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コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章6~10節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」といわれました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 (9節)>

「この世の力とキリストの力は対立関係にあるように思います。この世に生きているわたしたちはできれば両方の力に頼りたいと欲張りです。また弱さを肯定しながらも、それをキリストの力に委ねないならば、キリストの恵みはそこに働く余地はありません。」と石飛牧師は書き出される。

偽使徒たちの信仰は「強さを誇る」信仰であった。「強さ」とは、能力、説得力、見栄えの良さ、財産の豊かさ、軍事力、逞しさ、力強さ、知識や知恵の量と質、宗教的特権あるいは体験、血筋の正しさなどなどである。

彼らはこの「強さ」でもって力強い伝道をした。信じれば病気が治る、誰よりも優れていると認められる、さらには世間からも一目置かれた存在になるという風に伝道した。港町として栄え、様々な文化や価値観、思想などの蓄積、それらをもって富におぼれて行くコリントの価値観と共鳴した。

そう記していると、現代日本の姿、そして「ファースト、ファースト」と得意げに叫ぶ大統領を選んだ大国の姿と一致する。

そのような強さを誇る彼らの目には、パウロは愚かで弱々しいものでしかなかった。そんな人がなぜ使徒なのか、そんな人に福音を語る資格があるのかとコリントの信徒たちを扇動した。彼らの非難の言葉はパウロにも届けられた。

「わたしを過大評価する人があるかもしれません。あの、啓示されたことがあまりにも素晴らしいからです。それで、そのために思い上がることのないように、私の身に一つのとげが与えられました。(6.7節)」

パウロは自分に与えられたとげを離れさせてくださいと三度主に願った。文字通り三回だけでなく、非難の言葉を受けた時、また自分の姿を思う時、事あるごとに病気を治して下さいと祈り続けた。

「すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内にやどるように、むしろ喜んで自分の弱さを誇りましょう。(9節)」

「パウロは主の恵を十分受け取った人でした。彼のとげは覆われて神の偉大な力で満たされたのです。全能の主が、私たちの弱さの中に共におられ、主の御力で覆ってくださるからです。『わたしを強めて下さる方のお陰で、わたしは全てが可能です。(フィリピ書4章)』」と石飛牧師は結ばれた。

10代はハリウッド映画に夢中だった。強大な先進国の文化に圧倒され、すべての価値観はそれが基本だった。いや、自分だけでなく今思えば日本中がハリウッド映画の価値観で突っ走っていた。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1~5節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せて下さった事と啓示して下さった事について語りましょう。(1節)>

「パウロは主が啓示して下さった霊的体験を語ります。彼は体験した自分のことを第三者的に『キリストに結ばれていた一人の人』『その人』『そのような人』『このような人』と呼びます。それは神がそのようにされたという受け身の人を誇るという意味でしょう」と石飛牧師は書き出される。

パウロがこの手紙を出すきっかけとなったのは、コリントの教会にいた偽使徒たちが、パウロの使徒職を疑い、コリントの信徒たちにもそう教えたからであった。コリントの人々はパウロのことを敬愛していたので、そのような教えを排除するべきだったのに、消極的な態度をとっていた。

彼らに反論も出来ず信徒たちの中には流される者もいた。このような中でパウロはこの手紙を書き記した。だから、この手紙はパウロの深い部分の感情が吐露されている。彼は愛するコリントの人たちに奉仕を続けていくために、彼の使徒職の信憑性を擁護する必要があった。

「誇っても無益ですが、主が見せて下さった事と啓示して下さったことについて語りましょう。(1節)」と、12章は書き出される。

コリントの人々が、名声や見た目の成功、人脈やこの世的なことにおいて誰が正統な使徒であるかを見定めていた。それで、パウロは自分のことを彼らの基準に沿って自分自身を推薦せざるを得なかった。だから、無益なことと分かりつつ自分の事を誇らなければならなかった。

11章においては、いかに自分が弱かったのかを誇った。そして12章に入っても、この弱さについて話していく。その初めに、自分が受けた幻と啓示について語りだす。

パウロは自分のこととして語るのをあえて隠して話すのは、自分自身に人の注目が寄せられることを避けるためであった。「キリストにあって」と、キリストの御名に栄光を帰している。自分には誇るべきものが何一つないが、キリストにはすべて栄光と誉れの尊厳があるということだ。

パウロが14年前にという出来事について解説書ははっきり上げていないが、使徒言行録14章ではないかとされている。

「ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちが取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルバナと一緒にデルベへ向かった。」

K牧師は「パウロは超人ではないかと思ってしまいますが、もしかしたらこの死んだようになっていた時に、第三の天まで引き上げられていたのかもしれません。」と話された。

パウロがこのことを語った時代、第一の天は、私たちが見上げることの出来る天で、大気圏というものであり、鳥が飛ぶ天であり、第二の天は「天体」と呼ぶところのもので、星があり宇宙があるところである。そして第三の天がパラダイス、主の御座があるところとされた。

「主イエスは3人の弟子だけを連れ、山上でご自身が栄光のお姿に変わられるのを彼らに目撃させました。主はパウロにもこの世の人が見ることの出来ない第三の世界を見せられました。

・・・主がその人に特別な啓示をされることと、彼らに特別な使命を与えられることとは直接に結びついています。神の御計画の中に入れられる時、誰でもそれだけで人は、神の前で尊ばれ用いられるのです。」と石飛牧師は結ばれる。

2000年前の人々が、月の満ち欠けをはじめ、太陽の動きなどどのように理解していたのだろうか。

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コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章30~33節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<誇る必要があるなら、わたしの弱さに関わる事柄を誇りましょう。 (30節)>

「わたしの弱さを誇りましょう。こう言ってパウロは臆病にもこの世の権力者の手から逃れたことのある事件を告白しました。」と石飛牧師は書き出される。

使徒言行録9章によると、パウロは主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込むダマスコ途上で復活の主イエスに出会う。そして「サウル(パウロ)、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という主の導きによってパウロは回心する。そして数日の間、あちこちの会堂で主イエスのことを宣べ伝えた。

それから「かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼らを殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。(使徒言行録9章23~25節)」

パウロはこの時のことを弱さだといった。反対するものに堂々と胸をはって福音を説くことをせず、命をねらわれていることを知って、弟子たちに促され、夜の城壁伝いに、籠に入ってつり降ろされるという惨めな宣教者としてのスタートであった。

「パウロはこれを弱さだと言いました。そのような弱さは信仰の未熟さからくるものかもしれません。まだ、洗礼を受けたばかりで世の権力の前に弱い自分が無防備でいることなど出来なかったからです。」と石飛牧師は説かれる。

ホームレス支援の給食はカトリックの教会によって会場が提供されている。来場者のうちホームレスの人は50%くらい、残りは100円を頂く生活保護受給者である。自分は友人の勧めでこのボランティアに参加したものの最初のうちは、彼らはもっと前を向いて歩くべきだと思っていた。しかし、関わりを持つうち、精神的な心的な弱さを持っている方が多いと感じるようになった。

例えばお金の管理ができず、賭け事やお酒にはまる人。人と接することが苦手で仕事が長続きしない人。子供の時からの学習障害で学校に満足にいっていない人もいる。そのような弱さによって周りの者に愛されたという実感を持てず、また自分自身も自分の弱さを受け入れられない状態の人が多い。自分の弱さや惨めさ、愚かさを誇りと思うのは難しい。

でも、パウロの言うようにその愚かさ、惨めさ、身体的な弱さも神が与えて下さったものだと信じる時「誇り」となるのかもしれない。神が、その人が歩む道を示して下さっているのだから、ただ従えばいいのだと。神は、その独り子を十字架に架けられてまで、この惨めな自分を愛して下さっているのだと信じることだとパウロは説いている。

きょうの給食はカレーだった。少し暇になった時、カトリックの洗礼を受けたばかりのTさんが「御御堂でのお祈りは三つだと教えられた。」と言われた。それを聞いたノンクリスチャンのHさんが三つを頭で思い巡らしていた。それで「三つの願い」という物語を思い出した。

ある貧しい夫婦が旅人に宿を提供した。すると、彼は「この手袋に三つの願いを言うと叶えてくれます」と言ってお礼に手袋を置いて行った。夫婦は「お金が欲しい」と願った、すると息子が機械に挟まれて死んだという知らせが入った。泣き叫ぶ夫婦に息子の生命保険が差し出された。

夫婦は「も一度息子に合わせて下さい」と願った。すると毎夜、機械に挟まれ、血みどろになった息子が枕辺にやって来て眠ることも出来なかった。夫婦は「もう十分です。息子をあなたのもとに」と願った。

主に願うことは考えすぎると難しくなる。Hさんはこの物語を聞いて頭を痛めていた。自分の弱さや愚かさを知って、そのことを神さまに話すことから祈りは始まるのかもしれない。

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コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章22~29節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。(23節)>

「キリストに仕えるということはどういうことなのでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストに仕えることは、キリストの命じられることをすることです。」と石飛牧師は書き出される。

「彼らはヘブライ人なのか、わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか、わたしもそうです。(22節)」パウロはまず自分がユダヤ人であることを弁明する。偽使徒たちは自分がユダヤ人であることを自慢し、だがパウロはユダヤ人ではないと話していたのかもしれない。しかし、パウロはれっきとしたイスラエルのベニヤミン族である。

彼らは自分たちのことを「神の僕」と呼び、自分がどのようなことを行ってきたか、その成果を吹聴していた。キリスト者の奉仕は数や量ではなく、その奉仕が神の名をあがめるものであるかどうかが大事であった。しかし、コリントの人々は彼らによって、そのような価値観を持つようになってしまっていた。間違った方向に進む人々にパウロは「気が変になった」ように訴えた。

パウロは「苦労したこと、暴力を受けた事、難船したこと、その他多くの難にあったこと、飢えた時、乾いた時、凍えた時、教会の心配事、弱っている人、躓く人に対して心燃やす時・・・あらゆる場面においてパウロはキリストを宣教するゆえに苦難を受けた事、また積極的に苦労したことなどを取り上げます。」と話した。

使徒言行録にはフィリピで牢に入れられたこと、そして鞭打たれたこと、ルステラでは石打にあった事が記録されているが、記録されていることはごく一部なのかもしれない。もっと多くの苦しみをパウロは味わっていたのだろう。

このような艱難だけでも尋常ではないのに、「その上に、日々わたしに迫る厄介ごと、あらゆる教会についての心配事があります。(28節)」

各地に置かれている教会にはいつも問題が起こるので、その事の一つ一つに耳を傾け心遣いした。私たちの教会の牧師もいつも忙しい。先日M牧師が会議中に倒れられた。減り続ける信者数について時には牧師に厳しい叱責の声が飛ぶ。彼が来ないのはあなたのせいだと。

「誰かが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。誰かが躓くなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。(29節)」

K牧師は「私はここにとても感動します。すべての教会のことをパウロは気にしています。死に直面するような困難に頻繁に遭っている時、人はまず心を冷やすことを考えるでしょう。自分の感情が問題によって動かされないようにと思うはずです。

けれども、パウロは人と距離を置くのではなく、人の中に身を置き、落ち込む時には落ち込み、悲しみの時には悲しみ、泣く時には共に泣きました。喜ぶときにはそれを隠そうともせず喜び、誰かがパウロの言葉に躓いてしまった時には、パウロの心は激しく痛んだのです。」と話された。

パウロが誇りとしていたのは、こういう弱さであった。彼の信仰の根幹のところにあったのは、キリストと同じような道を歩むというものであった。キリストの死と復活の蘇りに与ることが彼にとっての望みであったが、このような道を歩むには、自分は到底相応しくない罪びとだと思っていた。

「誇る必要があるなら、わたしの弱さに関わる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存知です。(30.31節)」

「弱さを誇る」のは簡単ではない。大袈裟に自分のことを卑下する人がいるがそれではないらしい。

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コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章12~21節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。 (12節)>

「パウロは教会に悪の入り込んでくる隙を与えないよう、キリストの自己犠牲的な宣教をコリントの信徒に向けて、今後も続ける決心であることを告げます。それは、教会から何らかの報酬を受けていたらしい(20節)偽使徒たちとパウロたちとの働きは根本的に違うのだということを実践をもって証しするためなのです。」と石飛牧師は書き出される。

パウロは彼らのことを「偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っている(13節)」と言った。そして彼らはサタンに仕える者であり、サタンは光の御使いにも変装できると言った。
主イエスも「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。(マタイ書7章)」と言われている。

K牧師は「悪魔という言葉のもともとの意味は『輝く者』です。ですから、サタンが槍を持った黒い恰好をした者というイメージは間違いです。そうではなく、本当は醜いものを美しく彩ることがサタンの性質であり、また働きです。私たちが気をつけなければいけないことは、最初から醜いものでなく、魅力的なもの、いかにも美しく見えるものであります。」と話された。

いかにも好ましく思われるところに誘惑がある。コリントの人々は彼らの話しぶり、エルサレムにいる12使徒たちとのつながりなどに引き込まれて、彼らの存在を受け入れてしまっていた。

パウロはコリントの人たちを愛するその熱情に動かされて、彼らが偽使徒であることを告発した。そして、「もう一度言います。だれも私を愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、私を愚か者と見なすがよい。そうすれば、私も少しは誇ることが出来る。(16節)」と熱情に動かされて今度は自分のことを話してゆく。

「愚かな者には、その愚かしさに従って答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵ある者と思わないだろう。」と箴言26章でも記される。たとえパウロが正しいことを話しても、コリントの人たちは愚かな議論の渦中にあり、パウロの言葉が耳に入らなかった。そして、パウロがそもそもどのような人物なのか、その証明書のようなものがどうしてもほしかった。

私たちの教会でも起こっていることだが、その人が何を発言し、何を行っているのかを見ようとしないで、職業や学歴、前はどの教会であったか、何歳なのかとかに拘ってしまう。外見によって判断してしまうから、好もしい姿をしているサタンを見抜くことができないでいる。

パウロにとってはそのようなことはどうでもよかったし、そのようなことを話すのは、主にあって誇るのではなく、肉によって誇ることになるからであった。けれども、教会の人々が求める証明書のようなものを提示することで彼らが主のもとに立つのなら、「愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。(21節)」と言った。

コリントの信徒たちは、実際に偽使徒たちの奴隷になったわけではないが、彼らの教えに傾倒してしまっていた。コリントの人々が惜しみなく、間違った福音を教える彼らを援助し続けるのは、事実上騙され、盗まれているのと同じであるとパウロは指摘した。

「コリントの人々は自分を誇る偽使徒たちに惑わされ彼らに従いました。彼らのしたことはまるで横暴な君主ですが、教会は彼らの正体を見極められず、我慢して耐えていたのです。パウロは戦うために彼らの愚かさに合わせて自分を誇ります。・・・それは霊的戦いではなく、肉的戦いをするということです。」と石飛牧師は説かれる。

これから自分の話をするといったパウロは「言うのも恥ずかしいことですが、私たちの態度は弱すぎたのです。」と話し始める。輝かしい業績を話すのではなく、自分がいかに弱かったかについてこれから誇ることを告げた。

弱い時、何も考えられない時、後で考えると確かに聖霊を頂いていたのだと気づく。

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