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コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章4~6節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さいました。文字は殺しますが、霊は生かします。(6節)>

「パウロは自身の働きによって生み出されたコリント教会こそが推薦状ですと断言しましたが、真意を伝えることの難しさも分かっていました。ですから彼は、なぜ教会が推薦状なのかについて語り始めるのです。」と久野牧師は書き出される。

最初に彼は「わたしたちはキリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあると言う事ではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。(4.5節)」と言って、自分の働きは神から与えられた力によるものであって、決して宣教の実りを誇っているのではないと強調した。

そして「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さいました。 (6節)」と語る。

旧約聖書と新約聖書は、古い約束と新しい約束で分けられている。約束と契約では、多少意味が違う。約束は一方的な約束もあるが、契約は基本的に双方の間で結ばれる。聖書の契約はまさにそうで、神と人間との間で結ばれた契約である。

古い契約の一つに、出エジプト記20章の「十戒」がある。十戒は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(2節)」で始まる。

イスラエルの民はエジプトの奴隷生活から故郷に向けて旅をしている途中であった。神が急に十戒を人間に課したのではなく、神が救い出して下さった、だからあなたがたはわたしを神とし、十の戒めを守って生活しなさい。これこそ人間として最も幸いに生きる方法なのだと神は言われた。

そして、具体的に一つ一つをモーセに語られた。その後「モーセは戻って、主の全ての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。(24章3節)」ここに契約が締結した。

ところが人々はこの契約を守ることが出来なかった。旧約聖書はその事が繰り返し述べられる。何度も彼らは神から離れてしまい、罪を犯してしまう。けれど、そういう人間を神は諦められることなく、また見放されることもなく、新しい契約を結んで下さった。それが新約聖書である。

主イエス・キリストが弟子たちと守られた最後の晩餐で「『取って食べなさい、これは私の体である。』また杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。』(マタイ書26章)」と言われた。これが新しい契約である。

パウロが資格を得て仕えているものとはこの「新しい契約」である。主イエスが古い契約を守ることが出来ない私たちのために血を流してまで結んで下さった契約である。

十戒は二枚の石板に書かれて与えられていた。パウロがいう文字とは十戒のこと、古い契約の事であった。十戒そのものは神から与えられた大事なものだったけれど、十戒を守ることが出来なかった者から見ると、そこに書かれた文字は人を生かすものではなく、人を断罪するものになった。

「しかし、霊によって記される『新しい契約』は、キリストの十字架の血によって立てられた契約であって、それは心の板に記され、罪の赦しを告げると共に、どこまでも人を『生かす』契約にほかなりません。」と久野牧師は結ばれる。

私たちの教会では礼拝の中で十戒を唱和している。そのたび自分の罪深さ、貧しさを思う。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章1~3節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。(3節)>

「パウロに反対する人たちは、彼は自己推薦していると非難しました。確かに自分で『自分を推薦』しても、疑いを晴らすことは難しいでしょう。では教会による『推薦状』があればどうでしょうか。」と久野牧師は書き出される。

パウロはコリント教会の人たちに対して「私たちの推薦状はあなたがた自身です。(2節)」と言った。パウロにとっては教会員の存在そのものが、牧師であることの証となるとパウロは言った。

しかし、ある人々はパウロには「推薦状」がないことを非難した。当時の習慣では、ユダヤ人が他の集会に訪れ、人々に講和をするときは「推薦状」が必要とされた。私たちの教会では、牧師が何らかの都合で説教できない時は、牧師の推薦した人から説教を聞くことになる。パウロは各地を旅して伝道して回った。その際の「推薦状」の有無を彼らは問題とした。

しかし、パウロはコリント教会の初代牧師であった。コリントの人々はパウロの伝道によってキリストを信じキリスト者になった。そのことは彼らが一番よく知っていることであった。それなのに「ある人々の扇動に、あなたがたは私が伝えた信仰から離れてしまうのか」と彼らに問いかけた。

そして「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。(3節)」と言った。

手紙を書くお方は「キリスト」、キリストが書かれる「推薦状」である。

聖書での「推薦」は、「共に」と「立つ」の二つの意味を持つ合成語である。二人の人、つまり推薦する人と推薦されるものが共に同じ所に立つと言う事になる。けれど、パウロはそれは人間同士が立たせ合うことだとは考えてはいない。キリストが神の霊によって立たせられるのだと説いた。

パウロは、教会やキリストを迫害する迫害者から、その罪を赦されてキリスト者になり、伝道者になり、コリント教会の初代牧師になった。彼はキリストが神の霊によって立たせられて立ち上がることができた。同様に、コリント教会の人々がパウロによってキリスト者になったのも、キリストが神の霊によって彼らを立たせたのである。

パウロもコリント教会の人々も共に立つことが出来、そのことが「推薦状」になり「手紙」となる。K牧師は「すべてのキリスト者も同様です。手紙の差し出し人はキリスト、宛先は『すべての人々』です。そういう手紙になるのです。あなたも私も教会も。」と説かれた。

しかし、そうなると自分が手紙になるので、手紙を読んだ人は、私のことが分かるのではなく、その手紙の内容を通してキリストの事を知ることになる。私を見て周囲の誰がキリストを知るだろうか心もとない限りだ。

K牧師は「私たちはキリスト者らしく歩みたいと願うあまり、そうなれない自分を恥と思い、キリスト者であることを隠そうと思うことがあります。けれど、立派さで自分を誇ることはできないのです。むしろ、自分の罪や弱さを認め、自分こそ救いが必要であり、聖霊の導き無くしては歩めないと、心から認め神の救いを信じることが「キリストの手紙」になると言う事なのです。」と説かれた。

神を愛し、隣人を愛することが出来ますようにという祈りが自分には求められている。

日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。


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コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章12~17節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。(17節)>

「パウロは、旅程変更の真意を語ります。・・・決してマケドニア行きを優先したわけではなく、コリント教会の現状を伝えてくれるはずのテトスに会えなかったため、『不安の心を抱いたまま(13節)』一刻も早く彼からの知らせを聞きたいと願い、トロアスでの宣教も断念して『出発しました(13節)』」と久野牧師は書き出される。

テトスはパウロがコリント教会宛てに書いた手紙を携えてコリント教会を訪問した。パウロとしては、その結果が気になっていた。テトスを彼らが受け入れたか、それとも拒まれたか。そのことを彼にあって聞くことができると思っていたのに、会うことができなかった。今日の個所のタイトルは「パウロの不安と安心」とある。

パウロはその不安の中で「神に感謝します。(14節)」という言葉で語りだし「神は私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至る所に、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」と続ける。

「勝利の行進」というのはローマ帝国が良く行っていた、凱旋式のことを表すのだろう。凱旋式は戦争で勝利を治めた者たちに行うセレモニー。将軍は白馬に乗り、その後を兵士が行進する、それだけでなく、戦いに敗れた兵士たちを鎖でつなぎ、人々に勝利の喜びを味わわせた。

パウロがいう将軍はキリストだとすると、コリントの教会やパウロは凱旋の列のどこを歩いているのだろうか。将軍と共に戦った兵士なのか、それとも鎖に繋がれている兵士の中にいるのか。キリストの十字架への戦いはお一人で勝利して下さった。その勝利によって私たちが罪から解放され、キリストの僕(奴隷)になったというなら、私たちは鎖に繋がれた者ということになる。

そのことをパウロは記さず「救いの道を辿る者にとっても、滅びの道を辿る者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです(15節)」と語る。顧みて自分は日常生活において「キリストの香り」を放っているだろうかと考えると、それはないとしか言えない。

しかしよく読むと「香りを献げられる」とあるように、香りによって伝道するというよりも、私たちの香りがキリストによって神に献げられるということらしい。

「奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部をささげ、祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主に献げる宥めの香りである。(レビ記1章)」旧約時代のイスラエルの民は、罪を犯し、罪の赦しを得るために、彼らの貴重な財産であった家畜の初子を献げた。

貴重な財産を献げ、赦しを与えられても、彼らはまた罪を犯し続けていた。それでは罪が白紙になることはなかった。そのような人間のためにキリストが罪を代わりに負って下さり、屠られる家畜となって下さり、焼き尽くされ、煙となって、宥めの香りになって下さった。

K牧師は「私たちが身に帯びている香りも、この香りです。別の香りではありません。何か特別な香りを自分自身の力によって放つ必要はないのです。キリストの香りを混じりけなく身に帯びるのです。」と話された。

「神の言葉を誠実に」「神の御前でキリストに結ばれて」と2章が結ばれる。キリストの香りを頂き、その香りに何も混ぜない、受け取ったものをまっすぐにそのままにする。パウロはキリストの勝利の行進に加えられている者とされていることに感謝し、不安を取り除いた。

自分がその凱旋式の列に加えられているなんて考えたこともなかった。

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コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章5~11節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。(10節)>

「コリントの教会の中に、パウロのことを誹謗する人がいました。そのためパウロは悲しむのですが、彼だけでなく、悲しみは教会全体を包み込んだのです。しかし、その後、立ち帰りを促す教会の働きにより、その人が悔い改めに導かれたとの知らせが、テトスによってパウロのもとにもたらされたのです。」と久野牧師は書き出される。 

パウロは「わたしは悩みと憂いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。(4節)」と書き「悲しみの原因となった人がいれば、その人は私を悲しませたのではなく、・・・あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。(5節)」と続ける。「涙の手紙」にはどういうことが書かれていたのか知ることは出来ないが、誰か個人のことを具体的に書いたのだと思われる。

K牧師は「彼がどういう問題を起こしたのかは分からないけれど、パウロがコリント教会を立ち上げた後、彼は教会において指導者的立場にいたのだと思います。その中で、彼はパウロがかつて教会の迫害者だったことに拘ったのでしょう。その結果、コリントの教会員がパウロから離れただけでなく、彼らをキリストの十字架による救いからも離れさせてしまったのでしょう。」と言われた。

パウロの「涙の手紙」は、コリント教会の人たちの心を動かし、人々はこの問題を引き起こした人を拒むようになったので、パウロは「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。(6節)」と言った。そして「むしろ、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して力づけるべきです。その人を愛するようにしてください(7.8節)」と訴えた。

パウロは罰するのではなく、赦し、愛するようにと、コリント教会の人々に求めた。「赦し」とは、不問に付すとか、水に流してなかったことにするということだと思うが、「赦し」はそれだけでは止まらず、その人を力づけ、その人を愛するように、すなわち恵みを与えることだと解説書は説く。

パウロはそれだけでなく、彼がこれからも一緒に教会生活を送ることができるようにと願った。それは、人間的なやさしさの言葉ではなく、一緒に礼拝ができるか、一緒に神を賛美することができるか、一緒に祈ることができるか、そのことが重要なのだと言った。もしも彼が教会から脱落してしまったら、それはむしろあなたがたの責任になるだろうと言った。

「パウロに、また教会にとって大切なことは、自分の過ちを悔いる一人の兄弟を失わないと言う事です。もしかしたら彼は、自分は教会に留まる資格がないと自らを責め、信仰さえ危うくなるかも知れません。ですから『その人を愛するように』と教会に強く求めると共に、自らについても『あなたがたが赦す相手は私も赦す』『キリストの前で』と明言するのです。」と久野牧師は結ばれる。

愛するようにと求めた後でパウロは「わたしたちがそうするのは、サタンに付け込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。(11節)」と忠告する。「サタンの一番の目的は人間を神から離れさせることですから」とK牧師も警告される。

もし、問題を起こした彼が教会から去ってしまうことになり、それで教会が混乱したら、それはサタンの勝利であり教会の敗北である。このことは、私たちの教会でも度々経験する。愛せない、赦せない、そういう所でサタンの勝利を見てきた。

パウロは「キリストの前で」赦すと言った。「前」とは「顔」のことで、キリストの眼差しが注がれている中で、人を愛し、赦すことを明言したパウロに今を生きる者も見習わなければならない。

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コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章15~22節 [新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ]

<わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。 (19節)>

「彼はコリントの人々との信頼関係の揺らぎを案じ、敢えて『このような、計画をたてたのは、軽はずみだったでしょうか』と問いかけます。彼の心の内には、この計画についての強い確信がありました。・・・その思いを伝えたかったに違いありません。」と久野牧師は書き出される。

パウロは「あなたがたがもう一度恵みを受けるように(15節)」というのは、コリント教会がすでに恵みを受けているが、また恵みを受けることが必要だということだろう。すべての教会はキリストの恵みによって誕生するが、恵みはこの時だけで、後は自力で・・・というものではなく、恵みは常に求め続ける必要がある。特にこの時コリント教会にその必要性を感じたのだろう。

ここでの「恵み」とは、「互いに自由で強制できない、思いがけず示された誠実さの事。報いとは反対に無償の性質を持つ(聖書辞典より)」とあった。「恵み」は何かをしてその報酬を求めるものではない。一方的に神から頂く善きものだということになる。

パウロは彼らが恵みを受けることができるよう「そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのです(16節)」と、計画した。しかし、計画通りにはいかなかった。その理由はここに示されていない。

その訳は、パウロによってコリント教会が設立し、最初は彼の教えに従っていたがもうその必要はないとして、彼の訪問を歓迎する空気があった。また、彼はコリント教会からの献金を募り、それを他教会に持っていく算段なのだと思う者がパウロの受け入れを拒んだのかもしれない。

パウロは「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、私にとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのでしょうか。(17節)」と、人間的な考えと、神の御計画の違いを訴えた。

私たちの考えや計画は、うまくいく場合もあれば、そうでない時もある。また、ある人にとって良いことが他の人にはそうでない時がある。「然り」と「否」とが混在している。

しかし、神は「あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。 (19節)」とパウロは言った。

パウロは自分が立てた計画は「然り」と「否」が同居しているかもしれないが、私たちの語った神の言葉は曖昧なものではなく「然り」であり、主イエス・キリストは「然り」である。なぜなら主イエス・キリストにおいて「然り」だけが実現したからだとパウロは言った。

主イエスの十字架の死は信仰を持たない者からすれば、敗北であり、活動が挫折した結果だと受け取られているかもしれない。優れた道徳的な教師、政治体制を批判する革命家だったけれど、結局体制に負け十字架に架けられた。復活がなければそう受け止められてしまったかもしれない。

しかし、キリストは三日目に蘇られた、復活によって「否」ではなく「然り」であることがはっきりした。それは、キリスト者が伝道するため、教会生活をするため、信仰を持ち続けるためのすべての土台であり、礎である。

「神の救いの約束はキリストにおいて『然り』すなわち成就されました。この『然り』がパウロを誠実にさせているのです。」と久野牧師は結ばれた。

明日は、お料理教室を友人たちと予定していたが、それどころでなくなり中止とした。たくさん買ってしまった野菜とお肉をどうしようかと悩んでいる。人が立てる計画にはこんなこともある。

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