なる神が御座におられる幻を見た。御使いたちが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。(イザヤ書6章)」と呼び交わしているのを聞いた。その神の聖さの前に出た時彼は「災いだ、私は滅ぼされる。」と叫んだ。聖なる神の前の自分の醜さや汚れを悟らずにはおれなかった。

主イエスは、謙遜という言葉では追いつかないほど砕かれた。聖なるお方が罪に汚れた人となって生きられた。全く罪がないのに十字架に架かって死なれた。K牧師は「私たちはこの主イエスを信じて、主イエスとひとつになること以外に砕かれる道はないのです。自分でどんなに遜っても、真の謙遜さを手にすることは出来ないのです。」と説かれた。

「わたしのところに来なさい。(マタイ書11章)」と招いて下さる、主イエスのもとにいって荷を下ろし、代わりにキリストの軛を負ってキリストから学ぶ、そうすれば魂に安らぎが来る。なぜなら、キリストは心優しく、遜っておられるからである。そのキリストに従うことで遜る者になり、神はそのような者と共にいて下さると、K牧師は続けられた。

16節からは、神は罪を癒されるお方であることが告げられる。イスラエルの民は神に背く道を歩んだため、神はバビロンをもって彼らを滅ぼし、70年間の捕囚生活を味わわせられた。しかし神の怒りは無限ではなく、やがて彼らの罪を癒し、慰めを与えられた。

バビロン捕囚から解放された民はしかし、またたえず神に背き続けた。彼らは自分たちの犯した罪を、祭壇に献げ物をすることによって拭おう、清めようとしたが、不可能なことであった。主の僕である主イエス・キリストが、その罪と咎を代わりに負って下さることによってしか、拭い去ることは出来なかった。

自分の持つ罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じた瞬間に神の子とされ、今までの罪は勿論、これから犯すかもしれない罪さえも赦された者になる。主イエスの十字架の死と復活というのはそういうものである。

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イザヤ書 55章1~5節 [旧約聖書 イザヤ書]

<わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(7節)>

「第三イザヤといわれるイザヤ書の最初のところです。ここには神の家である再建された第二神殿が、すべての民の『祈りの家』なのであると、重要なことが告げられています。」と枝松牧師は書き出される。

「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人。それを固く守る人の子は、安息日を守り、それを汚すことのない人。悪事に手を付けないように自戒する人は。(1.2節)」

主がイスラエルに命じられている「正義」とは、御言葉に従って生きる歩み、また神との正しい関係を持ちながら歩むことである。しかしそれは具体的にどのように生きることなのかというと、その一例として安息日を守ることが語られる。

「あなたたちは、私の安息日を守らねばならない。それは、代々に亘って私とあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。(出エジプト31章)」エルサレム帰還を赦されたイスラエルにとって安息日を守ることは、義を行うことの最優先事項であった。

K牧師は「安息日の本質はキリストです。安息日は影に過ぎずその本体はキリストにあるのです。安息日に拘り過ぎ、その意味していることを見失ってはならないのです。私たちが拘るのはイエス・キリストです。目の前に主イエスがおられるのに、影に語り掛けるようなことは全く本末転倒です。イエス・キリストこそが安息日なのです。」と説かれている。

週に一度を主の日として聖別し、この日には仕事を休み、主を覚えて礼拝する。それが日曜礼拝である。今週は特に「受難週」と呼ばれる。木曜日に弟子たちと最後の晩餐をされ、金曜日の午後に十字架に架かられる。土曜日はユダヤの安息日なので、女性たちは日曜の早朝にお墓に向かった。そして、そこで主の復活を知ることになる。

その主の復活を覚え、感謝と礼拝をささげるのがイースターである。ユダヤ教では安息日が土曜日だけれど、キリスト教では復活の日曜日が安息日、主の日である。この世の一切のことから離れ、主に集中して感謝と讃美をささげる。

そして、私は主のものであるということを確認しながら、赦されて主の元に全ての重荷を下ろす。その時、真の安らぎが与えられ、再び世に出て働くことが出来るように、肉体的、精神的、霊的にも力と祝福が与えられる。

神の祝福はイスラエルだけではない。異邦人や宦官に、自分たちはイスラエルの祝福の外にあるものだと「言ってはならない」と命じられる。「私の安息日を常に守り、私の望むことを選び、私の契約を固く守るなら、私は彼らのために、とこしえの名を与え…(4.5節)」と告げられる。救い主イエスがすべての隔ての壁を取り除いて下さっているのだと。

バングラディシュに行ったとき、夕方、雑音の交るスピーカーからコーランが流れると、町中の男性がイスラム教の会堂に向かった。夕焼けの中、埃りを立てていく人々の群れを今も思い出す。

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イザヤ書 55章1~5節 [旧約聖書 イザヤ書]

<渇きを覚えている者は皆、水の所に来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて食べよ。来て銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。私に聞き従えば、良いものを食べることが出来る。(1.2節)>

水だけではなく、穀物もぶどう酒も乳も代価を払わずに求めよと呼びかけられる。それは物質的な祝福だけではなく、物質的なものも含め全ての善いものが主の元に用意されている。穀物は命を、ぶどう酒は喜びを、乳はみ言葉を象徴する。

「来るがよい」という言葉が繰り返される。腰を上げて主の元へ、それはどんな状況、急用があっても、何をおいても行かなければならない。

主イエスも「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ書12章)」と言って招いて下さっている。主イエスは「わたしのもとに」と言われ「私を遠くから見なさいとか、研究しなさい」とは言われていないのだ。

2節では、食料にもならず、空腹を満たさないものにどうして銀を払ったり労するのかと問われる。霊的祝福はお金を払わなくて頂けるのに、そうしたものには目もくれず、心の糧にならないものにお金を出し、神の国に持っていけない物や神の国で役立たないもののために労しているのかと問われる。

山上の説教で主イエスは「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは虫が食ったりさび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天に積みなさい。…あなたの富のある所に、あなたの心もあるのだ。(マタイ書6章)」と教えられている。

無駄な浪費をやめて、主に聞き従えば、良いものを食べることが出来、私たちの魂はその豊かさを楽しむだろうとバビロンに捕らえられているイスラエルの民に告げた。異教の生活の中で彼らは心を満たすものを見つけることが出来なかった。一時的に満腹感を味わうことが出来ても、次の瞬間にはまた空腹を感じていた。

40日間の断食を終えられた主イエスにサタンが「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言った時、主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(マタイ書4章)」とお答えになった。

「聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちと、とこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。(3節)」。Ⅱサムエル記7章には、ダビデの子孫から救い主が生まれ、彼によって王国が確立されると預言されている。

「その契約は神からの一方的な恵みによるもので、誰もが遜って神の前に出、神の救いを受け入れるなら救われます。それがダビデ契約です。その契約が、主イエス・キリストによって実現したのです。これは確かな救いです。私たちの行いとは全く無関係に、一方的な神の恵みによる救いだからです。」とK牧師は説かれている。

27日、国会に証人として立たれるお方は、もう何も失うものがないと思うので、どうぞ正々堂々と本当のことを話してほしい。「疲れた者」とはまさに彼のことだとおもう。

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