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エレミヤ書 31章10~14節 [旧約聖書 エレミヤ書]

<諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを、散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」(10節)>

「北王国はアッシリア帝国によって(BC722年)、南ユダ王国はバビロンによって(587年)滅ぼされてしまい、神の民は散らされてしまいました。この悲惨な出来事は何を語っているのでしょう。歴史を支配している神などはおられず、国と国、民と民との力関係によって歴史が動かされているということなのでしょうか。」と2月の家庭礼拝歴担当、志木北伝道所、三好明牧師は書き出される。

そして「そうではありません。主なる神は、契約を破った神の民を裁き、彼らを諸国の民の間に散らされました。しかし、そのお方が再び彼らを集め『羊飼いが群れを守るように』守って下さるというのです。」と続けられる。

再び北イスラエル王国のサマリアの山々にぶどうの木、すなわち祝福を受ける国民を植えることになるであろうと、エレミヤは告げる。 ブドウの木を植えた者がその実の初物を味わうことになるだろうと。その日には、城壁を見張る者たちが、北イスラエル王国の山々に立って「さあ、立て、我らはシオンへ上ろう、我らの神、主のもとへ上ろう。」と、呼びかける日が来ることを告げた。

分裂したイスラエルが、この機に一つにされるだろうという嬉しい預言であった。しかし、北イスラエルの復帰は実現することなく滅亡した。アッシリアの政策によってサマリア地方には多くの非ユダヤ人が入植し、彼らとの結婚によって、サマリア人は正統派のユダヤ人から異民族との混血の地として蔑まれてゆく。エレミヤ書はどういう形で実現したのだろうか。

それはともかく、捕囚の民をバビロンから連れ戻し、離散したイスラエルの民を地の果てから呼び集めると預言は続く。目の見えない人も、自力で歩けない人も、身ごもっていても、いかなる状態であっても、彼らは大いなる会衆となってイスラエルに帰って来ると。

「諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。『イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。』(10節)」

主の御言葉にイスラエルの民はエルサレム神殿に向かって喜び歌いながら、流れをなして歩を進める。彼らは、穀物、酒、オリーブ油、羊、牛を神の恵みによって与えられ、その魂は潤う園のようになり、再び衰えることはないと告げられる。

次々と与えられる嬉しい預言に人々はどんなに喜んだことだろうか。彼らの通信手段は伝言であったので、中には「本当か」と疑い、信じることの出来なかった者もいたかもしれない。しかし反面、今の我々よりも「真偽」を見分ける信仰の力があったような気もする。

情報が溢れて何が何だかわからない昨今だが、聖書を通して自分の立つ位置が示され、心が静められてゆくことを主に感謝します。

日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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エレミヤ書 31章15~17節 [旧約聖書 エレミヤ書]

<主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから。(15節)>

ラケルは、イスラエルの祖ヤコブの妻で、ヨセフとベニヤミンの母であったが、下の子を生むと間もなく死んだ。北イスラエルの民がアッシリアに強制移住させられた時に、人々はラマに集められ、そこから連れて行かれた。

彼女は子供の成長を見ることなく死んでしまった悲しみと、今度は子供たちの滅びを見て悲しむ。その悲しむラケルが子供たちの帰還を見て、今度は喜びの涙を流すと預言される。この世のラケルを思い浮かべるとこの詩の理解が難しいが、そのような狭いとらえ方は間違いなのだろう。

「この15節の預言が新約においてベツレヘムで幼子を虐殺された母親たちの嘆きとなって成就しました。神の民にはたえず嘆きがあります。」と三好牧師は説かれる。

「さて、ヘロデは占星術の学者たちに騙されたと知っておおいに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。(マタイ書2章)」

エレミヤの預言は続く。「泣き止むがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある。と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」と。

ヘロデによって子供たちを殺されたベツレヘムの母親たちは「子供たちが殺された。もう何の希望もない。」と泣いた。ラケルの夫ヤコブの子はイスラエル12部族を構成し繁栄したが、時過ぎて、分裂し、異教の大国によって蹂躙され壊滅し、大人も子供も異教の国の捕虜となった。

I牧師は「ラマ(後のベツレヘム)で集められ、ここから異国に捕虜として連れて行かれた。従って、ヘロデによる子供たちの虐殺はベツレヘムが経験する初めての涙ではない」と言われる。そして「ヘロデがベツレヘムの子供たちを虐殺した事実は歴史書にはない。それは、書くに値しない日常的な出来事であったからだ。」と説かれている。

主イエスがお生まれになるずっと前の時代、人の数にも入らない女子供や老人が、簡単に始末されることは日常的なことだったんだろうと推察できる。しかし、それにもかかわらず、エレミヤは彼女たちの嘆きをそのままにはしなかった。その嘆きの向こうに解放があるのだと預言を告げる。

マタイ書の記者は、ベツレヘムの悲しみを終わらせるために、主イエスが来られたことを伝えるために、エレミヤ書31章を引用した。

子供の成長を見ることなく死んだラケルが子供(子孫)の成長を見守っていたから、子供たちの状況を悲しまずにはおれなかったんだろう。すると、ユダヤ教はそういう信仰もありなのだろうか。すなわち「ご先祖様が見てなさる」という仏教のような信仰が。

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エレミヤ書 31章18~22節 [旧約聖書 エレミヤ書]

<エフライムはわたしのかけがえのない息子。喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられないと、主は言われる。(20節)>

「『エフライム』は北イスラエル王国のことを指します。旧約聖書の列王記を読むと、偶像であるバアルを礼拝したアハブ王やその妻イゼベルなどの影響によって、北イスラエル王国の民がいかに主に逆らって歩んだかということが分かります。」と三好牧師は書き出される。

「アハブ(874~853年在位)のように、主の目に悪とされることに実を委ねた者はいなかった。彼はその妻イゼベルにそそのかされたのであった。彼は、主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリ人と全く同じように偶像に仕え、甚だしく忌まわしいことを行った。(列王記上21章)」

I牧師は今日の個所の背景に申命記の出エジプトの体験があると説かれている。

エジプトで奴隷だった民はモーセに導かれてエジプトを出るが、彼らが導かれたのは約束の地ではなく荒野であった。水も食べ物も乏しくなる中で、民は神を呪い、「我々はエジプトの国で死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた(出エジプト16章)」とつぶやいた。そのように不平を並べる民に、神は天からマナを与えて養われた。

彼らが約束の地、カナンに導き入れられたのは40年後であった。エジプトとカナンは隣の国、歩いていけばたった2週間の距離なのに、民は40年間も荒野をさまようことになった。

しかし、彼らは「最初にエジプトを出た仲間の多くは荒野で死んでしまった。これが救いなのか、神は私たちを愛しておられるのか。」とは言わなかった。反対に、彼らは「この40年間、纏う着物は古びず、足がはれることもなかった。神は荒野に共にいて下さったのだ。」と神に感謝した。

それから、彼らは約束の地に定住し農耕生活を始めた。すると、人は倉を立てて作物を蓄える知恵を得た。やがて彼らは蓄えに頼り、神を忘れ始め、偶像を崇拝するようになった。体力に恵まれた者は豊かになり、持たない者はますます貧しくなるという社会的不公平が生まれてきた。

そこから振り返った時、彼らは「荒野の方が良かったのではないか。そこには神との生き生きとした交わりがあり、人と人が助け合う生活があった」ことに気づき、物質的な豊かさが人を幸福にしないことに気づいた。

カナンの地に入ったのが1250年、ダビデ、ソロモンの栄華の時代を経て、約300年、北イスラエルの王となったアハブだけではなく、イスラエルの信仰はすっかり歪んでしまっていた。

「どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。(18節)」民の悔い改めに、主は「エフライムはわたしのかけがえのない息子。喜びを与えてくれる子ではないか。」と彼らを受け入れられる。

それにしても、神による「懲らしめ」は厳しすぎる。出エジプトを果たしたものの、約束の地カナンを見ることなく死んでしまった人々の無念さを思えば・・・。

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エレミヤ書 32章6~15節 [旧約聖書 エレミヤ書]

<「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち、封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る』と言われるからだ。」(14.15節)>

紀元前597年、ユダの王はバビロンに捕虜として連れ去られたが、ダビデ王家はゼデキヤにより継承され、また神殿も無傷であった。王と神殿がある限り、人々は国の回復と神の保護を期待することができた。しかし、587年エルサレムは破壊され、王家は断絶し、神殿は破壊され人々は希望のかけらも見出すことができなかった。神との契約は完全に破棄された。

しかし「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる(31節)」。エレミヤは主が告げられた新しい契約の約束を人々に伝えた。神殿は灰燼に帰し、民の多くは殺害され、異教の国に連行される絶望の中で、神は自ら破壊されたものを再び回復されると啓示された。

「新しい契約を結ぶという驚くべき恵みでした。この契約にはかつての契約とは異なる重大な点が二つありました。一つは『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す』と言うことです。古い契約には律法が石の板に刻まれていましたが、新しい契約は民の心に記されるのです。

もう一つは『わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない』ということです。古い契約は民の罪を明るみに出すものでしたが、新しい契約は民に罪の赦しを与えるものでした。この新しい契約の預言はイエス・キリストによって成就しました。」と三好牧師は説かれている。

「新しい契約においては『神が語り掛け、人が聞く』ということ自体が廃止され、神の意志は直接人の心におかれる。神がその意思を人の心に置くとき、人はその心の中に神の意志を担い、神の意志のみを欲するようになるからである。」とI牧師は説かれている。

589年、バビロン大軍がエルサレムを包囲するなか、エレミヤは王宮の獄舎に捕らえられていた。彼がバビロン軍の勝利を預言し、ゼデキヤ王は捕囚とされると預言したからであった。そのエレミヤのところに従兄弟ハナムエルがアナトトの土地を買い取ってほしいと願い出た。

アナトトはバビロンの占領下にあり、土地は無価値なものであった。国の滅亡を目前にエレミヤの生存さえ保証されてない状況である。けれども、エレミヤはハナムエルの申し出が、主の言葉によるものだと知っていたので、無価値なその土地を銀17シュケルで買い取った。

主の命令は不条理である。バビロンは明日にも都を攻略するための土塁を築いている。まもなくこの都は、剣、飢饉、疫病、攻め込んでくるカルデア人の手に落ちようとしているのに、「あなたはわたしに、銀で畑を買え、証人を立てよというのですか」とエレミヤは主に抗議する。

主は「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことがひとつでもあろうか。」と答えられ「この地は廃墟となろう。しかしその廃墟をわたしは再び蘇らせる。人々が再び土地を売買する平和をこの地に与える。」と告げられた。

敵軍の剣の音や馬のいななきが間近になり、恐怖に逃げ惑う人々の喧騒、街中が大混乱する中、神殿はいつものように破壊されることは想像できない姿で立つ。けれど、やがてすべてが破壊され、再び蘇る日が与えられるという預言者の言葉は「預言者的完了形」というそうだ。

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エレミヤ書 32章6~15節 [旧約聖書 エレミヤ書]

<「わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。」(40節)>

主の言葉を信じ、アナトトの土地を買ったものの、エレミヤは不安になり祈りをもって訴えた。すると主はエルサレムの都とユダ王国にたいする審判を再び告げるとともに、それらの回復をも再び力強く約束された。

「主の約束は外面的な経済の回復だけではありませんでした。『わたしに従う心を彼らに与え』というように、民の心を本来のあるべき方向に変える内面的な心の変革を伴っていたのです。新しい契約は民の心を主に従う方向へと向けるものです。」と三好牧師は説かれる。

エレミヤ32章を現在の自分たちの問題として受け止められて、A牧師が説教されている。

「・・・新会堂を建てようと決心したとき、最初はお金もないのにと出来るわけがないと思っていました。それなのに、だんだんと神の計画は新会堂を建てるということではないのかという気がしてきたのです。けれど、現実にはほとんどお金はない。どこかからの献金が・・・という保証もありません。

けれども、建てることが神の命令、神の計画であるならばそれに従うしかないと思うようになってきたのです。神の計画と現実との厳しい状況の中で私たちはいつも苦しんでいる。神が大丈夫だ、心配するなと保証して下さるのと、銀行の通帳に充分お金が入っているのと、どちらが安心なのでしょうか。

必要な物は神が備えて下さると信じて神の命令通りにするのか、それとも充分なお金があるから神の命令通りにするのか、お金が貯まってから神の命令通りにするのかどっちなのだと問われるのです。私たちは信仰を持ち、真の神を信じています。私たちの信仰はその辺の偶像礼拝とは違うのだと教会ではよく言います。

けれども、わたしたちの信仰は現実の苦しい状況に左右されるのです。通帳の残高に左右される信仰でしかないのかもしれません。神の命令を聞くよりも、神の言葉に聞くよりも、真っ先に通帳に聞くような信仰でしかないのかもしれません。残高が少なければ何もできない信仰でしかないのかもしれません。」

常に通帳に伺いを立て、算段しながらしか前へ進めない者には心当たりが大いにある説教である。教会員が減少する中、どうにかして主のみ言葉を知らない人にお届けしたいものだと思うけれど、できない。それで、教会員が増えているという教会を真似ようとして失敗する。

無力なままで、主に委ねなさいと言われても、しどろもどろの話に誰も耳を傾けてはくれないだろうと思ってしまう。私たちの国でクリスチャンが増えないのは、クリスチャンという人たちの信仰が大事なところで、通帳に相談するからかもしれないと思った。

人生も最終章に入ったので、もっと真剣に祈りを捧げなければならないと思った。

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