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コロサイの信徒への手紙 4章7~11節 [新約聖書 コロサイの信徒への手紙 ]

<彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。 (8節)>

パウロはこの時囚われに身であり、大変苦しい状況にあった。その中にあって「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい(2節)」と勧めた。それはパウロ自身が祈る中で、神の恵みと出会い、生きる力を得ていたからだと思われる。パウロはコロサイの信徒たちも同じ恵みの中を生きて欲しいと願っていた。

また、パウロは、自分が解放されるように祈ってほしいと願った。それは、自分を生かしているキリストの恵みを一人でも多くの人に伝えたいという思いからであった。「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい(5節)」「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい(6節)」と勧めた。

「この個所は、様々な人がコロサイ教会のことを覚え、手を差し伸べていたことがわかる個所です。ティキコとオネシモは、コロサイ教会に遣わされていますが、パウロのことだけでなく、宣教の状況や、他の教会にいる信仰者たちのことを語ることで、福音が力強く働き、進展していく様子を伝えたはずです。」と南牧師は書き出される。

ティキコとオネシモの二人は、パウロの信頼を受けており、パウロの様子を口頭で知らせていた。異邦人の彼らに対して、パウロと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコ、バルバナの従兄弟マルコ、ユストと呼ばれるイエスは「割礼を受けた者たち(11節)」で、すなわちユダヤ人であった。けれども、彼らは割礼を誇りとせず、十字架のイエスを誇りとする者たちであった。

「この世には、私たちが変えることの出来ない理不尽な状況があります。しかし、その中にあって心を腐らせるのではなく、キリストに救われた者、天に国籍を持つ者として愛を携えて生きるのです。」と南牧師は説かれる。

昨日は礼拝後、十戒の一つである「安息日」について学んだ。七日目には休むことが求められていると話されたが、地質調査員のTさんが、自然災害に狩り出されている中「休む」なんてことはとてもできない。理想論ばかりではキリスト教が広まらないと反論された。

捕えられたパウロがどういう拘束状態であったのかは知らないが、彼に従った3人の元ユダヤ人に悔いはなかったのだろうか。その家族は・・・と俗っぽいことを考えてしまう。

昨日の礼拝説教は「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れて見なければ私は決して信じない(ヨハネ書20章)」と言うトマスに、復活の主イエスがきて真ん中に立ち手とわき腹に触れるようにと命じられる。そして「わたしを見たから信じたのか、見ないのに信じる人は幸いである。」と言われた。

祈りは聞き届けられ、主なる神は導いて下さる。その確信が大事であった。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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