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コリントの信徒への手紙Ⅱ 5節11~15節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<その一人の方はすべての人のために死んで下さった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きることなのです。 (15節)>

「パウロはここまで、彼の使徒性を否定する人たちを念頭に置いて語って来ましたが。いよいよその締めくくりの個所となります。」と久野牧師は書き出される。

「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。(11節)」と書き出される「畏れ」は、神への恐れへの勧めではなく、むしろ、私たちは神に一切を知られ、何も隠し立てする必要がないという、平安のうちにおかれていることへの畏れである。

十戒のお話をされたC先生が「『殺してはならない』をもって死刑制度に反対している方もおられると思います。でも、残忍な犯罪に遭った被害者を思う時あなたは心からそう言い切れますか。だから『殺してはならない』と私たちはそう自分に言い聞かせ続けなければならないのです。」と言われた。ぐさりと来た。自分の心は全く正義から遠く離れている、そのことを知られるのは困る。

パウロたちのことを非難し、誤った信仰をコリント教会に持ち込んだ人々は、顔(外面)はきれいに装うけれど、心(内面)を整えることができていなかった。豪華な衣をまとい、学問に励み、社会的に高い地位に立ち、彼らは本当の自分を見破られることを恐れていた。神にすべてを知られていることを知らず、安心感を持つことが出来なかった。

パウロはかつて教会を先鋒にたって迫害者した。しかし、復活された主イエス・キリストに出会い、伝道者になった。パウロは自分の過去を振り返ってテモテに書き記している。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしはその罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本になるためでした。(1テモテ書1章)」

パウロはキリストによってすべてを知られ、そしてそのすべてを含めて受け入れられている。「神にはありのままに知られている。(11節)」と、パウロは記しC牧師も「そうなのです。コリント教会の人々も、あなたも私もすべて神に知られてしまっているのです」と言われた。

「ありのまま」の自分とは、今の状態のままにとか、自分らしくとか、欲望のままにということではない。こんな私を、こんなに罪深い私であるにもかかわらず、主イエスの眼差しが注がれ、神によって生かされていることを知る、そのありのままの自分である。

パウロはコリント教会の人々に、迫害者の先鋒に立っていたこんな自分にも神の恵みが現れ、主イエスの憐みの眼差しが注がれていること。そして装われた外面ではなく、キリストによって変えられたパウロ自身の内面を、心を知ってほしいと切に願った。

そのパウロの気持ちは「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。(14節)」となり、キリストの愛に駆り立てられ、突き動かされ、それが何よりの原動力だと言った。

「それはまた『もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きる』との、パウロの献身の表明でもあるでしょう。」と久野牧師は結ばれる。

すべてを知っていてくれるお方がいるのだから、見栄を張らず正直に生きようと思うのだが。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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コリントの信徒への手紙Ⅱ 5節1~10節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命にのみこまれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。(4節)>

「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされていくと先に聴きました。パウロはこの希望の根拠に更に迫ります。外なる人、すなわち『地上の住みかである幕屋が滅びても』『神によって』造られた『永遠の住みか』が『備えられている』と説くのです。」と久野牧師は書き出される。

昨日の個所までは何とか分かったような気がするが、今日の個所は難しい。K牧師は「この個所は死を超えた先の事です。誰もが、パウロ自身もそうですが、具体的なことを語ることは出来ないのです。死を超えた先、死の先を聖書はあると言います。しかし、その死の先に何があるのか、聖書は空想めいたことは語りません。」と言われたが、なんか難しい。

パウロはコリント1の15章で、種を蒔くことにたとえて語る。蒔かれる種は種という形だが、蒔かれた後は土に埋もれて死んでしまったように見えるが、そこから芽が出て花が咲く。それは種とは全く違った形である。死者の復活もこれと同じだと語る。「自然の命の体」から「霊の体」に復活すると語った。しかし、それ以上のこと「霊の体」については空想になるので語らなかった。

「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。(9節)」生きている時、死につつある時、死んだ後の時にパウロは区別をつけない。いつでも、「主に喜ばれるものでありたい」とパウロは願い、それがキリスト者の生き方だと語った。

このあたりの風習では、お盆には家々の軒に死者が家を間違えないようにと提灯が下げられる。仏壇にも提灯が飾られ、お供え物が並び、ろうそくと線香に火がともされ、ありがたいお経が、唱えられる。それは粛々としていて、子供心に「あの世」があると思い込ませるに十分だった。

目に見えるもので死後の世界を判断していたが、死の先は、ほんとは誰も語れない。その上でパウロは、神への信頼に生きること。わたしを愛して下さる主が「生きるにも死ぬにも」必ず一番良い世界を用意して下さっていると信じるのがキリスト者の信仰だと説いた。

1節に戻ると「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。(1節)」

地上の住みかはテントの暮らし、それに対して天の住みかは「建物」である。その上わたしたちは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえ (2節)」「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいております(4節)」そういう日々である。そのような者にパウロは重ね着を勧める。「天から与えられる住みかを上に着たい(2節)」「天から与えられる住みかを上に着たい(4節)」と。

「上に着たい」という言葉が重ねられる。今は下着のままだが、その上から上着をまとう。すっぽりそのまま天の住みかである上着をまといたい、下着を「脱ぎ捨てる」のではなく、「幕屋」にあって苦しむことの意味をパウロは深くとらえた。

けれど「体を住みかとしている限り、主から離れていることも知っています。・・・そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。(6.8節)」と、ここでは体を住みかとしていることは、主から離れていることだから、その住みかから離れる事を望んでいる。不思議なことに、ここでは重ね着よりも、一回脱ぐことをパウロは語っている。よくわからないようになってきた。

K牧師も「難しいですね。パウロは比喩でしか語ることが出来なかったのでしょう。ここは「『だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい(9節)』と、これだけはぶれずにいたいという思いが語られているのです。」と言われた。

難解だったが、見栄えを良くしても結局自分は「土の器」であり、衰えゆく「外なる人」であり、幕屋に住む者だと言う事だけは知ることが出来た。

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コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16~18節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 (16節)>

「パウロは・・・自分が弱い存在であるにも関わらず、決して落胆しない理由を述べるのです。誰であれ『外なる人』としては、すなわち肉体的に、時として精神的にも衰えてゆくことを避けることは出来ません。しかし『外なる人』は日々新たにされてゆくと、語るのです。」と久野牧師は書き出される。

「落胆」はしたくないと思いつつ、引きずられて、失望し絶望する。「クリスチャンになれば落胆することはないというわけでなく、どのような状況でもいかに落胆せずに歩めるかが大事なのだと思います。」と元長老のSさんが重い病の中で言われた。

「外なる人」は衰え、「内なる人」は新たにされる。という言葉は説教の中でもよく聞く。それは、肉体の衰えは止められないが、精神は若々しくいることが出来るという意味ではない。ここには「衰え」と訳されているが前の聖書では「朽ちる」と訳されていて、受け身の言葉なので「朽ちることを身に受ける」という意味になる。先の「土の器」同様、壊れて朽ちるものだと言う事になる。

「だから、ここでパウロがいうのは老人のことではありません。老人も若者も、生まれたばかりの子供でもみんな該当するのです。罪びとの死すべき私たちは、誰もが朽ちていく道を辿らなければならないのです。けれど、パウロはここで終わりにしているのではありません。外なる人が朽ちるとしても、内なる人は日々新たにされると説いているのです。」とK牧師は話された。

「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。(コロサイ書3章)」

コロサイ書2章では、洗礼によってキリストと共に古い罪の自分が死に、キリストと蘇り、罪赦されて新しい人になるという救いの言葉が語られている。そして3.4章では、救われた者としていかに歩み、何を聞き、何を見るのかと説く。それが日々新たにされる「内なる人」の歩みであると。

「私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(17.18節)」

しかし、この度の大雨の被害に遭われた方々を思うと、いったいそのような状況の中で自分はこのような思いを持ち、また人にそれを説くことが出来るだろうか全く自信がない。では、教会で説かれるみ言葉は、机上での言葉遊びに過ぎないのか、教会はサロンなのだろうかと思ってしまう。

K牧師は「パウロが『軽い艱難』と言っていますが、それは『重みのある永遠の栄光』に比べたらうんと軽いからです。道が塞がれていると思ってしまいますが、その先には想像を絶することがあるのです。そのことが目の前の艱難を軽くするのです。」と説かれた。

朽ちたもの、過ぎ去るものに落胆するのではなく、そういうことを覚えつつも、信仰の眼差しを持ち、永遠に存続する見えないものに目を注ぎ、自分自身朽ちるものであることを認めなければならない。けれど、その朽ちる土の器の中に、永遠に存続する宝、主イエスによる新しい命が、罪赦された命が入っているらしい。

「すべてに勝る望みがここにあります。」と久野牧師は結ばれている。

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コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7~15節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(9節節)>

「先にパウロは委ねられたつとめが、どれほど栄光に満ちたものであるのかを語りました。しかし彼の日々は、弱さと苦しみに満ちていたのです。敵対者はそれを、使徒にふさわしくない姿とみなしました。この現実を彼はどのように受け止めていたのでしょうか。」と久野牧師は書き出される。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方にくれても失望せず(8節)」大きな苦難を受け、逃げ場のない所まで追い詰められた。しかし、ギリギリのところで大丈夫だった、今もそしてこれからも大丈夫なのだとパウロは語っていく。苦難の中で自分の強さによって切り抜けること、自分自身が強くなれますようにと祈り求めることを勧めているのではもちろんない。

大丈夫だという確信は「わたしたちはいつもイエスの死をまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死に曝されています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために(10.11節)」イエスとの関わりに生きているからなのだと。

10節の「イエスの死」と、11.12節に登場する「死」は元の言葉では違う意味を持つ。「イエスの死」は強い意味を持ち「殺害」とも訳される。だから、主イエスの十字架の死は間違いなく「殺害」であり、私たちはそれを常にまとうものだと強調される。

主イエスは屈辱の苦難を受け、殺害ともいえる死があり、そして三日目に蘇られる。主イエスがたどられた歩みは、最終的には、苦難で終わらず、死で終わらず、命が現れたのである。

だから、苦難はギリギリのところで大丈夫なのだ「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせて下さると、私たちは知っています。(14節)」と言った。

K牧師は「このことに、希望をかけるのが信仰です。自分の強さに頼むのではなく、神の力に希望をかけるのです。弱さの中に働く神の力を信じるのです。主イエスを復活させるほどの神の力です。私は弱いかもしれない。けれど弱い私の中で強く働く神の力を信じるのです。私たちは弱いけれど強いのです。ここに希望をかけることが出来るかどうかが問われています。」と話された。

大雨で大きな被害に遭った方々のことが連日報道され心が痛む。遠くにいて、また体力もなく自分には祈ることしか出来ない。愛する人を失い、家を失い、田畑を壊滅されてしまい途方にくれている方々を主が顧みて、必ず希望の道へと導いて下さることを信じている。主はそのようなお方だと。

パウロは自分の弱さの意味を「このような宝を土の器に納めています」と言い表した。「宝」について、私たちの罪が赦され救いが与えられたという善き知らせの「福音」だと考える人、また、信仰は私たちが自分で持ったものではなく与えられたものだから「信仰」だと考えている人。また「使徒の働き」「神の栄光を悟る光」だという人もある。

K牧師は「これらすべてです。神様からよきものを頂いた。それが宝です。その宝をどこに治めるかが問題なのです。『土の器』に納めていると言い、『宝』と『土の器』が対比します。神様の大事な宝を私たちは『土の器』のような、脆くて壊れやすい器に納めているのです。」と話された。

「もし、私たちが弱さを知らない強い器だとすれば、福音は私たちの高ぶりによって輝きを失うでしょう。しかし、キリストの福音は、弱さの中でこそ輝くのです。」と久野牧師は結ばれる。

一日中今日もひどい暑さだったが、明日もまたらしい。災害に遭われた方々や、復興に働く方々、ボランティアの方々を主が守って下さいますようにお祈りしています。

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コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章4~6節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。 (9節)>

「ここでパウロは、新しい契約に仕えるつとめがどれほど栄光に満ちているかを、旧い契約のそれと比べながら語ります。」と久野牧師は書き出される。

日本キリスト教会の「小信仰問答」の、第一問は「あなたは、何のために生きていますか」で、その答えは「創造主である神を知り、神を愛し、神に仕えて、みさかえをあらわすためです。」とある。洗礼を受けるための洗礼準備で、最初にS牧師がここを読まれ、キリスト者の生きる目的は「神の栄光」を表すためですと言われた時は、どういうことか分からなかったが、「栄光」という言葉は、日常使われないけれど聖書にはよく登場する。

旧い契約に仕えるモーセが、再授与された掟の板を携えてシナイ山から降りて来た時、彼の顔は光を放っていた。「モーセは自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、何と彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった(出エジプト34章)」

パウロは、モーセのこの出来事に「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて(7節)」いるならば「霊に仕える務めは、なおさら栄光を帯びているはずではありませんか(8節)」と「死に仕える務め」と「霊に仕える務め」の二つに現れる神の栄光の差を人々に示そうとした。

石板に刻まれた旧い契約に仕える務めは、人を律法に従わせ、人を罪に定める務めであったため、パウロは「死に仕える務め」だと言った。一方「霊に仕える務め」は、人を義とし、つまり人を神の前で義しいとすることのための務めだとパウロは語った。

K牧師は「霊に仕える務めとは、聖霊なる神の働きに身を委ね、導かれて、何が神の御心であるかを知り、その御心に従って歩むことです。自分自身で救いを獲得したり、義となるのではなく、神が私たちを変えて下さるのです。その神の御心に従う時、私たちは神の栄光に包まれ、神の光を宣べ伝えることが出来るのです。世に栄光を示すことが霊に仕える務めです。」と説かれた。

パウロは、自分たちは「霊に仕える者である」と断言する。それは、人を義とする務めではあるが、それは、パウロが誰かに善悪の判断を下すというのではない。人はあまりに罪に汚れていて誰もが神の前に立つことが出来ない。「人を義とする務め」とは、人を神の前に立たせることである。神以外の誰も、自分自身の努力をもっても、人を義とすることが出来るのは神だけなのである。

神の前に立つ者を神が一方的に神のものにして、義しい者として認めて下さった。けれども、神は聖なるお方であるから、罪にまみれた者をそのままにしておくことは出来ず、独り子主イエスを十字架に架けられて、私たちの罪を贖って下さった。

解説書を拾い読みしながら、キーを叩いているのでわかったようで頭が混乱している。「霊に仕える務め」が私たちにあるとパウロは言っているが、人を義にするのは神の業ではないのか。私たちは神に義とされたというなら、神の民に相応しく、品行方正にならなければいけないのかとか。

旧い契約は、神の御心であり、律法を守れば神の御心に添う生き方ができると教えられ信じて来た。しかし、律法を守ることが生きる目的になってしまい、神の御心に耳を傾けることが出来ず、彼らは主イエスが神の子であることを信じることが出来なかった。

そういう律法に支配されている生き方が、キリストの十字架において全く変えられてしまった。「私たちの旧い人は、キリストとともに十字架につけられ死んでしまった。(ローマ書4章)」

み言葉を聞いて、それに従う日々を送ることが人生の目的になればと思う。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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