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ルカによる福音8章16~18節 [新約聖書 ルカによる福音書]

<隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。(17節)>

マタイ書には「家の中のものすべてを照らすのである。そのようにあなた方の光を人々の前に輝かしなさい。(5章)」と記される。すべてを照らす灯として、家に入ってくる人が見えるように、弟子たちには「ともし火」としての役目があると主イエスは弟子たちに教えられた。

しかし「ともし火」としての役目とは何だろうか、また「隠れているもの」「秘められたもの」とは何を指しているのだろうか。

「種を蒔く人」のたとえ話の後、主イエスは「聞く耳のあるものは聞きなさい(8節)」と大声で言われた。今日の個所では「だから、どう聞くべきかに注意しなさい(18節)」と言われる。8節と18節の間に弟子たちが主イエスに「このたとえはどんな意味かと尋ねた。(9節)」

主イエスは「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである(10節)」と答えられる。

不思議というか謎めいたお答えである。「たとえ」というのは物事を分かりやすくするために用いるものではないだろうか。それなのにどうして見ても見えず聞いても理解できないようになさるのだろうか。

K牧師は「それは主イエスがそうされているのではなく、主イエスが神の言葉を語ると、結果的にそうなるのです。み言葉が語られても無関心だったり、頑なな思いに囚われていたり、一旦は信じるが継続しなかったり、み言葉が心の中で成熟して実を結ばないこともあります。私たちも見ても見えず聞いても理解できない状態なのです。」と言われた。

み言葉を聞くことのできない者は「ともし火」になることはできない。いい加減に理解したり、継続できなかったり、思い煩いや富、快楽に覆われていたら「ともし火」になることはできない。忍耐してみ言葉の実を結んでこそ、救いの恵みを公にし「ともし火」になることができる。

どう聞くべきかに注意するように言われた主イエスは「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っていると思うものまで取り上げられる。(18節)」と厳しく結ばれる。

K牧師は「み言葉による救いの恵みを確かに持っているなら、その恵みはみ言葉を聞くことで、さらに与えられ、実を結んでゆく。けれども、それを持っていなかったら、聞いても聞いても与えられず、いつしか喜びを失い、感謝を失い、不平や愚痴ばかりになり、愛を失い、ついには信仰まで取り上げられるようになります。」と説かれた。

自分は信仰を持っていたつもりだが、み言葉の恵みと信仰は自分が持つものではなく、神によって与えられるものだと知らされる。信仰を所有する時、自分の思いに支配されることになる。常に神の言葉を聞き続け、新しく生きることが求められている。


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ルカによる福音8章4~10節 [新約聖書 ルカによる福音書]

<イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。(10節)>

「大勢の人々が集まり」と4節から始まる。彼らは主イエスから恵みのみ言葉を聞くために方々の町からやってきた。主イエスがたとえをもって話されたのはこの群衆に向かってだった。彼らはみ言葉を聞き逃すまいとして主イエスを取り囲んだ。しかし、その群衆に主イエスはたとえ話を話し終えられると「聞く耳のあるものは聞きなさい。(8節)」と大声で言われた。

主イエスは本当の意味で彼らに聞くこと、真実に聞くということを求められた。その聞き方を巡って主イエスは四つの場合を挙げられた。種をまく人が種まきに出た。ある種は道端に落ちたが人に踏みつけられついには鳥の餌となってしまった。

別の種は石が多い土地に落ち根付くことができず枯れ果ててしまった。また茨の地に落ちた種は、茨が覆いかぶさり、せっかく出た芽は成長しなかった。しかし、良い土地に落ちた種は「生え出て、百倍の実を結んだ。(8節)」

ありがちなたとえ話かと思うが「このたとえを聞くとき私たちが問われることは『このみ言葉をどのように受け取るのか』です。聞いた一人一人がこのみ言葉をどのように、自分に当てはめるのか.どのように受け止めるのかが問われるたとえ話です。」と田中牧師は説かれる。

ゴッホの「種まく人」は名画とされているが、正直言ってその良さが良く分からなかったが、パレスチナではこのようにして種を蒔くのだと教えられて初めてこの種を蒔いている人が主なのだと知った。日本のように耕した地に丁寧に種を蒔くのとは全く違い、「種まく人」のように種を蒔くので、風にあおられることもあるので思ったような地には落ちない。

まき散らすように蒔いた種は、蒔いた後で鋤を入れて種に土をかぶせてゆく手法である。種を蒔く時点ではその土地の事が良く分からない。今蒔いた種をどうやって受け入れ、これを育て実を結ばせるのか。その見通しはない。その結果大部分は無駄になるかもしれない。

鋤を入れてみたら石にあたりそこが石地であることを知る。鋤を入れようとしても茨が多く、もはや手の施しようもない。不作、収穫が得られない。それにも関わらず、彼は種を蒔き続ける。大きな実り、想像できない形での収穫、を信じて主は種を蒔き続けてくださる。

待降節に入ってクリスマス礼拝のチラシを準備した。新聞の折り込みにしたり知り合いに声をかけたりして多くの人が教会に来られるように祈りながら配る予定である。しかし、例年一人二人がようやく来てくださるに過ぎない。

けれど、「種まく人」には不満や焦り苛立ちが感じられない。効率の悪い無駄が多く出るような種まきは止めて,確実に実を実らせる見込みのある土地に蒔く方がいいのではという声が上がる。

K牧師は「この種まく人は言うでしょう。蒔いてみなければわからないじゃないか。蒔かれた土地がその種をどう受け止めどう育んでいくか注意深く見守ってみようじゃないか。もし、神のみ心であるならば、たとえどんな反対勢力、抵抗勢力があっても最後は豊かな実りがもたらされるはずだと言いますよ。」と話された。

主イエスは人々の頑なさと拒否、挫折と躓きに向き合われ、その中にあって神の国について主イエスから教えられている弟子たちからさえも裏切られた。にも拘わらず父なる神のみ旨が実現することへの信頼を決して失われなかった。

主イエスは「聞く耳のある者」は聞いているという、私たちへの信頼を決して失われなかった。


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ルカによる福音8章1~3節 [新約聖書 ルカによる福音書]

<ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していた。(3節)

「主イエスはさらに道を進み『福音』を宣べ伝えられます。『福音』は『良き知らせ』という意味です。神の国が来た。いよいよ預言者の預言が成就する時が来た。神の御子が来られて、真の救いが差し出されているのです。」と田中牧師は書き出される。

町々村々を巡る主イエスの宣教の旅には、12人の弟子たちに加えて多くの婦人たちも仕えていた。宣教の旅には72名のものが任命され一団となって福音が広められていき、その数は更には増えつつあった。その背後には一団の日常生活を支え協力した人々、それは女性ばかりとは言えないけれど、特に彼女らの働きによって宣教活動は勧められていったことが記される。

その中でも特に、3人の女性があげられる。その筆頭がガリラヤ湖西岸の町マグダラ出身のマリア。彼女は「七つの悪霊を追い出していただいた(2節)」とあるが、「七」というのはその数ではなく、彼女が抱えていた病の大きさや多さを表し、そのことから7章に登場する「罪深い女」と結び付けられるが、それには根拠がない。

次に名があげられているのは、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ。ヘロデは洗礼者ヨハネを獄に投じたこの地方の領主ヘロデ・アンティパスである。そのヘロデの側近クザの妻が主イエス一行を支援し奉仕していた。もう一人のスザンナという女性については何も分からない。

その他多くの女性たちは自分の持ち物を出し合って一行に奉仕した。富める者はその富を惜しみなく主の御用にささげた。彼女たちはこの世の権力や価値観に従うのではなく、自由にしたたかに主イエスに従い、教会に仕え、人々を励まし、目覚めさせ、社会を変革していった。

女性たちの奉仕の事は福音書の最後の方に記される。主イエスが十字架上で息を引き取られる場面を「イエスを知っていた全ての人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。(23章)」とルカ書は記す。

またそのすぐ後には「イエスと一緒にガリラヤからきた婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香油と香料を準備した。(23章)」

そして何よりも復活の朝、彼女たちは準備していた香料をもって主イエスの墓に向かうが、墓の中には主イエスの身体は見当たらず、途方にくれる中、天使から主イエスの復活の知らせを聞く。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして墓から帰って、十一人と他の人皆に一部始終を知らせた。(24章)」

十字架の時も、復活の朝もそこに男性の姿はない。彼らは関りを恐れ、部屋に閉じこもっていた。それに比べ女性たちは恐れおののきながらも離れずそこにいた。女性が人数にも数えられず、その証言は取り上げられることもなかった時代。

そんな時代に、神は御子イエスの十字架と復活という救いの御業をこの世に告げるために力ある男性ではなく、世の中で弱い立場にあり軽んじられていた女性たちを用いられた。

12人が宣教活動の中心であったことは言うまでもないことだが、それは氷山の一角にすぎず水面下の隠れたところに、この女性たちのまた名もない人々の献身的な奉仕がなされていて、それで宣教の業が支えられていた。黙々と、み言葉に聴き続け、祈り続け、奉仕を続ける人たちによって福音の宣教は進展して行く。


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ルカによる福音7章36~50節 [新約聖書 ルカによる福音書]

<「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は愛することも少ない。」(47節)>

主イエスはいろいろな人の招きに応えて食事の席に連なられた。当時の宗教者は特にファリサイ派の人々は「清い人、汚れた人」と分け隔てして汚れた人と交わって自分たちが汚れることを嫌った。しかし、主イエスは社会から排除されている人々とも交わりを持たれた。そういう行動は、ファリサイ派の人々は秩序を乱すものとして快く思わなかった。

しかし、ここで主イエスを招いたファリサイ派の人は、その事のついて快く思わないものの、主イエスがただならぬ不思議な力を持っていることは知らされていた。彼は「いったい誰なのか」と関心を持たずにはおれなかった。そこで、主イエスに「一緒に食事をしてほしい(36節)」と願い出た。

当時巡回する教師(ラビ)を食事に招くことは一つの功績と見なされていた。ファリサイ派のシモンが主イエスを食事に招くのはごく自然の事であった。彼は主イエスが誰であるかという関心を持っていたが、主イエスを素直に「先生」と呼び、特に敵意とか悪意はなかった。

そこに香油の入った石膏の壺を持った「罪深い女」が入ってきた。どういう罪かということは記されていないが「娼婦」であったろうとされている。彼女が娼婦でなかったにしても、彼女が「罪深い女」であることは町の人々の共通認識であった。そのような者がファリサイ派のシモンが開いた食事の席に入ってきた。

「後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙で濡らしはじめ、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。(38節)」彼女は、周囲の目におどおどした様子もなく、こんなことをしてよいのかという思いもなさそうで、ただ主イエスへの思いを今表さなければおれなかった。そしてただ泣いていた。

K牧師は「彼女はすでにどこかで主イエスと出会っていたのでしょう。それまでは身も心も汚れて途方にくれていたのでしょう。けれども、主イエスと出会って変わったのです。死に繋がれていた者が命を得たのです。前を向く事さえできなかったのに、目を上げることができるようになった。祈ることすらできない者が、感謝することができるようになったのです。」と話された。

彼女は持ってきた壺から香油を流して、主イエスの足に塗った。もしも彼女が娼婦であったとすれば、おそらく香油は客が来た時のもてなしの道具であったかもしれない。それを主イエスのために注ぐということは、これからは娼婦として生きる生き方を止めるという決意でもあった。

主イエスは彼女の好意を喜んで受けられた。ファリサイ派のシモンはその様子を見て「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのにと思った(39節)」

主イエスはシモンの胸の内をご存知だった。「シモン」と呼びかけられると、借りた金を返せない二人のことを話された。一人は500デナリオンもう一人は50デナリオン。金貸しは二人の借金を帳消しにした。というたとえ話をされた。そして「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。(42節)」とシモンに尋ねられた。

そして女性に「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。(50節)」と言われた。


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ルカによる福音7章18~35節 [新約聖書 ルカによる福音書]

<それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らさらえている。わたしにつまずかない人は幸いである。 (22.23節)>

「パプテスマのヨハネは『来るべき救い主』が主イエスであるのかを知ろうとしました。弟子を二人送り、その事実を主イエスに確かめました。」と田中牧師は書き出される。

ヨハネの使いの者たちに主イエスは最後に「わたしにつまずかない人は幸いである (23節)」と言われた6章での平地の説教の冒頭のみ言葉「貧しい人々は幸いである」と重なる。さらに「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ(10章)」「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。(11章)」と、主イエスは「幸い」を繰り返して説かれる。

K牧師は「私たちを不幸へと招くために、ましてや断罪するためでなく、ほらここに幸いが、こういうのが幸いなのですよというように、私たちを幸いへと招くために繰り返し「幸い」を語られるのです。中でもここで語られている「幸い」は、最も重要な言葉であると思います。神を信じて歩むその歩みの中で、私たちが躓くことが多いからです。」と話された。

聖書が記された2000年前のことだが『躓く』という言葉は更にそれより前に使われていた。しかしその意味は「罠の中の餌をつける腕や棒の部分」という名詞であった。その「躓き」に触れると、その動物は罠にかかる仕組みである。そこから「躓き」は「罠、誘惑」と発展した。

K牧師は「この言葉の意味を知ると、主イエスがここで言われている言葉の厳しさを思います。つまり、私たちが日ごろ教会に初めて来た人を躓かせてしまったとか、誰かの言葉に躓いたとか悔やみますが、それとは少し違うように思います。」と話された。

ここで主イエスは「わたしに」と言われている。世界の情勢が混とんとして何が正しいのか、だれが本当の事を話しているのか、何も分からなくなった。そういう時「あなたの教会はどう考えているの」と教会に来たこともない人から尋ねられる。次々起こる災害に神はどう考えておられるのか「あなたの教会は…」と。

沖縄での辺野古基地反対はいつまでたっても願いがかなわない。「神は、教会はどう考えておられるのか。」神を求めてゆく中で、なぜこんなひどいことを赦されるのかと、神を非難したくなる。このように突き詰めて考えてしまうと、行きつく先は神への躓きになる。目の前の苦手な人を愛することはできないのに、神はなぜ彼を私の前に置かれたのかと神を非難する。

「わたしに」と言われるのは、すべての躓きが最終的に神への躓きに至ることを主イエスはご存知であった。そうならないためにヨハネの使いの人々に「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。(22節)」と命じられた。

来るべきお方を誰よりも明らかに知っていたヨハネでさえ、「来るべきお方はあなたでしょうか」と疑ってしまった。ヨハネの問の答えはイエスかノーのどちらかであったが、主イエスはそのいずれでもなかった。

主イエスは私の周りに起こっている出来事、それを見ればわかるだろうと言われた。ヨハネは投獄されていたので実際に見ることはできないが,ヨハネの使いの人々が見て伝えるようにと言われた。


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