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ルツ記 3章1~4節 [旧約聖書 ルツ記 ]

<わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。(1.2節)>

N牧師は「ボアズがルツに目を留めた一連の行為には、主イエスが私たちに目を留めておられる姿が表れています。主イエスはご自分を主として決心した者を必ず見捨てることなく、御恵みをもって報いてくださるのです。まず、主イエスが私たちの近親者となって下さるのです。そして、近づいて声をかけて下さるのです。」とルツ記を説かれた。

最初に声をかけたのはボアズであった。私たちの方から先に神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さり、御子を罪の供え物とされた。ルツは異邦人であったのと同じように、私たちも異邦人であった。極東の島に住む私たちにも、やさしく声がかけられている。

と言われてN牧師は、ボアズはルツが落ち穂拾いに、わざと穂が落ちるように手配しているがこれこそ神の恵みの業だと言われた。我々は、自分の一生懸命に主が祝福を与えて下さると勘違いするがそれは大間違いで、我々が主に仕えることができるように、主はあえて良きものを予め備えて下さっているのだと。

そして「どうか、罠に陥らないでください。自分が行った事、行わなかったことでくよくよしないで下さい。それらを自分の行為によるものだとしないことです。自分が蒔いたものは刈り取りますが、私たちの思いに先立って神はご自分の真実を私たちに示されるのです。私たちの意に関わらずです。その神の祝福を『恵み』と呼びます。」と語られた。

大麦の刈り入れの次は小麦の刈り入れ、大麦の初穂は過越の祭りの3日目に、それから50日後の五旬節に、小麦の初穂を主に捧げる。彼女たちは、2ヶ月間ほどボアズの畑で落ち穂拾いをした。

ボアズが大麦をふるい分ける日、ナオミはルツに「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。…」と言った。ナオミはかつて夫を亡くした2人の嫁に「どうか、主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように(1:9節)」と言っている。

夫を得ることが「安息を得るところ、守られて、養われ、愛されるところ、幸せになる落ち着き先。」だとナオミは言った。電気もなく石油もない、ずっとずっと昔の生活、男も女も子供も年寄りも誰も独居生活なんて出来ない時代であるから、その言葉は仕方がない。

ルツは彼女の身を真剣に考えてくれるナオミに深い愛を感じ、黙って耳を傾けた。異邦人モアブの女性をボアズが結婚相手と考えるのは、余程の事がないと考えられないことであった。ルツもまたナオミと生きる道を選んだ以上、結婚を考えていなかったかもしれない。

「体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下っていきなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまで気づかれないようにしなさい。」とナオミは命じる。

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ルツ記 2章14~18節 [旧約聖書 ルツ記 ]

<ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は一エファほどにもなった。(17節)>

食事の時、ボアズはルツに「こちらに来て、パンを少し食べなさい。一切れずつ酢に浸して。」と声をかけた。そして、農夫たちの側に腰を下ろしたルツに炒り麦をつかんで与えた。ボアズはルツだけでなく、ナオミにも配慮した。多く与えれば、その残りをルツが持って帰るだろうと思ったからだ。

ルツが再び落ち穂拾いを始めようとすると、ボアズは若者たちに「麦束の間でもあの娘に拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけではなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのを止めてはならぬ。」と命じた。

ボアズは彼女の尊厳に、女性としての尊厳に気を使っていた。わざと穂を拾い集めるように振り落としなさいとまで言っている。それならば、初めから彼女に穂を分け与えればいいのにと思うが、彼は彼女に恥をかかせないためそうしなかった。彼女の労働の対価として、持って帰るべきだと思ったからだ。

解説書は「ボアズの言動には非の打ちどころがありません。まさに、理想的な男性です。しかし、そうして感心するだけの話で終わらせたら、ルツ記にある神のメッセージの半分しか受け取れないことになるでしょう。」と説かれる。

日の暮れるまで働いたルツが集めた落ち穂は、それを打つと一エファ(23ℓ)にもなった。一日の収穫量としては大変な量であった。ナオミとの生活を賄うには過分な量であった。

「姑がルツに、『今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。あなたに目をかけて下さった方に祝福がありますように』というと、ルツは誰のところで働いたかを姑に報告して言った。『今日働かせて下さった方は名をボアズといっておられました』

ナオミは嫁に言った。『どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福して下さるように。その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です』(19~20節)」

ベツレヘムに飢饉が襲い、ナオミの夫エリメレクはやむを得ず、先祖からの土地を売ってモアブの地に移り住んだ。それで、帰郷したもののナオミには土地がなかった。

しかし、イスラエルの律法は、貧しいからという理由で土地を失うことが決してあってはならないという意思から、兄弟が万一土地を売ってしまったら、近親者がそれを買い戻さなければならないと定められた「買い戻しの権利」があった。(レビ記25章)

無一物の二人でしたが、「潔くこの世の宝を捨てる時、思いがけず、この世の宝にも恵まれる、ということが事実起こるのです。」と三輪牧師は結ばれている。

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ルツ記 2章10~13節 [旧約聖書 ルツ記 ]

<「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに十分報いてくださるように。」(12節)>

ボアズの言葉に、ルツは顔を地につけ、ひれ伏した。そして、異邦人である自分をどうしてこのように親切にして頂けるのかと尋ねた。ボアズは彼女が姑ナオミに尽くし、両親と故郷を捨てて、見知らぬ国に来たことなど「何もかも伝え聞いている」と答えた。

「ナオミとボアズは親戚関係で、しかも彼は町の有力者でした。帰国したばかりで、しかも働き手を失っているのですから、ナオミは最初から彼を頼ってもよかったのです。でも彼女はそうしなかったのです。そうすれば、対等な人間関係が崩れ、上下関係が生まれることをナオミは知っていました。」と三輪牧師は書き出される。

ルツは、自分がボアズの雇人でもないのに、彼に話しかけられ、彼女のしたことを彼がすべて知っていたので驚いた。そして彼が「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに十分報いてくださるように。」と、彼女を主の御名によって祝福したことにも驚いた。

今の、ルツとナオミにとって最も必要なのは確かな守り、確たる屋根の下であった。ボアズは彼女たちの事を見抜き、主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに十分報いてくださると告げた。ルツは平安な生活を犠牲にしてベツレヘムに来たが、ボアズを通してそれを補うに余りある平安が与えられた。

「私たちは何かを犠牲にするとそれを失うと思いがちです。主に自分を献げることは、すべてを失うと思ってしまいます。けれども、主は永遠の命という報いだけでなく、この地上においても失われたものを補って報いて下さいます。」と解説書は説く。

ボアズが口にしたルツへの言動は、ボアズ自身が主なる神の働きによってルツの行動に心動かされ、彼の中に主ご自身の守りと養いが与えられた結果であった。彼の言動に表れているのは、まさに主ご自身であった。

「神は御心のままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事を行わせて下さるのです。」とパウロもフィリピ書2章で語っている。

ボアズの言葉にルツは「わたしの主よ、どうぞこれからも厚意を示して下さいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」と卑屈になることなく素直に感謝した。

「困窮する時、人を頼らず、まず御翼のもとに逃れ、今、自分にできる最善のことに力を尽くす。これこそ新しい道を切り開く最良の方法であることを、ここから学びたいと思います。」と三輪牧師は結ばれる。

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ルツ記 2章4~9節 [旧約聖書 ルツ記 ]

<あの人は、・・・モアブの娘です。『刈り入れをする人達の後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、いま、小屋で一息入れているところです。」(6.7節)>

「ボアズ自身は町中に住み、畑の管理や農夫の監督は召使に任せていました。しかし、時に畑の見回りに来ることもあり、特にこの時期は、大麦の刈り入れが始まったばかりでしたから、気になったのでしょう。」と三輪牧師は書き出される。

ルツは何も知らずに行ったところが、「たまたま」ボアズの畑だった。2章のカギとなる言葉はこの「たまたま(図らずも)」という言葉だと解説されている。彼女が意図して行ったのではなく、主が彼女をそこに導いて下さったのだと。

彼女のように、神との人格的関係、個人的な関係を第一とするとき、神は同じように個々の生活に人格的に関わられる。漫然と生きている人には、漠然としか神のことが分からないが、自分の心を神に広げれば広げるだけ、神はその報いとしてご自身を現わしてくださるのだと。

ベツレヘムからやって来て、畑の見回りをするボアズは農夫たちに「主があなたたちと共におられるように。」と言い、彼らは「主があなたを祝福して下さいますように」と応える。雇い主が主にあって祝福し、雇われ人が主にあって雇用者を祝福する。応答を通して、暖かい労働環境を感じる。

ボアズは働く人々の中に初めて見る女性が交じっているのを見て、召使に誰の娘かと尋ねた。召使は、彼女がナオミの亡くなった息子の嫁であることを告げ、彼女が朝から今までずっと立ち通しで働き、今やっと小屋で休息をしていますと答えた。

ボアズはルツに「わたしの娘よ、よく聞きなさい」と声をかけた。その一つは安全について、若い女性が凌辱されることは日常の出来事であったので、他所の畑に行かないようにと注意し、若いものには邪魔をしないように命じると言った。そして次に喉が乾いたら、若者が汲んだ水を飲むようにと言った。水を汲み上げるには力が必要だったからである。

ルツ記にはモデルがあったらしい。「有能な妻を見出すのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。…力と気品をまとい、未来に微笑みかける。口を開いて知恵の言葉を語り、慈しみの教えをその舌にのせる。息子らは立って彼女を幸いな人と呼び、夫は彼女をたたえて言う。『有能な女は多いが、あなたはなおその全てにまさる』と。(箴言31章)」

そして「あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそたたえられる。」が続く。なのに、なぜかこの物語を説いたり、耳を傾ける者は「きれいな女性」をイメージしてしまう。

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ルツ記 2章1~3節 [旧約聖書 ルツ記 ]

<ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。(3節)>

「…満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。…」と嘆いていてナオミだったが、「この時すでに、素晴らしい助け手であるルツを備えて下さっていました。神のなさることは手抜かりがないのです。」と昨日の個所を三輪牧師は結ばれていた。

ベツレヘムに帰ったものの、二人はこれからどう生計を立てて行けばよいか途方にくれていた。丁度そのころ、大麦の収穫があちこちで行われていた。大麦は小麦の収穫に先立って現在の5月前後に始まる。ルツはナオミに「畑に行ってみます」と申し出た。

「畑で穀物を刈り入れる時、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは、寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。…あなたはエジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。(申命記24章)」

モーセの律法では、生活基盤を持たない寄留者や寡婦、孤児が落ち穂を拾って生計を立てることが認められていた。イスラエルもエジプトで苦難を味わったのだから、今苦難にある者を助けることが求められていた。

「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは孤児となる。(出エジプト22章)」

それは慈善ではない。今の平安は主の恵みによるものであり、困窮の人に手を閉ざすなとの主の命令である。モーセがシナイ山で律法を授かったのは紀元前1290年頃、「社会福祉」はすでに主が命じられていたことであった。

ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。ルツが刈り入れをする農夫たちの後について落ち穂を拾い始めたが、そこはたまたまボアズの所有する畑地であった。

ベツレヘムはナオミにとっては懐かしい故郷だったが、ルツには全く馴染みのない土地であった。ナオミを通してある程度理解はしていても、風習も言葉も理解し難いこともあったに違いない。落ち穂拾いは、生計を立てるための、彼女ができる唯一の労働だったのだろう。

夫も子も亡くしてしまったナオミも辛いことだったが、ルツは夫も、子供を持つ機会もなくなり、その上故郷の人々と会う希望もない。ナオミの信仰に触れたからだと結論付けなければいけないが、どうしてここまでして姑に尽くすのかと思ってしまう。

クリスチャンを父に持つルツという名の友人は、両親からこの名の由来を聞かされていたが、それが重荷で反抗ばかりして、いまもこの通りと、離婚した後、苦笑いしていた。

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