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創世記 26章34~27章29節 [旧約聖書 創世記 ]

<「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、イサクが息子に尋ねると、ヤコブは答えた。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」 (27章20節)>

26章はイサクの信仰の成長を物語る。彼は信仰者の二代目として神の祝福の下に生まれた。そして様々な試練の中で神の約束によって示されている地にしっかりと踏みとどまって生きることの中で、本ものの信仰者へと成長していった。

今日の個所は最初に「リベカの計略」18節には「祝福をだまし取るヤコブ」とタイトルが付けられている。「兄に対して自動的に与えられるはずであったものを弟が受け取るようになることが、不可解にも神によって定められていて、その通りになったという話は、何を伝えているのでしょう。」と住谷牧師は書き出されている。

年老いて目も見えなくなってきたイサクはエサウに「わたし自身の祝福をお前に与えたい」と彼自身が持つ祝福を、エサウに継承したいと告げた。この祝福は父から子へと継承されていくもので、これをもって父イサクの跡継ぎとなるということである。イスラエルの民の家督の継承は単に財産を受け継ぐということではなく、継承される最も大事なものは神の祝福だった。

イサクはその祝福を長男であるエサウに与えようとした。それは自然な順当な事のように思われるが、25章のエサウとヤコブの誕生の場面において神がこの双子の兄弟について主はリベカに「兄が弟に仕えるように(23節)」と告げておられ、またその32節に空腹のエサウが一杯の煮物と引き換えに長男としての権利をヤコブに譲ってしまっていた。

しかし「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。(28節)」二人の別々の子供を愛した。しかし、神のみ心においてはどうかと言うことが問題であった。祝福はイサクが与えるものであるが、それは神の祝福であり、神が与えてくださる祝福の約束を受け継ぐものであった。

神のものである祝福を自分のものであるかのように、自分が好きなものに与えることができるかのように振る舞っていた。ここにイサクの不信仰があった。彼は父アブラハムから神の祝福を受け継ぎ、神に従って歩んできた。しかし、神の祝福を受け継がせる跡継ぎを決めるという決定的に大切な事柄において神のみ心よりも自分の思いによって行動しようとしてしまった。

イサクがエサウに祝福を与えようとしているのを知った妻リベカは、その祝福がヤコブに与えられるように策略を巡らした。エサウが狩りに行っている間に、家畜の肉で料理を作りヤコブにそれを父の所に持たせ、エサウの代わりに祝福を受けさせようとした。

「しかし、ヤコブは母リベカに言った。『…お父さんが私に触れば、だましているのが分かります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。』母は言った。『わたしの子よ。その時にはわたしが呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに、行って取って来なさい』(11~13節)」

母の言葉に、父の前に出た彼は上手に父を騙した。エサウが早く狩りから戻ったことを不審に思った父に「あなたの神、主が私のために計らってくださったからです。(20節)」と言った。


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創世記26章 15~33節 [旧約聖書 創世記 ]

<イサクは、その井戸をレホポト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。(22節)>

神はイサクに富と共に一つの問題をお与えになった。その地に住むペリシテ人たちは他所から流れてきた寄留者イサクが急激に豊かになったことに嫉妬し、敵意を抱くようになった。王アビメルクは「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうかここから出て行っていただきたい。(16節)」と言った。

それはイサクにとって、このゲラルで築いた財産を捨てて、元の遊牧の生活に戻ることを意味していた。神の祝福によって急激に豊かな富を与えられることと、それを一挙に失うことをイサクは体験した。「これらの地をすべてあなたの子孫に与える」と神は言ってくださっているものの、彼はいまだそこに地を持つことを許されず、出て行かなければならなかった。

信仰を持って生きるとはその歩みの中で富や豊かさを与えられることもあれば、それを奪い去られることもあることをイサクは知らされた。このことを通して、富は自分を本当に支えるものでなく、本当に支えるのは神の約束のみ言葉のみだということをイサクは身をもって知った。

イサクはそこを去ってゲラルの谷に天幕を張り、まずかつてアブラハムの時代に掘った井戸、ペリシテ人が塞いでしまっていたが、それを掘り直した。しかし、水が豊かに湧き出るのを見たゲラルの羊飼いたちが「この水は我々のものだ」と言って、イサクの羊飼いたちとの争いが生じた。もう一つの井戸も掘りあてたが、それについてもまた争いが生じた。

それで、彼はそこを去って三つ目の井戸を掘った。それは単にイサクが争いを好まない性格だということではなく、彼が神の約束のみ言葉に本当に信頼して生きるものとなったことの現れである。彼はこの地のどこかに必ず周囲の人々と平和に争いなく生活できる場を神が用意して下さっているに違いないと信じていた。

神の約束への信頼が、彼の生き方にこのような寛容さ、余裕を与え、また地上の財産に固執しない生き方を与えたのである。三つ目に掘った井戸については争いが起こらず、平和のうちに所有することができた。その井戸をレホポトと名付けたイサクは「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった(22節)」と言った。

主なる神が、我々を導いて、広い場所を与えてくださったとイサクは信仰を告白した。井戸を掘ったのは彼自身であるが、神の約束のみ言葉に信頼して生きるようになった彼は、自分が働いて得たものも、神の恵みと導きによって与えられたものとして感謝した。

そこから、イサクはベエル・シェバに上り、そこに祭壇を築き主のみ名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り井戸を掘った。そのイサクのもとにアビメレクが契約を交わすために訪ねてきた。

アビメレクは最初に見たようにイサクに「主が共におられる」ことを見たが、さらに彼の一連の行動を通して、彼が「主に祝福された」人であることを確信した。イサクを敵にするよりも今のうちに良好な関係を持つのが得策だと彼は考えたのかもしれない。

イサクはアビメレクの以前の行動を非難することもなく、彼を迎え入れて祝宴を設け、翌朝誓いを交わして安らかに送り出した。


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創世記26章 1~14節 [旧約聖書 創世記 ]

<イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。(12節)>

「族長イサクは、偉大な父の貴重な息子として、また陰謀を企てる息子に欺かれた父親として記憶されがちです。しかし、物語は主のご命令に素直に従う信仰深いイサクの平和で秩序のある独特な世界を描いています。」と、2月の家庭礼拝歴担当小平教会、住谷翠牧師は書き出される。

アブラハムには他にも息子が何人かいたと前の章に記されているが、跡を継いだのはイサクであった。それは財産を受け継ぐというのではなく、彼がアブラハムの信仰の継承者になるということであった。アブラハムの信仰は、「あなたの子孫は大いなる国民となり、神の祝福の担い手となり、すべての民への祝福の源となる」という神の祝福の約束を信じる信仰である。

100歳になってようやく与えられたイサクは、アブラハムにとって神の約束の実現の第一歩だった。そのように、イサクは生まれた時から神の祝福の中におかれ、彼の生涯の出発点は、こうして自分の意志や自覚とは関係なく、気づいたら既に神の祝福の下に置かれていた。

「けれど、そのように生まれたからと言って、自動的にその祝福に与って生きることができるわけではありません。神様の約束を信じる信仰を受け継ぐということは、今はまだ目に見える現実となっていない神の祝福の約束を信じてそこに希望を置いて生きるということですから、本人の中に、何かが起こらなければならないのです。」とK牧師は26章を前に話された。

アブラハムがそうであったように、イサクも家畜の群れを養う遊牧民であった。飢饉があったので彼はペリシテ人の王アビメルクが支配するゲラルに行った。その地を通ってさらに南のエジプトにまで行こうと思っていた。

しかしそのイサクに主が現れて「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたともにいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたの子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓った私の誓いを成就する。(2.3節)」と言われた。

今、彼らがいるゲラル地方を含めたカナンの地全体を、アブラハムに約束されたカナンの地を、イサクの子孫に与えると約束された。エジプトに行くのは約束の地の外に出ることであった。そうではなく、約束を信じ、約束の地に踏み留まってそこで生きることを命じられた。

父アブラハムは神の祝福の約束を信じて、行く先を知らずに旅立ち歩むことが求められたが、イサクの場合には、生まれた時からすでに与えられていた祝福の約束の下にしっかり留まる続けることが求められた。

イサクは神の命令に従った。けれども、土地の人々に妻リベカのことを自分の妹だと嘘をついた。しかし、その嘘はじきにアビメレクに見破られてしまうことになる。イサクはリベカに対する罪だけでなく、神の約束への信頼を裏切る罪を犯してしまった。

けれども、イサクの不信仰にも関わらず、神はイサクとリベカを守られる。アビメレクはこの事を通し、すべての民に、イサクとリベカ夫婦に危害を加える者は死刑に処するという命令を下した。

次にイサクが畑にまいた種が100倍の収穫を生んだことが記される。「豊かになり、ますます富栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになった。」神の祝福によって豊かさが与えられるが、しかしその豊かさは同時に信仰における試練の一つであった。


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ルカによる福音8章26~39節 [新約聖書 ルカによる福音書]

<イエスを見るとわめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエスかまわないでくれ、頼むから苦しめないでほしい。」 (28節)>

主イエスと弟子たちは嵐のガリラヤ湖を渡り切って、向こう岸の「ゲラサ」の地方に着いた。ゲラサの人々が、豚を飼っていたというところから、主イエスや弟子たちと同じユダヤ人ではない。ゲラサとは民族ではなく地名で、その地域にはギリシア人が住んでいた。

「イエスが陸に上がられると、この町のもので、悪霊に取りつかれている男がやってきた。(27節)」一行が着いた場所はその男が住まいとしている「墓場」だった。彼は自分の居場所である墓場を他人に侵されてはならないと、一行を追い出すために来たのだろう。ところが、かえってこの男に取りついている悪霊が、主イエスの癒しの力によって追い出されることになった。

しかし、男に取りついた「悪霊」とは何だろうか。2千年も前のことだから科学的に解明されないことばかりだった。どうしてそういう事が起こるのか、そういう分からないことを当時の人々は「悪霊に取りつかれた」からだと考えた。難病や障害は悪霊の仕業、人が理解できないような異常な行動をとることも、悪霊の仕業と考えられていた。

墓場の男も「長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。(27節)」それだけでなく「鎖に繋がれ、足枷をはめられて監視されていた。(29節)」とある。彼はたんに異常というだけでなく、周りの人が困るような迷惑や危害を被るような行動をとっていたのだろう。家族にとってはつらい決断だったかもしれないが、やむを得ない事だったのかもしれない。

K牧師は「聖書が語る、悪霊がとりつかれた状態は、病気や障害だけの問題ではありません。単に病気や障害だけのことならば、私たちの中には今日の聖書のみ言葉は自分には関係がないという人がずいぶん出てしまうと思います。けれども、そうではないのです。」

二浪したK牧師は、何とかしなければという思いを持ちつつも、予備校にもいかず何も手に着かない毎日を過ごしていた。そんな自分を「生きる価値がない、駄目な人間だ」という思いから抜け出すことができなった。それがある意味私に取りついていた「悪霊」の一つだったと話され、

そして、聖書を通して主イエスに出会い「たとえダメであろうと、行いと結果がなかろうと、不合理で、非論理で、利己的であろうと、あなたは生きていて良い。生きる値打ちがある、大切な私の子だといってくださる主イエスに出会って、わたしの中の「悪霊」は追い出されたのです。主イエスの価値観に自分も生きる。それが「正気(35節)」になるということなのかもしれませんと話された。

ゲラサの男の中に取りついた悪霊を追い出された成り行きを見て、ゲラサの人々は主イエスに「自分たちの所から出ていってもらいたい。(37節)」と願った。悪霊を追い出された「救い」を見たのに、出ていってくれと願った。こうして主イエスによる救いは周りの人から理解されなかった。

悪霊を追い出していただいた男は、主イエスの一行に加わりたいと申し出たが、主イエスは「自分の家に帰りなさい。(39節)」と言われた。彼には今まで住む家がなかった、しかし今は神の愛の中に彼の家がある。どこにいてもどのような状況の中でも神を信じて生きていける。その姿を、あなたの家族に見せて、その喜びを分かち合うようにと言われた。

彼は「立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。(39節)」


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ルカによる福音8章22~25節 [新約聖書 ルカによる福音書]

<弟子たちは近寄ってイエスを起こし「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。(24節)

人生はしばしば船旅にたとえられる。大きなしっかりした船、確かな仕事、豊かな財産、揺るがない地位。嵐が来てもびくともしないそれ等を備えて船を整えたうえで、主をお迎えする。必要は満たされ、その上に信仰、これで「鬼に金棒」。そのように考えがちだ。

しかし今日の個所では「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので船出した。(22節)」とはじまる。イエス・キリストが乗っておられる舟に弟子たちが招かれ、彼らはその主を信じて舟に乗り込み、ともに旅をする決意をする。

「舟」という文字が使われていることから、吹き降ろされる突風に舟は木の葉のようにもてあそばれるだけだった。主イエスがおられるから嵐を避けることができるわけではなかった。主イエスに従っていても嵐は来るのだと気づいた弟子たちの中には、ともに舟に乗ったことを後悔した者もいたかもしれない。

大波をかぶり慌てふためく弟子たち、激しい嵐の中で何事もないかのように眠っておられる主イエス。「弟子たちは近寄ってイエスを起こし『先生、先生、おぼれそうです』と言った。(24節)」

主イエスは9章で「人の子には枕する所もない」と言われる。狐や鳥でさえ帰るところがあるのに自分には安心して眠る所がないと言われている。それなのに、嵐の舟の中で安らかに眠っておられる。K牧師は「表面的には矛盾するかもしれませんが、しかしむしろそこにイエス・キリストのこの地上での生活の秘密があったと思うのです。

主イエスにとって『故郷』というのは天であり、天の父の懐こそ主イエスが心から憩うことのできる場所であります。ところがそのお方が私たちのために故郷を離れて、この地上に来られ、しかも寄留者として過ごされました。天に属されるお方だからこそこの世のどんな嵐にもびくともされることはないのではないでしょうか。」と話された。

宗教改革者のカルヴァンはこの物語を指して「人間としてのイエスは眠っておられるけれども、神としてのイエスは目覚めて活躍しておられるのです」と言った。主イエスは自分の責任を放棄して眠っておられるのではなく、それを知らずに弟子たちは主を起こした。主の眠りは弟子たちへの無関心ではなく、父なる神への絶対的な信頼と安心を象徴していると言える。

「イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは『あなた方の信仰はどこにあるのか』と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、『いったいこの方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った。(25.26節)」

7章から続く「イエスとはいったい誰か」という問いの流れの中にあり「自然をも支配するお方である」というのがその答えの一つになるのかもしれない。


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